2018年5月4日金曜日

ネパール Mero Sathi Project 2018 2月 報告書(4) 斉藤花歩 (上智大学総合グローバル学部2年)「ネパールで得られた学び」

ネパールで得られた学び

上智大学総合グローバル学部2年
斉藤花歩

  10日間のネパールスタディーツアーに参加し、座学だけでは分からないネパールを知ることが出来た。今回、私がこのツアーに参加を決めた理由として、大学で学ぶ南アジアの文化に興味を持ち始めたことと、学生の間に多くの国へ行き自分の知らない世界を知りたいという思いがあった。また、国際交流ができることも魅力で参加を決めた。本報告書では、プログラムを通じて私が感じたこと、思ったことを述べていきたい。
 私自身、途上国には在住歴もあるため、不安要素が一切ないまま、ネパールに入国した。しかし、そこで最初に驚かされたのは交通事情に関してである。まず何よりも、信号機がないこと。道路が一切整備されてないため、渋滞は日常茶飯事であった。今回のツアーではネパール人メンバーも驚くほどに大規模な渋滞に見舞われた。先の見えない長い道に、車の大行列。しびれを切らした運転手たちが車から降り、たばこを吸うなど、日本では考えられない光景だった。また、車線がないため、逆走する車もおり、さらに渋滞を悪化させていた。カトマンズなど市内に入ると大きな交差点に誘導員が立ち、誘導しているが、それを無視する車は少なくない。ここまで無秩序な交通事情を抱える国は初めて見たので驚きだった。しかし、そのようなときもネパール人は冷静で、ゲームをしたり歌を歌ったりたわいもない話をしてくれた。今思えば、渋滞も一つの楽しみになっていたと思う。
 今回のツアーではパルパ県タンセンから車で3時間のマイダン村にホームステイをした。村では小学校へ訪問したり、村の家に調査に出向いたり、電気や水が当たり前に使える場所ではないところでホームステイが出来たのはとても貴重な経験だった。しかし、村に辿り着くまでの道のりもかなり大変だった。ジープに皆で乗り、細い山道を通るのだが、少しずれていればその下は崖というかなりスリリングなドライブだった。車1台しか通れない道なので、対向車が来ないよう必死で祈っていたのを覚えている。やっとの思いで到着しマイダン村では小学校で多くの子供たちが私たちをお出迎えしてくれた。この村では10年前に学校ができ、1~8年生まであり50人ほどの子どもが通っている。最初は照れて近づいてさえくれなかった子どもたちが、最後はぴったりと寄り添うまで打ち解けた。村の子どもたちは皆、優しくそして逞しかった。鶏を素手でつかんだり、早朝から水を組むために足場の悪い道を通りながら大きな水タンクを背負って何往復もしていた。蛇口をひねれば水がでて、スイッチを押せば電気がいつでもつくのが当たり前である私にとって、での光景はすべてが新鮮だった。また、村での調査は、彼らを知るうえでとても有意義な時間だった。私たちが調査した女性は、夫は元々姉の結婚相手であり、姉との子どもと自分の子ども合わせて6人を育てている。夫はマレーシアに出稼ぎにいっており、仕送りは不定期なため、ローンを組んでそのお金で子供たちを学校に通わせている。彼女は、子供たちには教育を受けさせたいと言っていた。その理由に、彼女の父親は、8歳のころから家が貧しかったために住み込みで他の家のお手伝いをし、ご飯を食べさせてもらう代わりに教育を受ける機会を与えられなかったそうだ。そのため、彼女は父の体験から、子供たちにはいい教育を受けさせ、よい職についてほしいと心から願っていた。


 村での生活はとても穏やかだった。しかし、調査で村の人の話を聞くことで、どのような問題を村の人が抱えているのかを知ることが出来た。村に小学校ができて10年たったが、8年生までしかなく、ネパールでは10年生までの教育を受けた人を対象とするSEEとい国家試験を受けなければ大学どころか良い職にも就くことが出来ない。マイダン村の隣の村まで片道歩いて2時間かけたところに9、10年生の学校があるが、地理的にかなり遠いため通い続けるのが難しく、現実ではほとんどの子どもは8年生で終え、村の中で結婚をする。この村で問題とされるのが、貧困の連鎖が続いていることだ。教育を受ける環境が整っていないことと、村からでること自体が少なく、閉鎖的になっていること。そして、地理的に市場経済を持ち込むのが難しい。その結果良い教育を受けても、職が村の中にはないのが現実だ。
 私は大学の講義で、南アジアに関する講義をいくつか受講をしていたためネパールについても触れることは多かった。しかし、内容はどれもアジア最貧国、男女差別、カースト制度など、かなり悪いイメージをもつようなものばかりだった。しかし、実際に渡航して感じたネパールは温厚な人が多く、穏やかでのんびりした国だった。そして何よりもホームステイをしたマイダン村の人々の優しさは忘れられない。また、今回いくつか学校を訪問したが、その際お茶を用意してくださり、もてなす心が印象的だった。ネパールに実際に行き、私は多くの人の優しさを感じることが出来、自分が普段当たり前に感じていたものが、この国では当たり前ではないことを何度も思い知らされた。そして、自分がどれだけ恵まれているか、そして何をすべきか自分自身を見つめなおすきっかけになった。


ネパール Mero Sathi Project 2月 報告書(3) 浦江香菜子 (上智大学 総合グローバル学部1年) 「ネパールで学んだ人の温かさ」

ネパールで学んだ人の温かさ

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科1年
浦江 香菜子

 このスタディーツアーを友人から紹介されるまで、私は自分がネパールに行って現地の学生と交流するなんて思ってもみなかった。しかし、私は大学入学時から児童労働や子どもの教育などに関心があった。授業で一方的に聞くことしか出来なかったネパールの生活を実際に見て体験するというのは非常に貴重な経験であり、このチャンスを逃してはいけないと直感的に感じすぐに参加を決意した。ツアーを終えた今、私はこのツアーに参加してよかったと心から思っている。また、この素晴らしいツアーを企画・運営してくださった方々をはじめ、共に2週間を過ごした仲間たち、そしてネパールで出会った全ての人々に感謝したい。
 ツアーのなかで様々な場所を訪れ色々な人と交流したが、その中で最も印象深いのがマイダン村でのホームステイだ。マイダン村に向かうジープの想像を絶する揺れに生命の危機を感じつつ、私は村でのホームステイへの期待と不安を膨らませていた。水も電気も十分ではない生活とははたしてどのようなものなのか、村の食事は口に合うだろうか、トイレはちゃんと使えるのだろうか。心配事も多かったが、結論から言えば何も問題はなかった。懐中電灯(できればヘッドライト)とペットボトルの水さえあれば村の生活は何の支障もなく、むしろ村人同士で協力しながらゆったりと過ぎていくマイダン村の生活は、慌ただしく過ぎ去っていく東京での生活よりもずっと豊かなように感じたほどだ。


 村でのホームステイで強く感じたのが人との交流が生活にもたらす喜びである。最もそれを感じたのが村の学校の子ども達と遊んだときだ。世界のどこであっても子どもは明るくどこまでもピュアであり、その笑顔は人を幸せにすると私は考える。村の子ども達も最初は私たちを警戒して、近づいても逃げられてしまったが、だんだんと心を開いてくれて、2日目には何人もの子供たちに囲まれて逆に離してもらえないほどだった。女の子たちはとても手先が器用で私の髪をきれいに結んでさらに花を編み込んでくれたり、手遊びやネパール式の鬼ごっこを教えてくれたりした。男の子たちは元気でいたずら好きな子が多く、手の中に虫やゴミや生の唐辛子を隠し持って私に渡してきたり、木の枝を銃に見立てて撃つマネをしてきたり、カメラに興味津々で撮ってほしいといった様子で近づいてくる子もいた。子ども達はもちろんネパール語を話し、英語さえほぼ通じない。私が知っていたネパール語は「Namaste (こんにちは)」「Dan’nyabado(ありがとう)」「Mero Sathi (私の友達)」の3つだけだったが、これで十分コミュニケーションをとることができた。子供たちが私の腕や手を触りながら繰り返し「Mero sathi」と言って笑顔を向けてくれたことはかけがえのない思い出となった。この体験は、英語が苦手でネパール人メンバーとの会話にくじけそうになっていた私を勇気づけ、「もっと交流を楽しまないと!」と気持ちを奮い立たせてくれた。他者と交流することの喜びや温かさは生きていくうえで 非常に重要であると再認識させられた。
 村の子ども達と遊んだ時間はとても楽しく癒されたが、子ども達と近い距離で交流したからこそ見えてくる課題もあった。多くの子ども達は学校の制服を着ていたが、服はボロボロでところどころ破けていた。また、多くの子の肌は乾燥し手荒れをしている子も目立った。風邪が流行っていたのか鼻水を垂らしたままの子も多く、健康管理をはじめとする衛生面の問題を実感した。ネパールの学生さんたちが手の洗い方を子ども達に教えるプログラムを用意してくれていたが、そのような基本的な衛生管理が村では徹底されていないということがわかり、何か私たちもサポートできることがないかと日本に帰ってきた今でも考え続けている。マイダン村のように都市から切り離された自給自足の生活を行う村に継続的な支援をすることは非常に難しい。それは地理的問題から経済的問題まで様々な要因が絡み合っている。私のような一大学生にできることなどあるのかと悲しくなるが、そもそも貧困からくる諸問題の解決策について時間をかけて考えるというのが大学生活における私の目標であり、現在の学部を選んだ理由である。今すぐに答えが出なくても、今回のツアーで学んだことを常に心に留め、大学での残りの3年間を意義のあるものになるよう努めたい。
 今回のツアーによって、自分自身の課題についても見えてきた。それは語学力と積極性だ。私は海外で暮らした経験もなく英語は何とか日常会話が出来る程度だったため、つい英語が堪能な日本人メンバーに頼ってしまった。また自分からネパール人メンバーに話題を提示することができず、相手からの質問にも何度も聞き返して何とか答えるという完全に受身な状態であった。ネパール人メンバーとはお互いの国の文化などをたくさん話したが、自分にもっと語学力や積極性があればさらに深い話や意見交換が出来たはずだと思うと、もっと英語を勉強して行くべきだったと後悔している。次回このようなプログラムに参加する機会があれば、現地の学生とより深いコミュニケーションをとれるように英語の勉強に加えてお互いの国の歴史や政治などについてしっかりと勉強して行きたい。語学力も積極性もこれから生きていくうえで必ず必要となる力であり、ネパールで学んだことを
決して忘れずに今後の経験に役立てていきたい。

2018年5月3日木曜日

ネパール Mero Sathi Project 2018 2月 報告書(2) 宮尾直哉 (東京理科大学基礎工学部 材料工学科 2年) 「異文化、異分野での交流」

『異文化、異分野での交流』

東京理科大学基礎工学部
材料工学科2年 宮尾直哉
 今回このプログラムを知ることになったのは前回の参加者に友人がおり、その友人に発表を見にこないかと誘われ見に行ったことに端を発している。合縁奇縁なもので、この時にはまさか私が次に参加する立場になるとは夢にも思っていなかった。ネパールに行く前の私が知り言えるネパールについてのことといえば山勝ちで山羊が多く、あまり裕福な国とはいえないというような表面をなぞるようなことのみであった。今後訪れる機会も早々ないような異国の地の雰囲気や文化を肌で感じるまたとない機会であると考え、私はこのプログラムに参加することを決めた。
 私は初めこのプログラムは、今まで温室で育ってきた私には未曾有の苦労を強いられるのではないだろうかと思っていた。まず何よりも、畑違いな分野への単身の参加ということが非常に気がかりであった。誰一人とも面識もなく、おそらくこのプログラムが存在しなければ交わることもなかったような人間と10日間も行動をともにするということは、気苦労の種であろうと考えたのだ。他にはこのプログラムを共にするメンバーはネパール人と日本人の6人ずつであり、ネパール人との会話には英語が用いられる。しかしながら私の英語を話す能力といえば赤子にも満たないほどの拙さであり、コミュニケーションを取る上では重大な課題となり得た。さらには異国の地であるネパールとは大きく文化が違うということも非常に気がかりなことであった。特に食べるものである。彼らは熱心なヒンドゥー教徒であり、牛を食すと行ったことはありえない。さらにはヒンドゥー教の教えに不殺生があるがゆえに菜食主義者が多いといったようなことであった。このようの言語の違いや文化の違いといったものは、おそらく大きく人間関係を左右するものであると考えていたのである。
 しかしながら、この心配が必要のないものであったと気づいたのはとても早い段階でのことであった。ネパールでは道路の舗装が追いついておらず、それゆえに車の動きはのろのろとしたものなるために渋滞が起こりやすい環境であり、そのためにバスの移動では長時間にならざるを得なかった。そのおかげでバスの車内ではメンバーと話をし、仲を深める機会となっていた。この時にネパール人との会話をする際は何度か私が聞き返したり逆にこちらが聞き返されたりし、拙いながらもなんとかコミュニケーションを重ねることができた。ある日本人メンバーから言われた、コミュニケーションは言葉じゃなくて話したいと全身でぶつかることが一番大事なことだ、という言葉は今でも胸に残っている。
 食事なども心配することは何もなかった。菜食主義者は日本と違い向こうではありふれているものであるため、それを受け入れ譲り合うことでうまく成立しているように思えた。この譲り合いは何もネパール人同士に限ったことではないだろう。私たちの方がより文化的に遠いところに位置しており、その私たちとも譲り合いをすることでこのプログラム中の良好な関係は保たれていたのではないだろうか。
 さらに私たちは、ネパールの中でも貧困層に位置するマイダン村と言う村にも足を運んだ。初め村人は、おそらく村人以外の人間と接する機会が少ないためか非常にシャイな振る舞いを見せていた。だが子供達と接することを皮切りにだんだんと村人たちに私たちは受け入れられていったように思う。彼らは英語は話せず自分たちの民族の言葉とネパール語のみ話すことができると言うものではあったが、子供達は万国共通なもので会話よりも体を動かして共に遊ぶと言うことに比重をおいており、ともに遊びつつ交流を深めることができた。
 7日目の食事の際、あるネパール人メンバーから言われたことがある。あなたは英語で拙いにもかかわらずに交流しようと言う姿勢を持ち積極的に関わってくれる。それはとても誇らしいことだ、と。兎角自分の殻にこもりがちであった私にこのような言葉が投げかけられると言うのは、非常に喜ばしいものであった。その言葉はそこまでに重ねたコミュニケーションでは多くの言葉を用いずとも、例えて言うのなら心の交流のようなものを多く重ねられていたことの証左であるように思うことができた。
 私はプログラムを通して異文化交流を行うことができたと確信を持って言うことができる。図1のように夜通しトランプをして盛り上がるなどは出発前の自分には全く想像もつかないことであった。ともに語り、ともに笑うということが何よりも重要なことなのだと肌で感じた夜であった。

          



          図1 夜通しでのトランプ


 文化は違えど譲り合い、話そうと言うような姿勢を保つことができればどのような人とも話をし、理解し合えるのではないかといったことを体感することのできたプログラムであったように思う。初めは見知らぬ文化を肌で感じ、その文化について学ぶことを目的に参加したプログラムであったが、プログラムを通して私が感じたことといえば最も大事なものはその文化を形成している人ではないだろうかと言うことである。ここから学んだある種の異文化交流に必要な視点のようなものは今後の自分の人生に何か大きな影響を及ぼすものになるであろうと期待せずにはいられない。

            
            図2 出発前の記念写真

ネパール Mero Sathi Project 2018 2月 報告書(1)HUNG WANLUN (上智大学 総合グローバル学部1年)「ネパールで学んだこと」

ネパールで学んだこと

上智大学1年
HUNG WANLUN
 
 今回のプロジェクトに参加する前に、ネパールについて私は、後発発展途上国、自然が豊かなところ、教育における男女格差が激しいというイメージしか持っていなかった。授業でネパールの社会と政治について、レポート書いたことはあるが、自分の目で現状を見なければ、どんなに参考資料を読んで書いても、違和感を感じるので、実際に現地に行って考察したいと思って、参加を決めた。これは今回のプロジェクトに参加する一番大きいな理由であった。
 2月14日から25日まで、飛行機の時間を除いて、私たちは10日間ネパールに滞在した。この報告書は私がネパールで生活していた時に感じたこと、学んだことについて書いたものである。
 「距離の近さ」
 ネパールの道を歩いたら、歩行者と車とバイクとの距離がとても近い。私の母国でも同じことがあるので、慣れていたが、日本人メンバーからすると、これは日本ではありえないことであるようだ。そして、人と人の間の距離も近かった。我々が村に行く途中で、5時間の渋滞に巻き込まれた。車を止めるたびに運転手、または乗客は必ず車から降りて交通状態を確認し、他の運転手さんと道路脇で情報交換をする。私は時々寝ていったが、目がさめると私たちのドライバーさんはいつも違う相手と喋っていた。また、離合をするときも「向こうの交通状況はどう?」みたいな感じて会話していた。よく考えると、ネパールの道路は信号がないし、GPSも普及してないから、こういう場面が見えるのではないかと考えられる。さらに、村での生活はもちろん、目が会う時は必ず暖かい微笑みを返してくれるし、ホームステイの家族メンバーたちともすぐ親しくなり、まるで昔から知っている友達のように仲良くなった。一緒にプロジェクトに参加していたネパールメンバーたちも初めて会った日から最終日まで、ずっと笑顔で、質問があったら必ず全力で調べて答えてくれる。
「ネパールメンバーから学んだこと」
 今回のネパールメンバーはとても明るくていつでも笑顔で接する。私たちはジープが壊れ、真っ暗なところに置かれて、ホテルに戻られないところだったことや8時間以上の渋滞など、様々なきびしい状況にあったが、彼らはいつもジープで歌ったり、ゲームをやったりしていた。一番印象に残っているのは、ある日のネパール語を当てるゲームに対して、彼らはとても真剣で答えを考え、わからなかったら、ゲーム終わった後は必ず他のメンバーにあの答えになった理由を聞く。つまり、ネパール人メンバーはいつも温かく我々を受け入れた。そして時間を無駄にすることはなく、とても真面目な学生であることがわかった。
 
「村でのリサーチ」
 私たちはマイダン村で二日間滞在した。三日間滞在する予定だったが、ストライキが起こって、二日目の昼頃にストライキが起こったと知らせがあり、すぐ出発しなければどこにも行けなくなると知らされ、早めに村から去ったが、マイダン村での活動は私にとって、大切な人生経験である。
 村の貧しい状況は着く前に知っていたので、村の人々は貧しくて過酷な状況で生活しているから、うつむいて暮らしていると思っていた。この村から一回も出たことないお年寄り、お金と生活状況における問題によって、進学できない学生、私と同じ年であるが子供二人を持っている若い女性。日本に留学することができ、生活の中において困ったことがない私にとって、彼らの人生はあまりにも想像できないことだった。しかし、実際私が目の当たりに知ったのは、村民たちはみんな明るくて楽しく生活していたということだ。私にとって彼らの人生には運命に服従するしかないというものであると考えていたが、実はそれだけではなかった。彼は過酷な生活に対し、明るく生きるという選択があった。


 リサーチ活動をしていた時、私は村民たちにネパールの政治ついて色々聞くつもりだったが、インタビューした五人の中で、字が読めないから今の政府のことはあまりわからないと答えた人が四人ということで、私は改めて「この村のリーダーは女性になる可能性はあるか」と「ネパールの首相は女性になることは可能なのか」を聞いた。すると全員がこの村のリーダー(チェアマン)だと難しいけど、ネパールの首相だったら可能性はもちろんあるよという結果だった。なかなか興味深い答えだと考えられる。ではなぜ村民たちは女性の能力を信じているが、男性優位の考え方が村に蔓延しているのか、今後の勉強を通
して原因を考えていきたい。
 最後に、私は今回のスタディーツアーで様々なことを学ぶことができた。一つは、先進国での今の生活は、当たり前ではないということである。もう一つは、今の自分が持っている価値観が偏っていたということである。この2つの事を意識することによって、様々な場面において自分とは異なる文化を受け入れることができると思う。それを今後の勉強だけではなく、私生活でも生かせるようにしていきたい。

2017年11月8日水曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 9月 報告書 (10) Carwen Voon(東京経済大学経済学部2年)A Walk through Nepal

"A Walk through Nepal"

         Tokyo Keizai University
         Faculty of Economics, 2nd year
         Carwen Voon

I remember searching for sources about Nepal, hoping to be sufficiently equipped and knowledgeable about the country in order to have a smooth two weeks trip there. I know that Nepal is a country where religion plays such an important role, where spirituality is a major component of everyday life. Therefore, there would be definitely taboos that are better for me to know before going. From there, my studies about Nepal really started. I looked for, and took notes about every aspects surrounding Nepalese culture. I even elaborated some questions that I should ask the locals in order to grasp their own understanding about their culture. After a long period of preparation and anticipation, finally the day to start my new discovery had come and we took off to this journey. During these two weeks, staying with the locals all along, I tried to capture as much as I could, hoping that I could complete what I understood from my researches with actual ground experiences. In order to apprehend the cultural differences that I noticed between Nepal and the countries that I know of (Malaysia, China, Japan), I decided to articulate my report about my experience in Nepal around two axes. Which are the features of the country pertaining to its status as a South Asian developing country, and the features pertaining the influence the country received from neighboring India.


Part I: A poor South Asian country

              Several features of Nepal and its culture are the characteristics of a country of his status as a developing South Asian country. Among them, I chose to deal with the reality of a country comprising several ethnicities and languages, and the consequences of poverty on the Nepalese lifestyle.

# Multi-ethnic & Multi-lingual country

              Nepal, much like many South Asian and Southeast Asian countries, is a patchwork of ethnicities and languages, which can be related to Indians, Tibetans, or even Mongolians. In order to build a modern country, a common language for all of these people is required, usually called a “bridge language” or “vehicular language”. Just like how Mandarin language was imposed in the People's Republic of China despite the prominent use of some other Chinese languages (Cantonese for example), Nepal uses the Nepali language as a mean to communicate between all of its citizens. Nepali is derived from the Sanskrit language, and uses the same alphabet as this language. The Sanskrit language, from India, is used for the practice of Hinduism, and is a symbol of high culture, much like Classical Chinese is. As Malaysian Chinese, I'm well acquainted of the requirements while living in a multi-racial or a multi-cultural country, since I had to learn Malay language as every other Malaysian citizen. As a Chinese I learn also Mandarin, despite the fact that “Hokkien”, another Chinese language, is the main native language spoken at home by Malaysian Chinese in my hometown (Penang). In Maidan, a remote village located on top of a mountain that was the first village we visited during our trip, inhabitants are mostly from the Magar ethnicity. They speak Magar Bhasa or Kham Bhasa among themselves, and both of these languages are not mutually intelligible with Nepali. Languages differences from one people to another are very common, and Nepali is not the native language of most Nepalese people. On the contrary, Brahmins or Chhetris are examples of ethnicities having Nepali as their mother tongue. Therefore in Nepal, a person will adapt and get to learn the language of the environment they are living in, which must be surprising for people from countries with a single native language, such as Japan. A striking example of how environment, rather than ethnicity can play a role on the language people speak is the case of my closest Nepali friend who resides in Kathmandu. Despite the fact that she is a Magar she speaks only Nepali. While facing the Magars in Maidan, she sometimes couldn’t understand what they were talking about, considering that as a Kathmandu dweller, where multiple communities favors the use of a single, federating language, she only needs to speak Nepali. While for an isolated village, Nepali is far from being a first choice when it comes to daily communication. The situation of Chinese languages in Malaysia and Singapore translates that particular fact about languages: Singapore, given its small size and its important economic weight historically attracted Chinese from all coastal regions of China to a single city, thus favoring the use of Mandarin Chinese language as a mean to communicate between all the Chinese communities. In Malaysia however, the size of the territory and its diversity allowed an economic specialization by region (roughly: tin mining, rubber growing, or trade), which attracted different Chinese communities, impacting the language spoken at home in these different regions nowadays. For example, the trading port of Penang and the potential for rubber growing in the surrounding area attracted chiefly Hakka and Hokkien Chinese, while the tin mining city of Ipoh attracted mainly Cantonese Chinese. Closing my point, I would say that the use of languages in a particular country obeys to dynamics relating not only to one’s own ethnicity, but also to economic activity, demographics, which is the presence of several ethnicities, then geography, history and so on. And for this, Nepal was a major study case on the subject.

# Poor country

Nepal, with a HDI of 0.558 (as of 2016), is one the poorest country of Asia, a situation brought by the recently ended civil war. In addition to that, Nepal is restrained in its development potential by the fact it is a landlocked country. Which means it does not have an access to the ocean. It shares borders with only two countries: China, and India, and by "border with China", we actually mean a border made of the biggest mountain range in the world, beyond which only a sparsely populated region can be found (Tibet). As a result, Nepal has virtually but one option when it comes to international trade: India, which is also an emerging country. Therefore, it does not have the same prospects as, say, South-East Asian emerging countries, connected to global trade routes thanks to their access to the sea. Naturally that poverty impacts greatly the way of life of the Nepalese people. Right after our arrival in the country, in Kathmandu, we could witness the reality of extreme poverty. Homeless people are a common sight. Furthermore, infrastructure as a whole is imperfect: even in the city, it is often to have dirt roads. Utilities such as water, electricity or telecommunication networks are not yet efficient. Construction sites are literally everywhere, with deposits of construction materials on the side road. It is even possible to spot livestock on the streets. Even at the hotel, the standards for cleanliness are not as high as one would expect it. Meanwhile, the use of motorcycles is widespread and largely superior to the use of private cars, which is a feature of every developing country. However, beside Kathmandu, we had plenty of occasions to see another environment, the mountainside. Japanese people are well aware of this fact: mountains impose certain limitations on development. You can hardly build something, or grow something. Consequently, in Nepal, most of the economic activity is concentrated on cities in the valleys in the south of the country, while the mountainous north is quite undeveloped, with mainly villages and small towns. This two-speed development has a huge impact on the way of life of the people living either in the southern valleys, in big cities, or those living in the mountains. For example, in Maidan or Rinhera, villagers often serve foods coming from what they cultivate themselves. Which is the separation of production and consumption, in another words, the development of market economy cannot be seen. In their daily life, the meals that they take everyday are very simple, consisting of the same ingredients. Four days staying in the villages, 2 meals a day, and we took the same thing. As for me, I welcomed it more like a form of simplicity, a back-to-basics way of life, that we couldn’t achieve while living in the cities filled with the things and services that we could easily obtain. Thanks to this “alternative” experience, Nepal taught me that there is more than the comfortable lifestyle that people usually lead in developed countries, more than the usual drives animating people (best studies, best job, etc.). And even if poverty in Nepal is a challenge to its citizens, it was at least an insightful lesson about what truly matters.

Part II: Influence of India

              From what I observed, Nepal can fairly be attached to the Indian cultural sphere, the same way Sri Lanka or Bangladesh would be. Indian culture has influenced Nepal in almost every aspects of its culture, a fact not so surprising considering that Nepal is bordering India. Among all the cultural features of Nepal influenced by India, I chose to speak about these two, considering their impact on the lives of the Nepalese people: religion, and the caste system.

# Religion

              Hinduism is the main religion of Nepal, followed by more than 80% of the population. Being from Malaysia, a country which counts an Indian minority originally from southern India, I had many encounters with Hindu temples in my own country. I also have Malaysian Indian acquaintances who follow that particular religion. However, significant differences can be pointed out with what I observed during my stay in Nepal. In Malaysia, Hinduism was brought along by Tamil people while migrating to this country, the same way Chinese brought Buddhism along with them. In a word, these two religions are imported elements to Malaysia, strongly tied to the culture of the people who brought them. Therefore, Hindu temples in Malaysia would resemble closely the architectural style of southern India, with the top of their temple being crowded with colorful figures, while Buddhist temples would follow a Chinese architectural style, with tiled rooftops, the extensive use of the red color, etc. For that same reason, it is not expected to see these religions mixed together, as they relate to two completely different cultural groups. Nepal, on the contrary, is at the very heart of these two religions, which both spawned in neighboring India. These are not imported elements as in Malaysia, but indigenous components. As a result, these religions are intertwined with the local culture to a point that I would hardly differentiate a Buddhist temple from a Hindu temple in Nepal, as they are both built in the Nepalese architectural style: dark wood, brownish bricks, etc. Even more so as one of my Nepalese friend told me that in some temples, entities from both religions were worshiped. Seeing two religions which on paper have nothing to do together being intertwined is not foreign to me though, as a Chinese. And it shouldn't be foreign to Japanese as well: indeed, Chinese religious practices draws from both Taoism and Buddhism, while Japanese see their religious practices being a blend of both Shintoism and Buddhism. Nepal taught me an important lesson however, namely that religious practices of people is much more complex than one would initially think, and is largely inter-dependent with the local culture where it is practiced, rather than a stand-alone set of teachings.

# Caste system

              Though not the best legacy of Indian / Hindu culture, Nepal also had a caste system. Even if it is no more legally enforced, it still has some consequences on the Nepalese society. Indeed, most government and administration positions are still occupied by members of the higher castes. The same goes for business owners in the private sector. I had the occasion to witness the caste system reality before, during my trips to India, but didn't have the chance to understand its full extent. I did have that chance during my trip to Nepal since I could discuss to some members of the higher castes, among the Nepali exchange students. Caste systems are not unknown to Chinese and Japanese. Originating from China, the "Four Occupations" system (士農工商, or shinōkōshō in Japanese) did rank citizens into several groups depending on their role in society, as the title suggests it. Court officials, farmers, craftsmen and merchants, roughly. The Indian-style caste system in Nepal, however, is based on ethnicity, and is therefore much closer to the reality of minorities in China versus Han Chinese, or the former situation of Ainu or Ryukyan people in Japan. The caste system in Nepal is slowly being abandoned though, which might be accelerated with the economic development of the country.

# Conclusion


              By living in a single environment for a prolonged period, we tend to not notice anymore the fundamental features of this environment. It is when we get out of this environment and experience some others that we can point at things and name them. As for me, different from the Far East Asian cultural sphere that I know about, Nepal was this other environment. At any rate, I learned a great deal of things during my trip to Nepal. By witnessing this completely different culture and comparing it to those that I know of, I could draw similarities, establish parallels, and get to know better my own culture. Beyond these teachings, it was the occasion for me to discover a wonderful country, with breathtaking landscapes and warm people. I’ve met people, seen things, experience unusual situations, and I won’t forget any of these. 

ネパール Mero Sathi Project 2017 9月 報告書 (9) 北野宏晃 (東京経済大学経済学部国際経済学科4年)

「幸せの伝道師となるために
~失敗や絶望から得た教訓~」

東京経済大学
経済学部国際経済学科4年
北野 宏晃


 私はネパール研修中、病に伏した。身動きも取れなくなり、放心状態。「ネパールまで来て、何しているのだろうか。」私は、悲しみと絶望で目の前が真っ暗になりかけた。しかし、この出来事がきっかけで、後に誰も経験できなかった「奇跡」を起こすとは思ってもいなかった。

 私は日本という大変恵まれた国で生まれ、何不自由なく生活をしてきた。海外も計9カ国に赴いた経験もあり、日本では海外慣れしている雰囲気を醸し出しているほどである。

 そもそも、私自身ネパールは今回で2度目の訪問だ。初ネパールは、この研修のちょうど半年前、AAEEのプログラムで行った。前回も、言うまでもなく満足したプログラムで、多くの学びもあり、純粋に楽しめた。

 しかし、心残りだったことが2つある。①言語が壁となって、不完全燃焼になることが幾度となくあった。②アレルギー反応(全身発疹)を起こして、一部のプログラムを途中離脱したこと。以上の2つだ。個人的に、今回参加を決意した理由は、またネパールに赴いて前回のメンバーに会うだけでなく、この2つの反省を踏まえて、研修をしっかりと全うして、ネパールの真髄により一層迫りたい。そんな願望があったからである。就職活動も無事に終了して、幸いにも、もう一度この研修に参加させていただくチャンスが巡ってきた。そして、それを皮切りに、私は英語を猛勉強し始めた。また、英語を勉強するだけでなく、日本の歴史や文化に関する勉強も怠らなかった。なぜなら、何度も海外に行って、毎回感じるのは、「日本人にも関わらず、日本について無知だった。」からである。そして、その無知が前回のネパール研修で、誤解を招くこともあった。私は、いい加減これに終止符を打ちたかった。こうして、万全を期して9月5日、私は日本を飛び出た。飛行機の中、私は英語の勉強を止めなかった。

 努力の甲斐もあって、一つ目の言語問題はなんとかクリアしたと思う。相手は熾烈な受験戦争を勝ち抜いたネパールのエリート集団。3歳から英語教育を受けた者もおり、CNNやBBCを9割理解できる英語力、教養の持ち主もいた。私はたかが数か月頑張っただけで、そういった方々と対等に話せるなどとは到底思っていなかった。しかし、明らかに前回と感触が違った。往復約30時間の悪路走行をしているバスの中、村にいる時、ポカラにいる時、夜遅くまでネパール人メンバーと多くの事を語り合えた。ジャンルは、ネパールを取り巻く国際情勢、ネパールの教育・就職事情、ネパールと日本の宗教観の違い、日本の交通事情と近現代の発展の経緯、書院造についてなど、多岐に渡る。
こんなに、濃密だった時間は一生忘れない。もっと英語を話せるようになりたい。そんな純粋な気持ちが湧き出てきて、帰国後の今でも英語の音読を重ねている。

 問題は2つめである。
それは、6日目の朝のことだった。その日は、起きた瞬間から異変が起こっていた。全身に発疹、止まらぬ鼻水、そして、呂律がうまく回らない事態。今振り返ってみれば、これは、極端な環境変化に起因する。
電気もネットもシャワーもない、そして土などでできた家の中で何食わぬ顔で草を食べてこっちを見てくる牛。その周りで羽をまき散らしながら動きまわるニワトリ。極めつきは、寝床だ。私のベッドの上は、アリとダニの大群でひしめき合っている状況だった。日本人からしたら、お世辞にもきれいとは言えない状況であろう。はじめは、雨や風を凌げるだけで満足。夜は満点の星空。飯はうまい。ホストファミリーの方が優しいから感謝。と軽く開き直っていた。しかし、日本の恵まれた環境で生きてきた自分には2日間で限界がきた。6日目、この日は村から村へ6時間かけて徒歩で移動するものであったが、歩いている最中、意識が朦朧としていた。それにも拘わらず、私は調子に乗って川に飛び込み、泳ぎ、潜水するという愚行をした。長い道のりを経て村に着いたとき、私の体はゲームオーバーだった。

 翌日の朝になっても治らなかった。不幸なことに、私が最も楽しみにしていた、小中学校での授業プログラムを辞退する結果になった。他のメンバーが充実した時間を過ごす反面、私は一人、絶望と悲しみ苛まれながら、寝ていた。2回目のネパールなのに、何やっているのだろう。どん底の状態で研修が終わろうとしていた…。

 その日の昼の出来事であった。薬の効果もあり、体調も改善してきた。とは言っても、その場には、気軽に喋れる仲間もおらず、孤独で有閑的な時間を消費していた。私にフラストレーションが蓄積されようとしたまさにその時、近所の子供たちが突如自分の部屋に入ってきた。そして、子供たちは私をつぶらな瞳で物珍しそうに見つめてきた。私は、子供が苦手なわけではない。しかし、この状況に陥るのは初めてだ。だから、私はどうしてよいかわからず、狼狽してしまった。その時、突然私の頭の中でこのフレーズが思い浮かんだ。

The surest way to be happy is to make others happy.
(幸せになる最も確実な方法は、他人を幸せにすることである。)

このフレーズは、ネパールで長年支援活動をされているOKバジこと垣見一雅さんの言葉である。6月にこの方をゼミで講演会にお招きしたのだが、その際に仰っていたこのフレーズに感銘を受けた。
 それを思い出したのだ。そして私は、この状況から子供たちがどうやったら幸せになるかを真剣に考えた。その結果私は「自分の体力が許す限り、子供たちと遊んで喜ばせよう。」という結論に至った。
 まず、大学で借りた指差しネパール語に頼りながら、ネパール語であいさつや自己紹介をして、「私は、みんなと仲良くなりたいです。」と意思表示をした。できるだけ、英語に頼らず、拙いネパール語で向き合った。その結果、子供たちの頭の中で、私を物珍しそうな「対象」として見ていたものが、「友達の一人」に代わっていた。その証拠に、私は気が付いたら子どもたちと一緒にチャンバラごっこをしていた。子どもたちが無邪気に笑っており、私をお兄さんのごとく色々と頼ってくれた場面も度々あった。私は、楽しさと同時に嬉しさも感じた。
 休憩した後、私は、日本から持ってきたUNOをやった。日本語も英語も通じない状況下、私は渾身のジェスチャーでルール説明をした。UNOの楽しさを知ってもらいたい。何より、UNOを通じて幸せになってほしい。そんな思いだった。苦労の甲斐があって、彼らは30分ほどでルールを理解し、3人でUNOをやっていた。慣れるまでに時間はかかったが、それでも諦めずに向き合い続けた。それに子ども達もついてきてくれた。その結果、気が付いたら村の子どもが徐々に集まってきて、みんなでUNOをやっている光景があった。敵味方関係なしに、無我夢中で楽しんで、自分も含め子供たちが笑顔になっていた。

つまり、OKバジさんの言葉の通り、全員が幸せになっていた。
The surest way to be happy is to make others happy.
(幸せになる最も確実な方法は、他人を幸せにすることである。)

 誰かを幸せにするって、私にとって難しい作業だと考えていた。私自身ユーモアや知識・教養は豊富ではない。もちろん、あるに越したことはない。日々我々は精進し、それらを高めることが義務であると考える。しかし、私は誰かを幸せにするためには、笑いのセンスだけでなく高度な博識が重要なのではないと思う。さらにそれより大切なのは、いかに相手の目線に立てるかどうか?そして、その人を幸せにするという強い願望があるか?だと考えるようになった。
 今回、私は童心に戻って、どうやったらうまく接することができるかを過去の経験を頼りに、必死に模索した。そして、子供たちと仲良くなりたい、笑顔にしたいという強い願望があった。だから、このようなハッピーエンドで終えることができた。

 私は来年の春から社会人となる。学生でいられる残り半年間、勉学や一人旅などを全力で励もうと思う。これは、人を幸せにするための引き出しを多く持つための準備である。それは、社会人になっても可能な限り、続けていきたい。すべては、将来誰かを何かしらの形で幸せにできる本当の意味で「幸せの伝道師」となるためにである。
子どもと指差しネパール語でコミュニケーションを取っている様子




2017年11月2日木曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 9月 報告書 (8) 鄧綺珊(東京経済大学経営学部2年)「ネパールの思い出」

  「ネパールの思い出」

東京経済大学経営学部2年
鄧 綺珊

   私たち関ゼミ生は、9月5日~17日の12日間海外研修でタイとネパールに訪問した。日本とは異なる文化を学べることに楽しみな気持ちでいっぱいだった。私は異文化、言語に興味を持っているのでこの海外研修はとてもいい経験になった。
  ネパールと聞いて、皆は何を思い浮かべるだろうか。このプログラムに参加する前の私の心の中では、マウント・エベレストとヒマラヤ、そして中国の左下にある世界中で最も貧乏な国ということだった。それ以外のイメージはあまりなかった。今年の四月からゼミ生全員がネパールについて色々調べたり、イベントを開催したり、ネパールでのパフォーマンスも練習したりしていた。最初の頃は不安しかなっかた。しかし、半年間このプログラムのため様々な準備に取り組み、さらに6月に開催されたOKバジ(垣見一雅氏:ネパール支援家)の講演会でネパールの情報をたくさん手に入れていく中で、実際のネパールは、実は自分が思うと少し違うとわかってきて、不安は次第に小さくなった。
ようやく、9月がやって来た。不安と期待を胸に私たちは旅を立った!
    初日はタイでの乗り継ぎ時間を利用してバンコクで、タイ人学生と交流した。その学生たちの日本語がとても上手だと感じた。初対面の人たちと最初は何を話せばいいのか不安だったが、日本になぜ興味を持ったのか、日本のアニメについてなど話していたら距離も縮まり会話が弾み良い時間を過ごせた。私は中国人である。日本人にとって、私自身もタイの学生たちと同じく外国人だから、交流するとき何年か前の自分の気持ちを思い出した。新しい言語を勉強したり他国の文化を触ったりするのは難しいが、他の国の文化やことばなどに興味を持ったから、日本に来た。だから、わたしはこのプログラムを参加した。
   翌日からは、ネパール人たちと12日間ずっと一緒に多文化交流。今年のゼミ生は、日本、マレーシア、中国、ベトナム、香港、フィリピンなど様々な国と文化が混合しており、英語のみならずネパール語、中国語など四言語が飛び交う不思議な空間であった。
   この研修で多くのことを学び、経験することができた。その中でも印象に残っていることが3つある。
   1つ目は、ネパールにいるときには、待つことが必要ということだ。例えば、カトマンズからパルパまでバスで12時間を掛かる予定なのに、渋滞に加えて公共交通機関を停止してしまうバンダのせいで18時間もかかった。もし日本であれば、私はどうするだろうか。多分電車が遅延したときのように、予約をキャンセルしたり、スケジュールを調整したりする。さらに相当にイライラする。しかしネパールでは、このようなことが日常茶飯事らしく、全く動かないバスの中でも「今をエンジョイすることに集中している」と感じた。18時間バスの移動中では、私たちもネパールメンバーと一緒になって話したり、いろんな国の歌を歌ったり、お互いに自分の言語を教えたりしたから、楽しくて時間経つが早かった。
 村に着いた時も責任者の人が不在で随分と待ったが、ネパールメンバーが名前を覚えるゲームをやり始め、全員参加して、ゲームを通してみんなのことをさらに知ることができた。私たちも日本や中国のゲームをみんなに教えて合い、待ち時間が素晴らしい交流の場に変わった。これらに経験を通じて私の考え方は少し変わった、「先のことなど誰にもわからないのだから、今のことをしっかりと考えて今やりたいことに集中する。今、この瞬間が楽しくて充実している方がいいに決まっている!」
   2つ目は、村滞在を通じて学んだこと。マイダン村とリンネラハ村に4泊5日間ホームステイをしていた。わたしのホームステイの家は他の誰よりも一番遠くて一番標高の高いところにあった。毎日家に帰るだけで疲れ果てて最初は落ち込んだ。しかし翌日家にでて歯を磨く時、目の前の景色は綺麗すぎて感動した。家が一番高いところにあると疲れるけど、他の人たちには見えない景色をたくさんがある!その時に思い出したのが、授業で学んだ「違う角度から物事を見ると違う答えや発想が出てくる」ということだ。村にいるとき、wifiやインターネットがないし、十分な電気や水でもなくて、とても不便だった。けれど、逆に考えると、インタネットがなく携帯でも遊べなかなったおかげで携帯依存症もなくなった。暇な時間は携帯いじるのではなく、自然と近くの人と交流することになった。この経験も「違う角度から物事を見るの重要性」に通じるものがある。おかげで、現地の人と交流して彼らの生活を感じる事、というこの旅の大事な課題にしっかりと取り組むことができた。

   3つ目に学んだのは、ネパール人の優しさについてである。ネパール学生メンバーとは研修中英語で交流し、たくさんのネパールの優しさについて知ることができた。特にマイダン村に到着した時、村の人に挨拶すると彼らは絶対笑顔でナマステ(こんにちは)と言ってくれる。日本では、知らない人に対して挨拶をしたら、恐らく不審がられてしまう可能性があるだろう。そのため、村の人々からは心から歓迎されていると感じた。村でホームステイをした時もネパールメンバーと日本メンバーの二人一組での宿泊に不安だったが、現地メンバーは皆、私たちを常に気遣ってくれ、何よりホストファミリーもたくさんご飯を出して歓待してくれ優しさを感じた。ネパールに行く前はネパールの人たちと仲良くなれるかどうか不安だったが、現地での人々と交流してみらみんな優しくて、いつでも助けてくれた。日本に戻ってきた今でも感謝な気持ちがいっぱいだ!
    ネパールで一番感じたことは、ネパール人のみんなの笑顔が素敵ということ。2週間の経験を通して、ネパールへのイメージははっきりわかった。それは貧しくても笑顔が絶えない家族ということ。日本と比べてネパールは確かに不便だが、ネパール人は充実した生活を送っている幸せな国だと感じた。幸せってなんだろう?彼らにとって、幸せは私たちよりもすぐそばにある物かもしれないと感じた。
     研修を通して、私は日本では得ることの多くの経験を積むことができた。この経験を無駄にせず、学んだことを意識してひとつでも多く身につけられるようにしたい。