2019年4月13日土曜日

ネパールMero Sathi Project 2019 2月プログラム 報告書(5)望月千里(筑波大学社会・国際学群国際総合学類3年)

「幸せの形」

筑波大学社会・国際学群国際総合学類3年次
望月千里

「あなたは今幸せですか?」
 唐突にこう聞かれたとき、何人の人が自信をもって「はい」と答えられるだろうか。少なくとも私はこの質問を投げかけられた時、黙り込んでしまった。おそらく、何をもって自分が幸せだと定義づけてよいのかわからなかったからであろう。実際、幸せの定義は人それぞれである。生きているだけで幸せだと感じられる人もいれば、お金があれば幸せな人、家族と過ごしている時間が幸せな人など様々だ。幸せは、目に見えない。でも感じること、言葉にすることはできる。ただし、幸せそのものの意味について考えてみるとそう簡単ではない、複雑な概念なのだ。

 ネパールに渡航する前の私は、幸せを「物理的幸福」と「精神的幸福」の2つに分けて考えていた。一般的に言われるように、日本はモノに溢れた豊かな生活を送りながらも自殺や過労死など精神面の課題に直面している。その現実をみると、国として発展し知識や情報を得やすい環境にいることが、幸せを感じにくい環境を作り出しているように感じ、何とも言えない気持ちになった。でも本当にそうなのだろうか。ネパール人が持つとされている精神的幸福を、我々日本人が感じるにはどうしたらいいのだろうか。渡航前の私は、この点に疑問を抱えながら悩み続けていた。

 2月某日、ついにプログラムがスタートした。まさか学生のうちに2回もネパールに来ることになるなんて思いもしなかった私は、リーダーというポジションでプログラムを遂行していくことに責任や不安を感じながらネパールの地に足を踏み入れた。私たちはプログラム中、首都のカトマンズをはじめ、そこから8時間ほど離れたGhaleguan村、第2の都市ポカラなど様々な土地を訪れた。プログラムでは多種多様な人と交流し、そこで得た経験を参加メンバー間で議論することで、ネパールのあらゆる地域に住む人々の幸せについて考え続けていた。

 様々なアクティビティを経ていく中で、現地で出会った人に共通している考え方を見つけた。それは、「現状満足」であった。村で4泊のホームステイをした際に、村の人々にインタビュー調査を行った。都市部で生活する子どもたちと離れて暮らす年配の女性、村のマネジメントを行っている男性、家族でホームステイを仕事にしている家庭など様々なバックグラウンドの人たちにお話を聞いた。その中で印象的だったのは、自分が生まれ育った地を離れたいという人が1人もいなかったことだ。中にはカトマンズや海外など、外の世界を知っている人もいたが、それでも皆自分の故郷をとてつもなく愛していたのである。
またある日は、ポカラで老人ホームに訪問する機会があった。そこで施設長の方が紹介してくれた女性は、自身をHappiest womenと名乗っていた。彼女は、そこでの生活をこう語った。「ボランティアの人たちが私たちのためにいい服や食事をくれるけど、私は今自分が持っているもので十分幸せなの。ここにあるもの、ここでみんなと住めることが私にとっての幸せ!」彼女の無垢な笑顔から、その言葉がいかにまっすぐなものかが心底感じられた。

 一方で、私たちはどのように生活を送っているであろうか。日本は事実、ネパールよりも自由度が高く、選択肢が多い。その中で私たちは、自分の立場に関わらず会いたい人に会うことができ、行きたいイベントがあれば参加し、そこから多くのことを得ることができる。つまり、自分の自由意志により貪欲に人生を選択していくことができるのだ。可能性が無限大にある分私たちは現状に満足しづらく、人と比較し自分に足りないところを見て、その穴埋めをしようと努力する傾向にある。考えてみれば、自分より経験や知識が豊富な人に会った時、自分がいかに能力不足か思い知るのは当たり前である。ただそんなときこそ、一度立ち止まって自身の置かれている現状を見直してみてほしい。刺激をもらえる人に会えたこと、やりたいことをしてそこから学べること、20歳そこらで海外への切符を手に入れることができたこと。それら1つ1つに与えられた機会は、自分だから得られた貴重で尊いものであることを実感し、その現状に満足することも時には必要であると感じる。

 渡航前、私が悩んでいた疑問についてもう一度考えてみる。知識や選択肢が溢れた日本社会で生きることで、私たちは幸せを感じにくくなっているのだろうか?いいえ、決してそんなことはない。形は違えど、私たちの周りには幸せが溢れている。ただ、「幸せ」かどうか決めることができるのは環境や周囲の人ではなくいつも「自分自身」であることをわかっておく必要がある。コップに入っている水を見て、「半分”も”入っている」と思うのか、「半分”しか”入ってない」と思うのかの違いだと思う。そこに優劣はないが、どちらの生き方が自分を豊かにし、HAPINESSにより近いか考えてみてほしい。
 
 結局、物理的幸福や精神的幸福と分けて考えられているけど、そんなもの実際どうでもいい。それよりも、可能性のありふれた社会で貪欲に生きながらも、自分が今置かれている現状にどれくらいありがたみを感じられるか。それが自身の幸せへの大きな一歩となるのだと私は自信をもって言える。

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