2025年10月20日月曜日

AAEEネパールプログラム2025報告書(5)「幸福と教育の間にみえたもの〜ネパールでの経験から得た学び〜」東京外国語大学 言語文化学部英語科1年 舘山佳歩

  
去年までの私は、受験生として典型的な日本の教育を受けてきた立場にあった。大学に行くことしか考えず、行けなければ自分の価値は証明できないと思っていた。英語教育学に興味はあったものの、学力やテストの点数、日本全体の英語力にばかり意識が向き、「教育」そのものの意味や教育と幸福、教育と社会の関係について深く考えたことはほとんどなかった。今回のネパールプログラムを通して、教育は必ずしも個人の幸福に直結するものではないという現実を目の当たりにした一方で、その価値や重要性を実感する経験となった。このプログラムは、私の教育観を大きく揺さぶるものになったと感じている。

 プログラムを経て私が考える教育の定義は、単に勉強することではなく、社会の中で生活を営むための方法を伝え、文化を継承する営みも含むものである。ネパールは、多くのコミュニティを含み、コミュニティごとに独自の文化を持つという点で、一種の多文化社会であるとも捉えられる。2週間の滞在を通して、その土地や共同体の価値を理解し、生活を支える力を育むことも教育の一部であると感じた。教育は学力向上だけを目的とするものではなく、社会や文化の未来に関わる行為だということを、今回の研修で痛感した。

 都市部の私立学校クムディニホームズでは、ダンスルームや美術室、ホテルマネジメントのコースなど、多様な学びを通して生徒の視野を広げる教育が行われていた。都市部の教育は、すでにある生活の質を前提として成り立ち、学ぶことは人生の充実や自己実現のための手段と位置付けられていた。つまり、教育は幸福な暮らしをより豊かにする存在である。しかし、私たちが発表を行った際、生徒たちはあまり話を聞いてくれず戸惑いを覚えた。発表者としてどのようにプレゼンテーションを行うべきか考えさせられたと同時に、知識や経験を与える教育が必ずしも生徒自身の幸福感と直結するわけではないことも実感したことを覚えている。

 一方、マイダン村の学校では、電気もなく天候次第で学校が閉まることもあり、5年生までしか学べないため高学年になるには村を離れなくてはならない。生活基盤自体が脆弱であり、学ぶこと自体が幸福に直結するわけではない。しかし、訪問して実際に授業をしてみると、子どもたちが私語を慎んで真剣に話を聞く姿があった。また、村の人々に教育についてインタビューをしていくと、教育をどれほど受けてきたかには大きく個人差があれど、誰もが教育を受けることの重要性を語っていた。都市部の教育が幸福を前提に学びの質を高める「ケーキの上のイチゴ」のような存在であるとすれば、農村部の教育は生活や社会の基盤を支える「皿」のような存在であり、長期的には社会や共同体の未来を支える力となることを実感した。

 Bandipurの公立学校では、教育と幸福の関係の複雑さをより痛感した。高校に通う生徒たちは、多くが大学に行きたいと考えておらず、わずかに希望する者も海外志向だった。「学ぶため」ではなく「海外に行きやすくなるから」という理由で学ぶ生徒が多く、中には「どれだけ学んでもNepalでは意味がない」と語る者もいた。英語で授業を受けることが当たり前の環境で、国際的活躍を視野に入れた教育が行われていても、学ぶこと自体が必ずしも幸福につながるわけではない現実を痛感した。私は日本で過酷な労働に直面する外国人労働者の状況を知っていたため、「日本に行きたい!」と希望を語る生徒に対して、心から「ぜひおいで!」とは言えなかった。教育と幸福が単純に結びつかないことを改めて認識した瞬間だった。

 この研修を通して得た最大の学びは、教育自体が幸福と必ずしも一致しないことを理解したうえで、その重要性を再認識できたことである。教育は選択肢や可能性を広げ、社会や文化、共同体の未来を支える力を育む営みであり、目先の幸福に直結しなくとも深い意味を持つ。正直なところ、私にとっては典型的な教育そのものの意味や教育と幸福に関して考え方が大きく変化する経験でもあり、「教育とは何か」という問いに対する明確な答えがわからなくなり困惑したのも事実である。しかし、その困惑の中にこそ教育の本質を考える契機があったように思う。教育は個人の学力向上だけでなく、社会全体の未来を支える行為であり、幸福に直結しない教育の存在を理解することは、教育の本質を再定義する第一歩だと考えた。目に見える成果や幸福だけに縛られない教育の意味を考え続けることにこそ意義があると知り、今後も教育の本質について考え続けたいと改めて感じた。


AAEEネパールプログラム2025報告書(4)「異文化理解とは何だろう」 筑波大学 国際総合学類1年 野澤沙奈

  異文化理解とは何だろう。そもそも、何のために文化を学ぶのか。アメリカを筆頭に、保守主義が世界中に広がっている。日本も例外ではない。自国中心的な考え方が勢いづく中で、他国、ひいては多文化を理解することに価値があるのか。ネパールに行き、短期間の生活を通して、自分なりに考えた。

    ネパールで出会った人は自分とあまりに違いすぎて、到底理解できないと諦めそうになった。私と比べて、遠慮や躊躇がなく、そして人との壁を作らない。例えば、毎夜ギターをかきならし、歌ったり踊ったり、肩がくっつきそうな距離で話しては大きな笑い声をあげる。私の心が折れそうになったのは、マイダン村での歓迎会のダンスで、他の人に気圧されながら一生懸命参加していたとき、ネパール人学生の一人が私を押しのけて輪の中心に入っていったことだ。私が努力して踊っても、本気で楽しめる他の人と同じ熱量ではないし、同じ経験はできない。それでも努力する意味があるのか、よく分からなくなった。

      考えが変わったのは、OKバジさんの話を聞いてからだ。バジさんが教えてくださった、相手との信頼の大切さは強く響いた。ネパールの人と一緒に活動するとき、バジさんは取り付けた約束を証明するポストカードを手渡すという。資金の用途、期日など、相手との信頼がなければ、一緒に活動できない。気になったのは、ネパールの人の時間の感覚と日本人との違いだ。例えば、学生の一人は集合の5分前に出発する私を引き留めて、自前のアクセサリーを紹介してくれるといった具合で、スケジュールが正しく運ばない。私は正直、時間を守らない人を信用するのは難しい。しかし、バジさんは、村の家の昼食が予定から30分以上遅れても動じず、村の人を信用して「もうすぐできると言っていますから待ちましょう」と私たちに声をかけた。その後、学校を訪ねるとバジさんが村の子供たちと手遊びをしていた。私たちには恥ずかしそうにしていた子供たちが、声をそろえて歌い、バジさんの一挙手一投足に注目し、笑っている。その姿が感動的で印象に残った。そして、他者を信頼することは、自分が他者から信用を得ることに繋がるのだと感じ、まずは自分から心を開いてみようと思った。翌日、学校を訪ねたとき、私は子供たちに変顔をしたり、追いかけっこをしたりと行動で示した。子供たちは少しずつ慣れてきて、構ってほしそうに何度も私の名前を呼んでくれた。このことを自信にして、ネパール人参加者に対しても、違和感を覚えたことを自分で吞み込まずに、共有するようにした。最後に贈ってくれた手紙に書いていた私の人物評価を見て、相手を信頼して自分を表現してよかったと思えた。

     今回のテーマは教育だったが、多文化共生教育はこれから特に重要になると考える。ネパールの学生と一緒に歌い踊り、村のダルバートを手で食べて、訪問した学校の子供たちと遊んだり話したりすることで得たものは、日本の学校では手に入らない。一方で、ネパールの教育現場では、文化の多様性を感じさせるものが多くあった。自分の民族の伝統衣装を着ている生徒や、校舎にネワール族の彫刻を飾る都市部の学校、参加者の学生も公用語のネパール語、英語以外に、自分の民族の言葉を話すトリリンガルだった。村には、目に見える形の文化多様性はなくても、文化的に豊かだった。例えば、農村部出身の参加者が、村で炊飯に使う道具について、都市部では圧力鍋を使うそうだが、それより美味しいと嬉しそうに教えてくれた。親から子へ、生活を通じて継承される「教育」が、村の文化の豊かさを作り出していた。このように、国家の中に多様な文化を含む国であるから、他人との壁をつくらず、他人に頼り、頼られるという関係性を築くことが容易なのだと考える。

     ネパールプログラムを通じて、相手を信頼し、また信頼してもらうために、他文化を理解するという異文化理解の価値を再認識した。近年の政治トレンドである自国の過ちを外国人のせいにせず、互いに信頼しあうには、多文化共生教育が不可欠であり、ネパールの教育現場や生活環境で見た文化的な豊かさの伝え方を私たちは考えるべきではないだろうか。


AAEEネパールプログラム2025報告書(3)「異国の地で起こった自分の進化」筑波大学 医学類3年 西村奈緒

 

「お願いだから邪魔しないで。まだこの余韻に浸っていたい。」

これはある映画のセリフであり、まさに、微分のずれもなく、今の気持ちを表してくれる。ネパールから帰国して二日後、私は、大学の固い椅子に座って、胎児循環、とかいう今の私にとっては無意味な単語を聞きながら、この文章を書いている。心がまだ何かを感じ続けているのに、感情はまだ過去にとどまっているのに、周りの全てが私を日常に引き戻そうとしてくる。昨日だけでも、写真とともに12日間の日々を思い出せたことを心からよかったと思う。

このプロジェクトで出会った人々から一つ、学んだことがある。

それは、何か行動を起こし、成し遂げるには、そしてそれを継続していくには、自分の内発的な動機付けによる信念と、人との信頼関係が不可欠であるということ、だ。

ネパールで学生寮を営み、学生の支援をしている岸さん、全てを投げうってネパールに200以上の学校を建設したOKバジさん、このプロジェクトを長年続け、準備してくださった関先生、シティーズさん。彼らは口をそろえて、こう言う。

「この活動は自分の幸せのためにやっていることだ。」

「協力してくれる人がいるから、活動できている。彼らには本当に感謝している。」

他人のためを思って行動することはいいことかもしれない。しかし、期待通りの反応が得られなかったとき、行動したことにすら気づいてもらえなかったとき、その動機を他人に委ねていたら、行動を続ける意味がそこにはもうなくなる。

行動すること自体に自らがモチベーションを感じ、心から楽しんでいるということ以外に、純粋で力強い動機はない。利己的であること。利己的であると同時に利他的であること。そこには真の意味で、お互いの幸せが成り立っていることを彼らとの出会えたことで深く理解できた。 


このプロジェクトのテーマは「教育」であった。小学校、中学校、高校と学校の勉強をがむしゃらに頑張って来た私にとっては、テストでいい点を取る、いい成績を取る、偏差値の高い大学に入ることが目標であった。このプロジェクトに参加して人生で初めて、教育とはなにかという問いに向き合った。

学校教育は教える事、育てる事を目的とした明確な場であるから、注目されやすい。しかし、人が学ぶのは学校だけではない。ネパールのマイダン村を訪れたときにそのことを強く感じた。村の様子を説明するならば、安定した電波がほぼないことを知ってもらえれば少し想像しやすくなるだろう。そこで人々はとても幸せそうに日々の暮らしを送っていた。全く文字を読み書きできないおじいさんも、学校に行かず家業を手伝っている子供も、高等教育のために2時間もかけて隣町まで通う学生もみんな、料理をすること、片づけをすること、食卓を囲むこと、一緒に歌ったり踊ったり、会話をしたりすることに積極的で、楽しんでいた。私は、周囲との関わりが深い日々の生活そのものによって、彼らにとっての幸せの意味が形成されていくのを感じた。彼らは、「教育」を通して、自分の生き方を学んでいるのだった。

つまり、「教育」とは、学ぶ者が、何も持たない「無」の状態から、何かを得て「有」の状態へと変化する過程を支えることではなかろうか。「有」とは、人の生き方の指針「価値観」となっていくもので、それを支えるのは、学校教育をはじめとして、家庭、地域、また、私たちが認識できていない様々なものであると考える。 

人は、「教育」を通してなにかしらの影響を受けて進化する。私が、このプロジェクトを通して、未知の環境で人と出会い、知らなかった考え方に触れ、新たな経験をしてそれらを自分自身の一部として加えたこの過程はまさに、「教育」が私にもたらしてくれた変化であると思う。


文章を書いている今から思い返すと、あの12日間が本当に現実だったのかさえ疑いたくなるほど、あっという間で、言葉にできないほど濃い時間だった。ただ、今、私自身が感じているこの気持ちは確実で、それはこの経験を証明してくれる十分すぎるほどの価値を持つ。これもまた、私だけは認めることができるのである。

 

AAEEネパールプログラム2025報告書(2) 「学び、考え、成長する12日間」上智大学 文学部 哲学科 2年 岩切 優空

  

Mero Sathi Projectでの12日間は、私にとって刺激的で、とても充実した時間だった。なかでもこのプロジェクトの大きな魅力は、ネパール人参加者6名と日本人参加者6名が共に生活をしたことにあると思う。夜に心を開いて語り合う時間や、その中で生まれた友情、そして異なる文化を生きてきた仲間の人生に触れる経験は、学びにあふれた、かけがえのないものであったと強く感じている。

だからと言って、このプログラムは全く簡単なものではなかった。私は英語力や知識量、自信など、学習者として不十分な部分が多く、一日のリフレクションでは、自分の考えを英語で言語化することに苦戦し、ディスカッションでは、周りは議論が盛り上がっているのにそのスピードについていけなかった。初めはその差の埋め方すらわからなかったが、優秀な学生と関わるにつれて、周りとの違いに気づいたり、ネパールで出会った方から「成長のためにはFrustrationが大切だ」と教えてくださったりと、徐々に自己をより理解し、次はこうしてみようと思えるようになっていった。

しかし、このプログラムは本当にあっという間で、最終日、最後のファイナルリフレクションでは、涙が止まらなかった。もちろん、この12日間をずっと一緒にいた11人とのお別れはとても悲しいものだったし、日本に帰りたくないという気持ちもあった。しかし、それ以上に悔しさでいっぱいで、やり遂げたという達成感無しにこのプログラムが終わってしまうことが嫌でたまらなかった。

ただ涙が出るほど一生懸命になったこのプログラムは、私にとって単なる短期研修以上の意味を持つ経験であったと思う。英語で思考を表現する難しさや、議論のスピードについていけない自分への苛立ち、仲間と励まし合いながら少しずつ前に進もうとする日々、、、そうした一つひとつの感情の振幅が、学びをより深く鋭いものにし、表面的な知見を越えて自分の学び方や価値観そのものを問い直すきっかけになったと思う。;;

とりわけ、このプログラムでは今回のテーマである「教育」について沢山の学びを得られた。プログラムの内容としては、ネパールの子どもたちの生活向上取り組むINGOSave the Children)を訪問してお話を伺ったり、都市部の私立高校から農村部のマイダン村の公立学校まで実際に足を運び、教育現場の実情を直接見たりした。さらに、現地に暮らす人々にインタビューを行い、彼らにとって当たり前となっている習慣や考え方を知ることもでき、どれも新鮮で大きな学びとなった。

私たちは「教育」という漠然とした共通の課題を持っていて、私たちはグローバルパートナーシップとして、その共通の課題に取り組もうとしている。しかし、実際にネパールに足を運んで、自分の目でその教育現場の現状を見てみると、そこには、私たち日本人が感じている日本の教育現場での課題とは全く異なる課題も持っていて、私たち日本人参加者そしてネパール人参加者が、それぞれの視点や考え方をお互いの課題に提供できる場合もあれば、そうでない場合もあることがわかった。

実際に、マイダン村で学校教育を受けた経験の無い方に出会ってお話を聞いた際に、村での生活をすごく楽しんでおり、幸せそうな様子を見た際に、勉強して大学に入って就職することが「普通」となりつつあり、「普通」が美徳とされる日本社会ではあまり想像ができなかった。

私は哲学科の学生でありながら、幸せについて熟考したことがあまりなかった。というのも、私は分析哲学といったより明確な論理や言語分析を通して考えていく哲学の方が考えやすかったため、幸せや幸福といったトピックを好まなかった。そのため、この幸せそうなおじいちゃんを見た時に、自分の中で、幸せ・幸福といった言葉を自分の中で腑に落ちる形で定義することが難しかった。

まず、幸福と教育と結び付けて考えた時に、広義の「教育」とは、人間らしさを形成する営みであり、幸福はその人間らしさの大きな要素の一つだと感じた。マイダン村でのインタビューや学校訪問を通じて、村人の教育(いわゆる学校教育)に対する重要性、学校の設備や学校を通して得られる機会などから、量的にも質的にも十分な学校教育ではないと感じた。しかし、そこに住んでいる人たち、子供たちも含めて、とても幸せそうで、「そのままでもいいのではないか」と思える瞬間すらあった。だからといって、学校教育が必要ない、いらないということでは全くない。学校教育というのは、教育の中でもほんの一部でしかなくて、人間らしさを形成する営みとしての教育は、もっともっと広い意味での教育であると感じた。実際、まだ学校が無かった時に、そこにいた子供たちが教育を受けていなかったというわけではない。つまり、「教育」とは、両親や周りの人間関係などの様々な活動を通して人が生まれたときから環境から受け取るものであり、相互作用であると考える。私たちはプログラム中、些細な日常的なことから「幸せとは?」といった哲学的な問いまで語り合った。話し合いを重ねるうちに、知識の受け取り方は人によって大きく異なることに気づいた。これは、「教育」とは、人が生まれたときから環境から「受け取る」ものだけではなく、それぞれが自分の中で「解釈し、選び取り、再構築する」営みだからであろう。教育は人間には必要不可欠で、価値観といった深い部分まで影響を与える。そして、学校教育は、教育の中でも、目に見え、私たちの手で改善し、比較対比できる領域である。だからこそ、政府やINGOが子供たちのために懸命に取り組み、私たち学生もまた、自分ごととして関心を持ち、声を上げる必要があるのだ。

この12日間を通じて、私は「教育」のみならず自分自身の在り方、考え方についても大きく揺さぶられた。先ほどの私なりの「教育」に関する定義が正しいわけではないが、ネパールでの様々な経験を通して、「教育」、「幸福」について熟考することができた。また、プログラムを共にした仲間や現地の人々と関わるなかで、自分の弱さや可能性に気づき、これからどのように学び、成長していきたいのかを真剣に考えるきっかけとなった。

同時に、プログラムを支えてくれたKshitizさん、Seki先生、共に学び合ったネパール人・日本人の仲間たちへの感謝の思いでいっぱいである。彼らと過ごした12日間は、私の人生において忘れられない時間となった。今後は、この経験を糧に、自分自身の学びをより広げ、教育や幸福について考え続けていきたい。

 


AAEEネパールプログラム2025報告書(1) 「価値観の更新と思考の整理」筑波大学 国際総合学類 2年 小島莞子

  12日間のネパールにおけるMero Sathi Projectを通して得られた経験、知識、気づき、人とのつながり、楽しさいっぱいの思い出。多すぎていまだに処理しきれていない。多文化共修という側面からの学びも山ほどあるが、今回は教育と開発について考えたことを中心に書くことにする。 

 私はプログラム参加当初、開発途上国、特に農村地域においては、先進諸国に劣らない近代化を推進し、所得格差の是正や経済基盤の強化を目指すことが最良の開発であると捉えていた。特に、教育システムを国内でしっかりと運営できる体制が整うことで、国民の能力や質が向上し、国家全体の開発が促進されると考えていた。しかし、訪問先の一つであったマイダン村での光景は、この従来の価値観に大きな問いを投げかけるものであった。

 マイダン村の人々は、水道や電波といった現代的なインフラがない環境でごく普通に生活し、皆が笑顔に溢れ、異文化人である私たちをも温かく迎え入れてくれた。この様子を目の当たりにし、「彼らは本当に外の世界のような開発を望んでいるのだろうか?」「村の外の世界を知らないからこそ、今の生活に満足しているのではないか?」という疑問が湧き上がった。

 開発を表面的な要素、例えば高層ビル、最先端技術、高い所得水準といった観点のみで評価したとしても、その結果として人々の幸福度が低かったならば、その開発は真に意味を持つとは言えない。逆に、インフラや経済が不安定であっても幸福度が高水準であれば、それ以上の開発や教育システムの高度化の必要性は薄いのではないかとも感じられた。開発は持続可能であるべきだから、国際団体や政府の独断で無理な開発を行っても、徐々に詰めが甘かったところから崩壊していくだろう。これを踏まえて、教育や国家開発の真の目的は、突き詰めて言えば各個人を幸せにすることであり、開発、そして教育の普及を進める上で最も重要な要素は、当事者たちが何を必要としているのかという主体的な視点であると強く認識するようになった。経済水準を表す数値や教育の質の高さを示すデータのみに基づき、他の先進国の真似をして闇雲に開発を推し進めるのではなくて、その国や地域に適した開発像があるはずだから、それを基盤とした方向性で社会は発展するべきだと考えた。

 教育とは見方によれば価値観の押しつけだが、右も左もわからない人が教育を受けずに野放しにされていてもできることは限られている。だから、たとえ教わる側の態度が受身的で、教わることがプロパガンダ的だったとしても、とにかく人は教育を受けるべきだと考える。重要なのは、教わったことを別の情報と照らし合わせて更新し、身に着けた知識をもとに新たな領域に自ら踏み込んでみること。なぜ教育を受けるのか、その人なりの正解にたどり着くまでにはいくつものルートがある。マイダン村の子どもたちのように、外の世界をあまり知る機会がないまま大きくなったり、バンディプルの公立学校で出会った多くの生徒たちのように、高校卒業後は海外に出稼ぎに行こうと計画していたり、様々なケースがある。どのような道を歩んだとしても、結果的に自己成長ができて、自分にとっての教育の意味、目的を見つけ出せる。これができることこそが教育の理想のあり方なのではないか。

 世界を見渡せば、教育のみならず、数え切れないほどたくさんの課題で溢れかえっている。一人の力のみではもちろんどうにもならないし、一国だけでは解決できない問題が山積みだ。だからこそ、社会、世界全体の幸福のためには多国間、異文化間の協働は不可欠で、協働するためにはまず互いを理解するための努力が必須なのだ。Mero Sathi Projectでは、自分とは全く違う11人の学生たちと国境を越えて教育についての熱い議論を交わせたし、何気ない雑談でお互いの文化や内面までについてシェアできた。それは他者を彼らの言動を通じて理解すること、他者との比較や感覚的な違いから至る自己理解につながった。このようにプログラムを振り返ることで初めて今回のプログラムの意義がクリアになり、自分自身がAAEEに関わり続けている理由に説明がついた気がした。この広い世界でより多くの人が幸せを感じて生きられるために、他者を理解しようとし、差異を踏み越えて協働しようとする。私はそんな人でありたいし、そういう人が少しでも増えたら、と思う。



 

2024年11月1日金曜日

VJEP2024報告書「『教育格差』とは何か」亀田 青空 (筑波大学社会・国際学群国際総合学類1年)

 


 私の夢は戦争のない世界に生きることだ。気づけば私はこのフレーズを何度も何度も言い続けている。筑波大学を受験したときも、VJEPに応募したときも、VJEPのオープニングセレモニーでも、ビンズオン省のオーペニングセレモニーでも、だ。「戦争」や「平和」といった言葉が私をうずうずさせるのだが、それと同じくらい、「教育」という言葉も私の心に刺激を与えるのだ。それはなぜか、その答えがVJEP 2024を通して明らかになった。

 私はこのプログラムでリーダーを務めたのだが、副リーダーを務めていたひなさんが、プログラムの最終日のスピーチで、“Education, I believe, includes everything a child receives from others from the moment they are born(教育とは、子供が生まれた瞬間から、他者から受け取るもの全てを含む).”と述べていた。この言葉が、私がふんわりとしたイメージを持ちつつも言語化することを怠っていた教育に対する考えをそっくりそのまま体現していた。教育とは、他者から受け取るもの全てのものを指す、つまり他者から受け取るものが変化すればその人の価値観や考え方、人格ですら変化する。だから教育というものは戦争のない社会を実現するための重要な要素であり、そのために私は「教育」というものにも突き動かされるのだ。

 一瞬はスッキリしたようにも思えたが、帰国後、私は一つの矛盾と向き合った。教育が、子供が生まれた時から受け取るもの全てを指すのであれば、今回のVJEPでテーマとされた「教育格差」とは何なのだろう?ということだ。格差があるということは、「良い教育」と「悪い教育」が存在するということで、その二つの間に大きな乖離があるということである。しかし、そういった「良い教育」と「悪い教育」があると評価してしまうと、子供が他者から受け取ったものを「良い」「悪い」と評価してしまうことになり、それは個人の人格や価値観や考え方までもを測ることになる。例えば、VJEPでは、教育格差の上位の現場としてHigh School for the GiftedViet Anh Schoolを見て、教育格差の下位の現場として、Ms. Ba Volunteer Schoolを見た。しかし、それはHigh School for the GiftedViet Anh Schoolの子供達が他者から受け取ったものを「良い」ものとし、Volunteer Schoolの子供達が他者から受け取ったものを「悪い」ものとしているわけではないことは明らかである。High School for the Giftedは、ある一つの学問分野に対し非常に長けた能力を育成する教育機関であり、クラスは英語や日本語、科学や数学といった専門分野に分かれ、自らの専門とする領域における高い実力を身につけることで社会で活躍することを目標とする場所である。そのため、専門領域以外に関しては、普通の高校に通う生徒と同程度かそれ以下の能力を持つ生徒がほとんどであるというのだ。

 High School for the Giftedでディベートのアクティビティを行った時、非常に頭がいいという印象を受けたのは事実だが、この教育システムは現在日本で流行している幅広い学問を学び視野を広げていくリベラル・アーツと正反対のシステムであることもまた事実であり、高校生の時点で専門に絞った学習を推進する教育システムには議論の余地がある。High School for the Gifted で学ぶ生徒を一言で「良い教育を受けている」と評価するほど短絡的になってはいけない。反対に、Volunteer Schoolでは、使われる教材の質や学習環境といった面で考えると子供達が受けている教育のレベルはHigh School for the GiftedViet Anh School よりも低いと言わざるを得ないが、教育を人から受け取る全てのもの、と考えたときに、Ms.Baから受け取る愛情によって育てられた子供達が受け取る「教育」というものは本当に「悪い教育」と評価できるのだろうか?

 そういったことを考えていくうちに、「教育格差」とは、学問選択への自由度のギャップを示すものではないかと考えるようになった。つまり、教育格差の上位に属する人々は、学びたいことを学ぶことができる環境に属し、自分が好きな学問を障壁なく追求することができ、その下位に属する人はその選択の自由度が低い、ということである。このように考えると、Ms. BaVolunteer Schoolを卒業した子供たちは、皆職業訓練校にいくことが多いという事実があるなど、将来の選択の幅が限定されているということを受け、やはり教育格差の下位に属しているのだと納得がいく。反対に、High School for the Giftedの生徒は奨学金や海外大学へのアクセスがしやすく、将来の選択肢として国内大学ではなく海外大学への進学も考えやすいという点で相対的に高い教育を受けていると評価することもできるのだ。

 その一方で、私はベトナムにおいてある違和感を感じた。 

 将来の夢は何?と聞くと、自分が就きたい職業ではなく、真っ先に「海外の大学で学ぶこと」「自分の能力を高めること」との返答が返ってくること。

 ベトナムでは理系に進学する女子の割合が1割にも満たないことを受け、ベトナム人のメンバーに理系に進学する女子が少ないのはなぜか?という質問を聞いて回った時に複数人の口から平然と発される「女子は弱い」「論理的思考力に劣るので難しい学習についていけない」「その点経済は簡単だから女子学生が多い」といった女性の能力を過小評価しているような言葉たち。

ディベートの際に当たり前のように発される「女子は精神的にも身体的にも弱い」という表現。

ホーチミン経済大学の学生になぜ経済を学んでいるのか?と聞くと返ってくる答えが経済学の面白さではなく、「お金を稼ぐ方法を実践的に学ぶことができるから」という非常に現実的なものである点。

 参加者との交流が深まり、さまざまな対話を重ねるにつれ、ベトナムにおいては俗にいう教育格差の上位の環境で学んできたであろうVJEPのベトナムの参加者の人たちにとっても、学びたい学問を何でもかんでも追求できるといった環境はベトナムにはまだ完全に整っているとは言えないのかもしれないと少しずつ感じるようになってきた。大学に入学して学ぶ学問が、今後の収入の確保、国内で安定した職に就くため、女子学生への偏った評価など、さまざまなことが原因で限定され、学問が好奇心を満たすためではなく、お金を稼ぐための踏み台となり、知的好奇心に基づいた学問選択が阻害されているという現状がある。もっと多くの学生が自分の興味関心に沿った学問選択ができるよう、どんな学問を学んでもそれを活かすことのできる職業へのアクセスを設けることや、幅広い分野における学問の発展など、多くの側面での国家としての発展が必要となってくるのかもしれないと感じた。

 このプログラムに参加した多くの方とは違い、異文化交流を通じて感じたことではなく、これまで全く違う経験をしてきた彼らの何気ない会話を通じた違和感から、「教育格差」について感じたことを報告書にまとめることにした。こういったことを考えることができたのは、日本人の参加者やベトナムの参加者と友人として交流し、友人として彼らの素直な言葉を受け取ることができたからに違いない。

 報告書では、まるでベトナムの教育が日本に比べて劣っているというような書き方をしているように思えるかもしれないが、決してそういう意図はない。日本でも学歴至上主義や都市と地方の格差、海外大学へのアクセスの少なさなど、学問選択の自由度が決して高いとは言えない。また、ベトナムの学生は私よりも遥かに頭が良く、学びに貪欲で、優秀であり、の自らの能力を高めることへの圧倒されるほどの高いモチベーションは決して真似することができないものであった。

 そんな彼女たちから得た学びを今後も大切に心に抱いておきたい。




VJEP2024 報告書 「こうするしかない」(東京大学教養学部理科二類2年 中崎 日向)

  

 ベトナムを発って二日後の今日、私はパソコンに向かってこの文章を書いている。関教授のここを離れて一週間後にはもうこのプログラムは思い出の中の出来事になっている、という言葉を到底信じられなかったので、一週間待ってやろうと思っていたのだけれど、どうやらそれは正しかったらしい。私の人生の中で一番中身の詰まった十四日間は、あっけなく風化していきつつある。せっかちな私は、記憶が薄れるのに気がつきながら一週間も待つなんてことができずに、書き始めたというわけだ。

 飛行機で六時間のフライト。映画を二本見るとか、ちょっと満足できるくらいの睡眠をとるとかってことくらいはできる時間をかけて、私はベトナムへ行った。文化も言葉も違う人々と過ごす日々は、楽しくて、驚きに満ちていて、ずっとどこか緊張感が漂っていて、永遠に続くようにも瞬きする間に過ぎ去ってしまいそうにも感じる、不思議な時間だった。ベトナムの学生七人は、英語を使いこなす力だけでなく、満足な英語を話せないこちらを待つ忍耐力も、足りない内容を補填する洞察力も、圧倒的に優れていた。彼女たちはまた、個人的な問題や考えについて話すことも躊躇わなかった。話しにくいかもしれないけどと私が前置きすれば、そんなこと気にしないでと笑う強さを持って、私の個人的な意見も真正面から受け止めてくれた。私たちを理解しようとする姿勢を全身で示し続けていてくれた彼女たちに、けれど私は自分の考えを十分に説明することができなかった。語学の勉強を怠ってきた自分をこれほど恥じ入る気持ちになったのは初めてだ。日本を発つ前に、母国語で話す時と同じくらいベトナムに住む人々とも分かり合えたら、などと考えていた自分の浅はかさを身にしみて感じたし、自分の無力さが悔しくて仕方がなかった。異文化交流に留まらず、互いに理解し合うために超えなければならない壁は、びっくりするほど高い。身振り手振りを交えつつ、足りない英語で何とか自分の考えや気持ちを伝えようと格闘した経験は大切に抱えていこうと思う、なんて綺麗なまとめ方ができないくらいに、悔しかった。今でも悔しい。不甲斐なさでお腹の底がジリジリ焼けるような感覚が、ずっと続いている。でも、こうやってぼやいているだけじゃ仕方がないから、未来で同じことを繰り返さないように、この後悔をできる限り噛み締めてこれからに活かそうと思う。

 さて、私がベトナムで目にしたのは、教育格差そのものだった。十に満たない頃から英語学習を始める小学生や、通常の科目に加え特に優れた一科目を専門で学ぶことができる高校生と、日中は外に出て働き、夜は年齢の別なくチャリティークラスで学習する子どもたちの断絶は凄まじい。後者の子どもたちは、様々な理由から正規の教育にアクセスすること自体ができないそうだ。彼らの現状を打破する方法を見つけることすら難しい中、今プログラムの主題である持続可能な教育を実現するのは気が遠くなるほど長い道のりだろう。けれど、きっと実現できる。チャリティークラスを運営するMs.Baを見て、私はそう思った。彼女は自ら路上に立ち、宝くじを売って得たお金でチャリティークラスを運営なさっている。九十歳を超えられた今でもご自身で稼いだお金で子どもたちに教育の機会を提供されている姿、子どもたち一人ひとりに寄り添うように立ち、声をかける姿から、私にはMs.Baの強い意志が感じられた。

 子どもたちに少しでも多くの可能性を、今より少しでも幸福な未来を。

 私が持続可能な教育を実現するために必須だと思うことは、まさにこの願いだ。そしてこれは、私たち大人が果たすべき責任でもあると思っている。Ms.Baはこの願いを叶えるために、現在進行形で行動なさっているのだ。私はMs.Baのようにはなれないかもしれないけれど、彼女の真摯な姿勢に倣いたいと強く思った。そして、私が彼女の姿に心を動かされたように、この文章を読んだ人が、これから私が何らかの形で働きかける人が、あるいははるか4,000キロ離れた場所で触れ合った人々の誰かが同じ願いを抱いてくれるよう、その輪がますます広がっていくよう、子どもたちに対し誠実な姿勢を取り続けたい。

 とはいえ、世の中には色んな考え方があって、誰かにとっては私の願いは押し付けがましくうざったいものである可能性だってある。話の腰を折るようだが、このこともまた、ベトナムに行って私が強く感じたことの一つだ。ベトナムで二週間過ごす中で、私がどうしても納得できなかった文化や思想があったように、ベトナム側の参加者も私に対してそう感じることがあっただろう。例えば、私はその場の空気感で予定がくるくる変わってしまう性質に最後まで慣れることができなかったけれど、ベトナムに住んでいる人からすれば珍しいことでもなかったりする。裏を返せば、何でも予定通りに進めて欲しい私の方が、彼女たちから見たら異様だったかもしれないということだ。この世界に生きる人全員が、色んなことを見て感じて考えて、生きている。文化圏の違いがあってもなくても、各々経験してきた出来事が違うのだから、人によって価値観が異なることは当たり前のことだ。でも、異文化に晒され、相手から自分がどう見えるかについて考えざるを得ない状況に置かれて、私はそんな当然のことを鮮烈に実感したのだった。このことを認識していなければ、自分の願いを他の人にも伝播させる、なんてことは果たしようがない。誰かと話していても大抵の文化的背景を共有している母国に住んでいると、私はいつも当たり前を忘れて一元的な見方をしてしまう。他者の価値観に想像が及ばない自分を戒めるためにも、何度もこのプログラムで得た経験を反芻しよう。そうして、子どもの笑顔が今より溢れる未来を形作る方法を模索し続けよう。
 異文化交流の難しさを理解することも、教育に対するこれからの展望を持つことも、これまでの内省を行うことも可能にしてくれるなんて機会は、そうそうない。このプログラムに携わってくれた全ての方々の力添えに報いるためにも、日々に溢れる成長の機会を取りこぼさないよう丁寧に過ごしたいと思う。

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 以下、年が変わって2025年2月下旬から書き始め、3月中旬に書き終えたものを追記した。  先日、関教授と次回のベトナム渡航プログラムについて話していた時、ある言葉が口から出た。 「VJEPは、学生がプログラムを通じて学んだこと、考えたことを自分の中で発酵させることが大事だと思う」  事前に準備していたというわけではなく、話している拍子にぽろっと出た言葉だった。教授と話しながら、私ってこんな風に考えてたんだ、と自分でも新たな発見をした気分になった。思考を発酵させる。ベトナム渡航プログラムを経て半年強、私がしていたことは正にそれだった。  発酵という言葉が好きだ。何となく「良いもの」を想像させるから。ではなぜ良いイメージを持つかというと、私の中にある「発酵」と書かれたカードの裏に、「腐敗」の二文字があるからだろう。微生物の働きによって物体の状態が変化するという現象を、人間にとって有益か否かで評価して分別することで、一つの現象に発酵と腐敗という二面性が生まれる。発酵という言葉は、同じ現象を色んな方向から眺めてみることの面白さも教えてくれるのだ。 
 ある物事を考える時、多角化することが大事だ、とはよく言われることのように思う。「発酵」について考えるのと同じように、表と裏を確認することに始まり、上下から見る、左右から見る、斜めから見る。そうすると今まで見えなかったものが見えてきて、より深い議論が可能になる。  私の中では、物事の多角化と聞くとある立体の面をを増やしていく様子が浮かぶ。最も面の少ない立体である四面体から始めて、四方向から眺められるようになったら、その頂点を切り取ってさらに面を増やす。そうやって新しい視点を獲得していくと、それぞれの視点に立った時に得られる思考が互いに影響しあって変容し、より良い形をとるようになる。微生物が食物に影響を与えて変えていく様に、少し似ているようなこの方法を、「思考の発酵」と呼んでも差し支えはないのではないだろうか。  閑話休題。  プログラムに参加する前は、私の中で、物事はいつも表側しか見えない面だった。新聞紙だったり、テレビやスマホの画面だったり、面がある場所は変わっても一つの視点から物事を見るばかりだった。それを不思議に思ったことはなかったが、面の上に存在する様々な物事に対して、憤ったり喜んだり思考を巡らせたりするものの、結局深い理解を得られることはなかった。  実際に渡航する前はベトナムについても同様で、ベトナムという国についてのっぺりとした浅い知識しか持っていなかった。東南アジアの国の一つで、今経済成長期にあり、社会主義を掲げる国。大変失礼だが、本当にこの程度の知識量で向かったのだ。酷い話である。正直なところ、向こうに行って活動している間も、日本に帰ってきた時もまだ私の見方は変わっていなかった。だから、私はまだ自分の書いた報告書を読み返すことができない。恥ずかしさに耐えられなくて。  けれど、帰国して時間が経ち、ある時突然自分の思考が変化しているのに気がついた。VJEPというプログラムの中の、具体的にどんなことが影響を与えたというわけでもないように思う。強いていうならば、最も大きかったのはほぼ初対面の人々10数名の中で二週間を過ごすという経験そのものだろう。違う歴史を、文化を、言葉を持って想像もできないような思考を持つ人々。同じ歴史、文化、言葉を持ちながら全く異なる思考を持つ人々。恐らくは、そんな人々と共同生活をしなければならない状況に陥って初めて、“自分”が輪郭を帯び始めたに違いない。  変化の原因はわからなくても、それに気がついたきっかけははっきりと書くことができる。報告会を開いた後、ある学生メンバーと一人のベトナム側の参加者について改めて話し合っていた時のことだった。ベトナムで出会った彼女は、英語が堪能で、愛国心が強く、誰かに伝えたい意見をはっきりと持つ人だった。彼女の声は大きく、だから多分、日本人側で話題に挙がる機会も多かった。特に印象的なのはホーチミンで訪れた博物館でのことだ。少し薄暗く、ひんやりとした館内に展示されている戦争の遺物を、彼女は一つひとつ解説してくれたのである。とても詳細に、戦いの痕が残る銃や軍服に刻まれる歴史を。彼女について話す時、博物館でのその出来事が思い返されるのは当然で、何度も「本当にすごかったよね」と言い合ったものだ。けれど、どうしてだろう。報告会が終わって少しした後話した、その一回だけが、びっくりするほどの後悔と気づきとを私にもたらしたのだ。  彼女は本当にすごかった、その通り。じゃあ私は?  問いが頭の中に浮かんだ時感じた驚愕は、徐々に、恥ずかしさと綯い交ぜになって直視するのが耐えられないような後悔に形を変えた。ベトナムの学生たちの協力を仰いで学ばせてもらっている立場でありながら、彼女が話してくれた歴史をほとんど知らなかった。知らないままでベトナムへ向かったことをまるで恥じていなかった。そのことを、帰国してから三ヶ月以上省みることもなくそのため後悔することもまるでなかった、なんて。なんて不誠実で不遜な態度だろう。彼女から見た私は、どれだけ敬意を欠いた人間だったろうかと、考えれば考えるほど恥ずかしく、ひどい後悔に苛まれた。  そして同時に、一元的にしか見ていなかった渡航前の自分、もとい彼女から見た時の自己の姿を想像もしなかった自分と、不完全ながらも今とは異なる視点に立って眺めようとしていた渡航後の自分、もとい彼女の立場から考えることができた自分に気がついたのだった。  誰に対してもどんなものに対しても誠実でありたいという自分の思いに真っ向から背いてしまったこと、国の歴史というそこで生きる人々の根幹をなす事柄について不誠実だったという事実は、後悔してもし足りない。だが、その時の発見は、後の思考に多大な影響を与えた。面が立体に組み変わった瞬間だった。  以来、ある社会問題について考える時、色んな考えが錯綜するようになった。ごちゃごちゃと絡まった有線イヤホンのコードみたいな思考回路は、正直言って窮屈で扱いにくい。誰かに意見を伝える時慎重にならざるを得ないし、行動するためにあげる腰も重くなる。視点を増やし続けて、本当により良い答えに辿り着けるのかは甚だ疑問だ。…この文章を書いていて、自分の言葉に自信がなくなってきてしまった。でも、私の内部で起こった変革を、敢えて思考の発酵と呼ぶことにする。ベトナムで得た経験から派生した様々が、より良い私にしてくれることを信じている、いや、信じていたいからだ。  最後に。  今回報告書を書き足すにあたって、タイトルも変更した。(思)考/(発)酵/後(悔)/行(動)するしかないから。全くの蛇足だ。