2018年5月4日金曜日

ネパール Mero Sathi Project 2018 2月 報告書(4) 斉藤花歩 (上智大学総合グローバル学部2年)「ネパールで得られた学び」

ネパールで得られた学び

上智大学総合グローバル学部2年
斉藤花歩

  10日間のネパールスタディーツアーに参加し、座学だけでは分からないネパールを知ることが出来た。今回、私がこのツアーに参加を決めた理由として、大学で学ぶ南アジアの文化に興味を持ち始めたことと、学生の間に多くの国へ行き自分の知らない世界を知りたいという思いがあった。また、国際交流ができることも魅力で参加を決めた。本報告書では、プログラムを通じて私が感じたこと、思ったことを述べていきたい。
 私自身、途上国には在住歴もあるため、不安要素が一切ないまま、ネパールに入国した。しかし、そこで最初に驚かされたのは交通事情に関してである。まず何よりも、信号機がないこと。道路が一切整備されてないため、渋滞は日常茶飯事であった。今回のツアーではネパール人メンバーも驚くほどに大規模な渋滞に見舞われた。先の見えない長い道に、車の大行列。しびれを切らした運転手たちが車から降り、たばこを吸うなど、日本では考えられない光景だった。また、車線がないため、逆走する車もおり、さらに渋滞を悪化させていた。カトマンズなど市内に入ると大きな交差点に誘導員が立ち、誘導しているが、それを無視する車は少なくない。ここまで無秩序な交通事情を抱える国は初めて見たので驚きだった。しかし、そのようなときもネパール人は冷静で、ゲームをしたり歌を歌ったりたわいもない話をしてくれた。今思えば、渋滞も一つの楽しみになっていたと思う。
 今回のツアーではパルパ県タンセンから車で3時間のマイダン村にホームステイをした。村では小学校へ訪問したり、村の家に調査に出向いたり、電気や水が当たり前に使える場所ではないところでホームステイが出来たのはとても貴重な経験だった。しかし、村に辿り着くまでの道のりもかなり大変だった。ジープに皆で乗り、細い山道を通るのだが、少しずれていればその下は崖というかなりスリリングなドライブだった。車1台しか通れない道なので、対向車が来ないよう必死で祈っていたのを覚えている。やっとの思いで到着しマイダン村では小学校で多くの子供たちが私たちをお出迎えしてくれた。この村では10年前に学校ができ、1~8年生まであり50人ほどの子どもが通っている。最初は照れて近づいてさえくれなかった子どもたちが、最後はぴったりと寄り添うまで打ち解けた。村の子どもたちは皆、優しくそして逞しかった。鶏を素手でつかんだり、早朝から水を組むために足場の悪い道を通りながら大きな水タンクを背負って何往復もしていた。蛇口をひねれば水がでて、スイッチを押せば電気がいつでもつくのが当たり前である私にとって、での光景はすべてが新鮮だった。また、村での調査は、彼らを知るうえでとても有意義な時間だった。私たちが調査した女性は、夫は元々姉の結婚相手であり、姉との子どもと自分の子ども合わせて6人を育てている。夫はマレーシアに出稼ぎにいっており、仕送りは不定期なため、ローンを組んでそのお金で子供たちを学校に通わせている。彼女は、子供たちには教育を受けさせたいと言っていた。その理由に、彼女の父親は、8歳のころから家が貧しかったために住み込みで他の家のお手伝いをし、ご飯を食べさせてもらう代わりに教育を受ける機会を与えられなかったそうだ。そのため、彼女は父の体験から、子供たちにはいい教育を受けさせ、よい職についてほしいと心から願っていた。


 村での生活はとても穏やかだった。しかし、調査で村の人の話を聞くことで、どのような問題を村の人が抱えているのかを知ることが出来た。村に小学校ができて10年たったが、8年生までしかなく、ネパールでは10年生までの教育を受けた人を対象とするSEEとい国家試験を受けなければ大学どころか良い職にも就くことが出来ない。マイダン村の隣の村まで片道歩いて2時間かけたところに9、10年生の学校があるが、地理的にかなり遠いため通い続けるのが難しく、現実ではほとんどの子どもは8年生で終え、村の中で結婚をする。この村で問題とされるのが、貧困の連鎖が続いていることだ。教育を受ける環境が整っていないことと、村からでること自体が少なく、閉鎖的になっていること。そして、地理的に市場経済を持ち込むのが難しい。その結果良い教育を受けても、職が村の中にはないのが現実だ。
 私は大学の講義で、南アジアに関する講義をいくつか受講をしていたためネパールについても触れることは多かった。しかし、内容はどれもアジア最貧国、男女差別、カースト制度など、かなり悪いイメージをもつようなものばかりだった。しかし、実際に渡航して感じたネパールは温厚な人が多く、穏やかでのんびりした国だった。そして何よりもホームステイをしたマイダン村の人々の優しさは忘れられない。また、今回いくつか学校を訪問したが、その際お茶を用意してくださり、もてなす心が印象的だった。ネパールに実際に行き、私は多くの人の優しさを感じることが出来、自分が普段当たり前に感じていたものが、この国では当たり前ではないことを何度も思い知らされた。そして、自分がどれだけ恵まれているか、そして何をすべきか自分自身を見つめなおすきっかけになった。


ネパール Mero Sathi Project 2月 報告書(3) 浦江香菜子 (上智大学 総合グローバル学部1年) 「ネパールで学んだ人の温かさ」

ネパールで学んだ人の温かさ

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科1年
浦江 香菜子

 このスタディーツアーを友人から紹介されるまで、私は自分がネパールに行って現地の学生と交流するなんて思ってもみなかった。しかし、私は大学入学時から児童労働や子どもの教育などに関心があった。授業で一方的に聞くことしか出来なかったネパールの生活を実際に見て体験するというのは非常に貴重な経験であり、このチャンスを逃してはいけないと直感的に感じすぐに参加を決意した。ツアーを終えた今、私はこのツアーに参加してよかったと心から思っている。また、この素晴らしいツアーを企画・運営してくださった方々をはじめ、共に2週間を過ごした仲間たち、そしてネパールで出会った全ての人々に感謝したい。
 ツアーのなかで様々な場所を訪れ色々な人と交流したが、その中で最も印象深いのがマイダン村でのホームステイだ。マイダン村に向かうジープの想像を絶する揺れに生命の危機を感じつつ、私は村でのホームステイへの期待と不安を膨らませていた。水も電気も十分ではない生活とははたしてどのようなものなのか、村の食事は口に合うだろうか、トイレはちゃんと使えるのだろうか。心配事も多かったが、結論から言えば何も問題はなかった。懐中電灯(できればヘッドライト)とペットボトルの水さえあれば村の生活は何の支障もなく、むしろ村人同士で協力しながらゆったりと過ぎていくマイダン村の生活は、慌ただしく過ぎ去っていく東京での生活よりもずっと豊かなように感じたほどだ。


 村でのホームステイで強く感じたのが人との交流が生活にもたらす喜びである。最もそれを感じたのが村の学校の子ども達と遊んだときだ。世界のどこであっても子どもは明るくどこまでもピュアであり、その笑顔は人を幸せにすると私は考える。村の子ども達も最初は私たちを警戒して、近づいても逃げられてしまったが、だんだんと心を開いてくれて、2日目には何人もの子供たちに囲まれて逆に離してもらえないほどだった。女の子たちはとても手先が器用で私の髪をきれいに結んでさらに花を編み込んでくれたり、手遊びやネパール式の鬼ごっこを教えてくれたりした。男の子たちは元気でいたずら好きな子が多く、手の中に虫やゴミや生の唐辛子を隠し持って私に渡してきたり、木の枝を銃に見立てて撃つマネをしてきたり、カメラに興味津々で撮ってほしいといった様子で近づいてくる子もいた。子ども達はもちろんネパール語を話し、英語さえほぼ通じない。私が知っていたネパール語は「Namaste (こんにちは)」「Dan’nyabado(ありがとう)」「Mero Sathi (私の友達)」の3つだけだったが、これで十分コミュニケーションをとることができた。子供たちが私の腕や手を触りながら繰り返し「Mero sathi」と言って笑顔を向けてくれたことはかけがえのない思い出となった。この体験は、英語が苦手でネパール人メンバーとの会話にくじけそうになっていた私を勇気づけ、「もっと交流を楽しまないと!」と気持ちを奮い立たせてくれた。他者と交流することの喜びや温かさは生きていくうえで 非常に重要であると再認識させられた。
 村の子ども達と遊んだ時間はとても楽しく癒されたが、子ども達と近い距離で交流したからこそ見えてくる課題もあった。多くの子ども達は学校の制服を着ていたが、服はボロボロでところどころ破けていた。また、多くの子の肌は乾燥し手荒れをしている子も目立った。風邪が流行っていたのか鼻水を垂らしたままの子も多く、健康管理をはじめとする衛生面の問題を実感した。ネパールの学生さんたちが手の洗い方を子ども達に教えるプログラムを用意してくれていたが、そのような基本的な衛生管理が村では徹底されていないということがわかり、何か私たちもサポートできることがないかと日本に帰ってきた今でも考え続けている。マイダン村のように都市から切り離された自給自足の生活を行う村に継続的な支援をすることは非常に難しい。それは地理的問題から経済的問題まで様々な要因が絡み合っている。私のような一大学生にできることなどあるのかと悲しくなるが、そもそも貧困からくる諸問題の解決策について時間をかけて考えるというのが大学生活における私の目標であり、現在の学部を選んだ理由である。今すぐに答えが出なくても、今回のツアーで学んだことを常に心に留め、大学での残りの3年間を意義のあるものになるよう努めたい。
 今回のツアーによって、自分自身の課題についても見えてきた。それは語学力と積極性だ。私は海外で暮らした経験もなく英語は何とか日常会話が出来る程度だったため、つい英語が堪能な日本人メンバーに頼ってしまった。また自分からネパール人メンバーに話題を提示することができず、相手からの質問にも何度も聞き返して何とか答えるという完全に受身な状態であった。ネパール人メンバーとはお互いの国の文化などをたくさん話したが、自分にもっと語学力や積極性があればさらに深い話や意見交換が出来たはずだと思うと、もっと英語を勉強して行くべきだったと後悔している。次回このようなプログラムに参加する機会があれば、現地の学生とより深いコミュニケーションをとれるように英語の勉強に加えてお互いの国の歴史や政治などについてしっかりと勉強して行きたい。語学力も積極性もこれから生きていくうえで必ず必要となる力であり、ネパールで学んだことを
決して忘れずに今後の経験に役立てていきたい。

2018年5月3日木曜日

ネパール Mero Sathi Project 2018 2月 報告書(2) 宮尾直哉 (東京理科大学基礎工学部 材料工学科 2年) 「異文化、異分野での交流」

『異文化、異分野での交流』

東京理科大学基礎工学部
材料工学科2年 宮尾直哉
 今回このプログラムを知ることになったのは前回の参加者に友人がおり、その友人に発表を見にこないかと誘われ見に行ったことに端を発している。合縁奇縁なもので、この時にはまさか私が次に参加する立場になるとは夢にも思っていなかった。ネパールに行く前の私が知り言えるネパールについてのことといえば山勝ちで山羊が多く、あまり裕福な国とはいえないというような表面をなぞるようなことのみであった。今後訪れる機会も早々ないような異国の地の雰囲気や文化を肌で感じるまたとない機会であると考え、私はこのプログラムに参加することを決めた。
 私は初めこのプログラムは、今まで温室で育ってきた私には未曾有の苦労を強いられるのではないだろうかと思っていた。まず何よりも、畑違いな分野への単身の参加ということが非常に気がかりであった。誰一人とも面識もなく、おそらくこのプログラムが存在しなければ交わることもなかったような人間と10日間も行動をともにするということは、気苦労の種であろうと考えたのだ。他にはこのプログラムを共にするメンバーはネパール人と日本人の6人ずつであり、ネパール人との会話には英語が用いられる。しかしながら私の英語を話す能力といえば赤子にも満たないほどの拙さであり、コミュニケーションを取る上では重大な課題となり得た。さらには異国の地であるネパールとは大きく文化が違うということも非常に気がかりなことであった。特に食べるものである。彼らは熱心なヒンドゥー教徒であり、牛を食すと行ったことはありえない。さらにはヒンドゥー教の教えに不殺生があるがゆえに菜食主義者が多いといったようなことであった。このようの言語の違いや文化の違いといったものは、おそらく大きく人間関係を左右するものであると考えていたのである。
 しかしながら、この心配が必要のないものであったと気づいたのはとても早い段階でのことであった。ネパールでは道路の舗装が追いついておらず、それゆえに車の動きはのろのろとしたものなるために渋滞が起こりやすい環境であり、そのためにバスの移動では長時間にならざるを得なかった。そのおかげでバスの車内ではメンバーと話をし、仲を深める機会となっていた。この時にネパール人との会話をする際は何度か私が聞き返したり逆にこちらが聞き返されたりし、拙いながらもなんとかコミュニケーションを重ねることができた。ある日本人メンバーから言われた、コミュニケーションは言葉じゃなくて話したいと全身でぶつかることが一番大事なことだ、という言葉は今でも胸に残っている。
 食事なども心配することは何もなかった。菜食主義者は日本と違い向こうではありふれているものであるため、それを受け入れ譲り合うことでうまく成立しているように思えた。この譲り合いは何もネパール人同士に限ったことではないだろう。私たちの方がより文化的に遠いところに位置しており、その私たちとも譲り合いをすることでこのプログラム中の良好な関係は保たれていたのではないだろうか。
 さらに私たちは、ネパールの中でも貧困層に位置するマイダン村と言う村にも足を運んだ。初め村人は、おそらく村人以外の人間と接する機会が少ないためか非常にシャイな振る舞いを見せていた。だが子供達と接することを皮切りにだんだんと村人たちに私たちは受け入れられていったように思う。彼らは英語は話せず自分たちの民族の言葉とネパール語のみ話すことができると言うものではあったが、子供達は万国共通なもので会話よりも体を動かして共に遊ぶと言うことに比重をおいており、ともに遊びつつ交流を深めることができた。
 7日目の食事の際、あるネパール人メンバーから言われたことがある。あなたは英語で拙いにもかかわらずに交流しようと言う姿勢を持ち積極的に関わってくれる。それはとても誇らしいことだ、と。兎角自分の殻にこもりがちであった私にこのような言葉が投げかけられると言うのは、非常に喜ばしいものであった。その言葉はそこまでに重ねたコミュニケーションでは多くの言葉を用いずとも、例えて言うのなら心の交流のようなものを多く重ねられていたことの証左であるように思うことができた。
 私はプログラムを通して異文化交流を行うことができたと確信を持って言うことができる。図1のように夜通しトランプをして盛り上がるなどは出発前の自分には全く想像もつかないことであった。ともに語り、ともに笑うということが何よりも重要なことなのだと肌で感じた夜であった。

          



          図1 夜通しでのトランプ


 文化は違えど譲り合い、話そうと言うような姿勢を保つことができればどのような人とも話をし、理解し合えるのではないかといったことを体感することのできたプログラムであったように思う。初めは見知らぬ文化を肌で感じ、その文化について学ぶことを目的に参加したプログラムであったが、プログラムを通して私が感じたことといえば最も大事なものはその文化を形成している人ではないだろうかと言うことである。ここから学んだある種の異文化交流に必要な視点のようなものは今後の自分の人生に何か大きな影響を及ぼすものになるであろうと期待せずにはいられない。

            
            図2 出発前の記念写真

ネパール Mero Sathi Project 2018 2月 報告書(1)HUNG WANLUN (上智大学 総合グローバル学部1年)「ネパールで学んだこと」

ネパールで学んだこと

上智大学1年
HUNG WANLUN
 
 今回のプロジェクトに参加する前に、ネパールについて私は、後発発展途上国、自然が豊かなところ、教育における男女格差が激しいというイメージしか持っていなかった。授業でネパールの社会と政治について、レポート書いたことはあるが、自分の目で現状を見なければ、どんなに参考資料を読んで書いても、違和感を感じるので、実際に現地に行って考察したいと思って、参加を決めた。これは今回のプロジェクトに参加する一番大きいな理由であった。
 2月14日から25日まで、飛行機の時間を除いて、私たちは10日間ネパールに滞在した。この報告書は私がネパールで生活していた時に感じたこと、学んだことについて書いたものである。
 「距離の近さ」
 ネパールの道を歩いたら、歩行者と車とバイクとの距離がとても近い。私の母国でも同じことがあるので、慣れていたが、日本人メンバーからすると、これは日本ではありえないことであるようだ。そして、人と人の間の距離も近かった。我々が村に行く途中で、5時間の渋滞に巻き込まれた。車を止めるたびに運転手、または乗客は必ず車から降りて交通状態を確認し、他の運転手さんと道路脇で情報交換をする。私は時々寝ていったが、目がさめると私たちのドライバーさんはいつも違う相手と喋っていた。また、離合をするときも「向こうの交通状況はどう?」みたいな感じて会話していた。よく考えると、ネパールの道路は信号がないし、GPSも普及してないから、こういう場面が見えるのではないかと考えられる。さらに、村での生活はもちろん、目が会う時は必ず暖かい微笑みを返してくれるし、ホームステイの家族メンバーたちともすぐ親しくなり、まるで昔から知っている友達のように仲良くなった。一緒にプロジェクトに参加していたネパールメンバーたちも初めて会った日から最終日まで、ずっと笑顔で、質問があったら必ず全力で調べて答えてくれる。
「ネパールメンバーから学んだこと」
 今回のネパールメンバーはとても明るくていつでも笑顔で接する。私たちはジープが壊れ、真っ暗なところに置かれて、ホテルに戻られないところだったことや8時間以上の渋滞など、様々なきびしい状況にあったが、彼らはいつもジープで歌ったり、ゲームをやったりしていた。一番印象に残っているのは、ある日のネパール語を当てるゲームに対して、彼らはとても真剣で答えを考え、わからなかったら、ゲーム終わった後は必ず他のメンバーにあの答えになった理由を聞く。つまり、ネパール人メンバーはいつも温かく我々を受け入れた。そして時間を無駄にすることはなく、とても真面目な学生であることがわかった。
 
「村でのリサーチ」
 私たちはマイダン村で二日間滞在した。三日間滞在する予定だったが、ストライキが起こって、二日目の昼頃にストライキが起こったと知らせがあり、すぐ出発しなければどこにも行けなくなると知らされ、早めに村から去ったが、マイダン村での活動は私にとって、大切な人生経験である。
 村の貧しい状況は着く前に知っていたので、村の人々は貧しくて過酷な状況で生活しているから、うつむいて暮らしていると思っていた。この村から一回も出たことないお年寄り、お金と生活状況における問題によって、進学できない学生、私と同じ年であるが子供二人を持っている若い女性。日本に留学することができ、生活の中において困ったことがない私にとって、彼らの人生はあまりにも想像できないことだった。しかし、実際私が目の当たりに知ったのは、村民たちはみんな明るくて楽しく生活していたということだ。私にとって彼らの人生には運命に服従するしかないというものであると考えていたが、実はそれだけではなかった。彼は過酷な生活に対し、明るく生きるという選択があった。


 リサーチ活動をしていた時、私は村民たちにネパールの政治ついて色々聞くつもりだったが、インタビューした五人の中で、字が読めないから今の政府のことはあまりわからないと答えた人が四人ということで、私は改めて「この村のリーダーは女性になる可能性はあるか」と「ネパールの首相は女性になることは可能なのか」を聞いた。すると全員がこの村のリーダー(チェアマン)だと難しいけど、ネパールの首相だったら可能性はもちろんあるよという結果だった。なかなか興味深い答えだと考えられる。ではなぜ村民たちは女性の能力を信じているが、男性優位の考え方が村に蔓延しているのか、今後の勉強を通
して原因を考えていきたい。
 最後に、私は今回のスタディーツアーで様々なことを学ぶことができた。一つは、先進国での今の生活は、当たり前ではないということである。もう一つは、今の自分が持っている価値観が偏っていたということである。この2つの事を意識することによって、様々な場面において自分とは異なる文化を受け入れることができると思う。それを今後の勉強だけではなく、私生活でも生かせるようにしていきたい。