2020年10月30日金曜日

バングラデシュ BJEP 2020 (Bangladesh-Japan Exchange Project 2020) 報告書(6) 山中麻衣(立命館大学国際関係学部4回生)「 BJEP2020を振り返って」

 目次

1. 参加したきっかけと理由

2. 総括

3. 国際交流における『サードプレイス』としてのオンラインの可能性

4. オンラインでの国際交流から得た学び

5. 終わりに

 

参加したきっかけと理由

実は私はこのプログラムとAAEEの存在を、プログラム応募締め切りの前日に知った。きっかけは、参加予定であった留学プログラムのLINEグループで、同じプログラムに参加する予定であったAAEEのメンバーが、知らせてくださったことだった。偶然が重なり、このようなひょんなことから、しかも応募締め切り前日に知ったプログラムであったが、私はLINEで告知を見た瞬間に参加を決めていた。理由としては、『本プログラムのテーマが、「教育と格差」という大学生活で興味を持ってきたこと内容であったこと』、『高校時代陸上一筋だった私が、大学では国際関係を学びたいと志すきっかけとなったバングラデシュとのプログラムであったこと』が挙げられる。しかし何よりも、3回生の夏に交換留学から帰国してからこの1年間、社会との接点から自分自身の生き方や価値観と向き合い、自分の将来を考える過程で、これまでの人生で最も悩み、苦しくも感じるうちに、出口の見えない暗いトンネルの中でどこか悲観的で閉鎖的になってしまっていた状態から、「未来志向で自分の意志を持って可能性を見出していく突破口としたい」という想いと期待からだったように思う。

 

総括

 上記のような経緯で参加したプログラムであったが、プログラム終了から1ヶ月近く経過した今振り返って、結論としては、BJEP2020は私が立ち止まっていた暗闇の中に光を差し込み、私を前に向かせてくれたと思う。

 プログラム中に感じたこと、学んだことは数多くあるが、ここでは主に昨今のパンデミックの状況を学部生として経験しているからこそ巡り合えたであろう「オンラインでの国際交流プログラム」に焦点を当て、振り返りたい。

 

国際交流における『サードプレイス』としてのオンラインの可能性

 『実際に現地に行くこと』。

これは国際交流において醍醐味の1つであると思う。このように感じるのは、これまでの経験で実際に現地にいったからこそ得られたであろう学び、発見、感情があることを実感し、そのことに国際交流の意義を見出していたからであると思う。振り返っての答え合わせのような形にはなるが、実際に現地に行くことに国際交流の意義を見出していたのはなぜなのかと考えると、それは、その土地に入ることで初めて自分事として考えられるからだと思う。その土地で、環境や制度などのシステム、その元でそこにいる人達が織りなしている価値観、正義、生活様式などを、自分自身もその空間に身を置くことで当事者として捉えることができるということだ。新しいものを自分なりに捉える過程で共感したり、違和感を認識したりする壁打ちを、その空間の中でそこにいる人としているうちに、自分の考えを認識し、アップデートすることに成長を感じていたのだと思う。特に「心から理解したいと努めているのにもかかわらず全く共感できないと感じた時に、自分の現在スタンスとしては異なる感情や意見を持つけれども、相手のこととして理解はできる」と自分なりにどこにいけばいいのかわからない感情を処理した瞬間が強烈に心に残っている。これこそが私が国際交流に関心を持っている理由でもあるように感じる。

前置きが長くなってしまったが、上記のように実際に現地に行くことに国際交流の意義を感じていた私が、世界中が主にそしてコントロールできない外部環境によって移動すること自体困難な状況下で初めてオンラインでの国際交流プログラムに参加して、もちろん難しく感じた点もあった一方で、完全に予想外だったのは、対面とは異なる評価軸での可能性を感じたことだ。それは『サードプレイス』としてのオンラインの可能性である。非日常的な空間に入り、そこにいる人々と対話し、作りだされ、共有されているものに触れることで違いを認識し、「外部者」としての自分を意識している状態で、無意識のうちに自分が想像するその空間、人々にとっての「ふつう」を想定し、もっと言えば相手とそこでの文化を尊重したいと思うばかりに、目の前にいる相手のみならず、その場所とその人を通して想像した「ふつう」に寄せにいっていたことに気づいた。だが実際には私にとっての日常空間と同様に、その空間・そこでの人々の中にも「ふつう」というものは実在せず、むしろ想定した「ふつう」が現実から飛躍したものである場合さえ少なからずあると思う。これは国際交流でなくとも、地方から東京への上京、高齢者と若者など異なる世代間でのコミュニケーション、異なる学校・大学からの学生間でのなどのある意味での「異文化交流」においても起こり得ることで、言い換えればその空間に入ることで初めて自分事として考えられることのもう一つの側面であるともいえると思う。自分事として考えて、意見をもっていたと思っていた自分は、想像する「ふつう」という虚像に引っ張られていた自分と、そこから出てくる考えや意見であったり、または相手を知ろうとする過程で、傷つけてしまうことを恐れて慎重になり、相手を尊重することを強く意識することで「ふつう」を通して人や景色をみていたことで、みれなかったこともあったと思う。このことに気づいたと同時に、やはりその空間に入るからこそわかることも多くあると強く感じた。本プログラムの充実感の裏でカルチャ―ショックを感じなかった自分にすら気づかなかったことも、空間に入らないとわからないことがあると考えれば納得がいく。それでも私は、フラットな空間で、虚像としての「ふつう」に頼らない尊重をベースとした人と人の間の対話を、場所や費用、個人が抱える事情などの前提条件を取っ払った状態で可能にしてくれるという点で、ホームでも、アウェイでも、はたまた双方にとっての第三国、いわゆる外国でもない、「サードプレイス」としてのオンラインでの国際交流に大きな可能性を感じると同時に、ここに交際交流の本当の意味での意義が詰まっているように感じた。

 

オンラインでの国際交流から得た学び

 ここでは、少しスキル的な話になってしまうが、国際交流をオンラインでやってみて、オンラインであるからこそ重要度が増すと感じたことについて記述したい。

     チャットがきちんと機能するか

 話している内容を明確化するだけでなく、コミュニケーションを生み出す共通基盤を持つ。言語情報とコンテンツ以外共有しているものがないため、共通認識を持ち、そこから議論を展開していくために、対面で行う場合よりも重要度がますと感じた。

     「話す力」、「聴く力」以上に「問う力」

 会話では、基本的に話す・聞く(聴く)ことがメインになるが、オンラインでの会話で難しいのは基本的に1つの空間で同時に話すことができるのは1人で、さらには余白がないため、雑談も生まれないということだ。その結果、対面での会話以上に極端に特定の人が一方的に話す一方で、特定の人一方的に聞いているという状況が生まれやすいと思う。壁打ちをする中で議論を深めいくことなく、時間が過ぎてしまうこともプログラム中に経験した。その時に重要であると感じたのは話す力・聞く力以上に、議論の趣旨は何なのか、相手が意味していることは何なのか、その上で発散も収束もしながら趣旨から浮いた空中戦になることなく、議論を深めるためには何を知りたいのかを考えて「問う」力だった。

 

終わりに

ふと立ち止まった時に今まで自然にできていたことができていなかったことに気づいた時、自分の不甲斐なさに落ち込んだとしても、そのことに気づくことができたこと自体が自分自身をまた次の世界に向かわせてくれること、人に対しても物事に対しても、同じものに触れたときに長所に目がいくか、短所ばかりにとらわれるかで見出せる可能性やそこから描けるものが変わってくることなど、ここには書ききれないほど多くのことを本プログラムを通して学んだ。

最後になってしましましたが、このような機会をくださった関先生、オーガナイザーの方々、参加者の皆さん、協力してくださった全ての方にこの場をお借りして、心から感謝申し上げます。皆さんとこのプログラムに出会えて本当に光栄です。ありがとうございます。



 

 

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