2019年4月12日金曜日

AAEEネパールMero Sathi Project 2019 2月プログラム 報告書(1)永島郁哉(早稲田大学文学部文学科1年)

「しあわせってなあに?」

早稲田大学文学部文学科1
永島郁哉

 
 読者諸君は幸せの価値観が捻じ曲げられた経験はあるだろうか。否、その様な人はほぼいないであろう。さて、今報告書は私の「幸福論の崩壊と再構築について」である。簡単に言えば「しあわせってなあに?」だ。少々馬鹿っぽくし過ぎた感は拭えないが、幸せとは何か考えたことも無かったそこの君には是非に、この報告書を読み通して貰いたい。ちなみに、今回ネパールの国内事情について話すことはしない。過去の参加者の報告書に詳細で秀逸な著述があるので、興味のある方はそちらを参照して頂きたい。
 そのテーマの特性上、本著は比較論の形式を取る。渡航前の幸せの価値観と帰国後のそれである。変化をもたらした経緯や具体例も述べていくので、退屈なレポートでは無く、体験記のように読み進められるだろう。
 私は自由を愛する。束縛、制約、拘束、抑留、制限、収容、抑圧。そんなものは糞食らえだ。元来、自由の利かない環境に耐えられない性格の私は、それを幸福論にも当てはめた。次が1か月前の私の幸福論である。「幸福とは、何にも縛られていない心理状態であり、それは社会(会社・学校・コミュニティ)、人間関係(家族・友人・恋人)、自己(過去・現在・未来)の観点で語られるべきものである。」要するに、会社で上司にプレッシャーを懸けられたり、友人関係で思い悩んだり、将来に対して不安を募らせたりしていない心理状態である。以上、私の旧幸福論を、「消極的幸せ」と呼ぶことにする。即ち、自らを拘束し得る物を避けることで獲得できる、ネガティブな幸せのことだ。
 ネパールでは、ネパール人学生との寝食を共にした交流、農場での滞在、Ghalegaun村でのホームステイ等を行った。ネパール人学生はお喋りが大好きであった。プログラム中には寝る間も惜しんで、我々と会話を楽しみ、家族や友人と頻繁に電話していたことが至極印象的である。ある日、私は学生の一人に質問してみた。「なぜそんなに話すことが好きなの?」彼女はこう答えた。「何言ってるの。私達はそう簡単に会えないのだから、今話さないでどうするの。」私は疑問であった。帰国後だってメールで会話出来るじゃないか。しかし、彼女はこう続けるのである。「私達が友人や家族とメールでは無くて、電話をする理由がわかる?それはオーラルコミュニケーションこそが大事だから。」この瞬間、私はテクノロジー社会でのうのうと生きる自分を猛省した。文学部だからこそ、文字というツールで如何に読者の情緒に訴えるかを常に考えてきた。しかし考えてみれば、そう、文字は実に味気ないツールなのである。(実際、対面や電話で話している時の方が、笑顔が多いことは言うまでもないだろう。)そして、コミュニケーションをSNSに依存していた自己が崩壊し、オーラル(口頭)に価値を認める自己に気づいた。
一方で農場やGhalegaun村では自然が私の対話相手であった。私が、広大な畑や、連なる山脈、早暁の鳥のさえずりと対面した時、私の脳は確かにそこに「対話」を見出した。それは抽象的で一般的な例えとしての概念では無く、事実として、自然と人間の間で情報やアイデアの交換が行われる。これはネパールでの強力な体験に裏打ちされているということを言わなければならない。LalitpurEdu farmで迎えた二日目の朝、鶏の声に起こされた私は棚田が一望出来る小さな丘に登った。私は口をあんぐり開けたまま動けなくなった。天晴、見事な朝焼けであった。自然は私に、太陽と緑の無作為な美々しさを教え、私は自然に、信仰心(あれは自然神に触れた瞬間かもしれない)と感謝を伝えた。また、Ghalegaun村でヒマラヤ山脈を望んだ時も同様の対話をした。ヒマラヤは私に大地の強大さと唯一無二のパワーを示し、私はヒマラヤに、白旗を掲げた。(私はその対象に諦めや恐怖ではなく、親近感や安心感を抱いた。それは一般に言えば奇妙なことだが、対象が自然の場合は当たり前のことかもしれない。)要するに、自然は対話を通して、私に、私がこれほど自然を愛し、信仰し、感謝していることを気づかせた。
以上、私が繰り返し「話」という言葉を使ったのは、そう、正にそれこそが現在の幸福論を形成しているからである。そして、誰かと「話」をする時、私はいつも知らない自分を知れる。諸君は「ジョハリの窓」をご存じだろうか?それは、「自分が知っている自己」「自分が知らない自己」「他人が知っている自己」「他人が知らない自己」の関係から作られる4つの自己領域である。(表を参照)
自己
自分が知っている
自分が知らない
他人が知っている
開放
盲点
他人が知らない
秘密
未知
「盲点」や「未知」を知ることは、新しいことにチャレンジする動機となる。新しいことにチャレンジすれば、そこには新しい出会いがあるだろう。新しい出会いがあれば、そこには自ずと「会話」が生まれる。そして私は気づいた。この連鎖は、間違いなく私を「正の向き」に連れていく。ここに新幸福論「積極的幸せ」が構築された。
 思い返せば、消極的幸せを完全体として達成することは至難の業であった。如何にして、先輩に指図されず、好きな人に振られず、将来に楽観的になる、なんてことを同時に出来るだろうか。外的要因が絡む以上、幾ら自分だけが完璧人間を目指しても、消極的幸せを掴むことは不可能だ。では、積極的幸せはどうだろうか。「話す→幸せ」以上。「え?」と思ったであろう。(私も思った。)しかし、簡潔に言えばそういうことだ。私は物事を難しく考えすぎていたのかもしれない。家族と話す。友人と話す。ご近所さんと話す。店員さんと話す。街行く人と話す。自然と話す。実に単純明快である。話すことで幸せは感じられたのだ。学生との会話、自然との対話。気づくと、私の気持ちは前向きになっていた。

 もちろん、私の幸福論が万人に当てはまるわけではないし、読者の価値観を大転換したいわけでもない。しかし、今プログラムが一人間の人生観までもを変えてみせた、その事実は揺るがない。読者も幸せとは何か、自身に一度問うてみては如何か。

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