2017年5月6日土曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 報告書 (4) 比嘉海斗(東京経済大学4年)「私が学生生活を捧げた多文化間学生交流と、そこから得た学び」

「私が学生生活を捧げた多文化間学生交流と、そこから得た学び」
  
                          比嘉海斗(東京経済大学4年)


2017222日から35日までの約2週間、私は再びネパール学生交流研修に参加した。2016年途中より、日本では学生と言う身分を持ちながらもベトナムの現地会社で正社員として勤務していた私は、最初参加するか否か悩んだ。しかし、またネパールに行ける喜びがあり、さらにこれが私の日本での学生生活を締めくくる最高の機会だと確信し、参加を決意した。ベトナムの会社には相当無理を言って休みをいただいた。
 本報告書では、私が今回の研修の振り返り一番印象的であったシックレス村のカースト制度の問題に触れる。また、今回の研修も含め私が学生時代に参加してきた数々の学生交流研修の共通テーマであった「多文化間学生交流」に焦点を当てて述べていきたい。

 まずはシックレスの村におけるカースト制度である。シックレスという村は、首都のカトマンズからバスで8時間、さらにジープで7時間上った地にある標高3000メートルに位置するの小さな村である。この村は私が過去に行ったことのあるさらに離れた辺境の村とは違い、村には地図やゲストハウスが設置されわずかではあるか発展しているようだった。ヒマラヤの絶景のおかげであるという。観光客も多数訪れていたが、しかしそこに住む村人はひっそりと昔ながらの伝統的な暮らしをしていた。
 しかし、活動の一環で取り組んだ「参加型農村調査」(Participatory Rural Appraisal から、一見のどかなで楽しそうな村からは想像もつかないような問題がこの村を支配していることを知らされた。カースト制度である。カースト制度とはインドから伝わる階級制度であり、下流階級から生まれた人は一生下流階級というのがこの制度の特徴である。この調査を通じ、カースト制度が今のネパールにも根強く残っているということを初めて思い知らされることとなった。
我々は、村に住む様々な階級の家庭を訪問調査する機会をいただいた。概して上流階級の人々は高い土地に住んでいて、下に下がるにつれて階級も引くなる。我々はその中でも特に低いと言われる階級の家庭を訪問した。その家には70歳を超えたおじいちゃんと小さい子供を抱えた20歳くらいの若い女性がいた。話を聞くと、彼にはたくさんの子供がいたが、皆、差別される家庭環境に絶えられず逃げてしまったようだ。そこに住む若い女性の旦那である彼の息子も、ずいぶん前に奥さんと子供を置いて逃げてしまったらしい。取り残された彼らは、仕事もないため、毎日物乞いをしながら生きているという。
しかし、彼らが他の家庭に物乞いをしても、上流階級の人々は彼らに食料を与えないどころか、家にも入れさせてくれないため、毎日食べる食料すらままならいと泣きながら嘆いていた。私はこの状況を目の当たりにして、言葉を失った。こんな小さな村でも階級により人々が差別されていることに驚き、同時に生まれながらに身分を決められ運命が決まってしまう身分制度がどれだけ深刻な問題であるのかを気付かされた。
私からすれば、単純にこんな小さな村なのだからお互い助け合いながら生活したほうがよっぽど楽ではないかと考えてしまう。しかし、これはこの地域そして民族に根付いたずっと昔からの伝統、文化であり、私のような外者が数日間の滞在だけで判断できるものではない。共に活動に取り組んだネパール学生メンバーは都会部で育ち安定した学校教育を受けておりカースト制度の影響を受けて来なかったそうだ。このような不公平な制度はすぐにでもなくなるべきだと主張し、カースト制度を肯定するような長老に憤っていた。
この問題について、我々に今できることは何か。それは、単に「こんな差別はひどい!」と批判するに留まらず、皆で問題を共有し、問題解決に向けた指針を検討していくことにあると考える。基本的にはその国の問題はその国の人々が考え改善していくことであるはずである。しかし、今や一国の問題をその国のみの力だけで解決できる時代ではなく、多角的視点から解決を図るグローバルな時代である。この問題でもネパールメンバー、日本メンバーが激論を交わしたように外部者である我々との交流により、新たな道筋も見えてくるかもしれない。(余談であるが)私は関先生のゼミ生として先生に学ぶことが多かったので、関先生がこのようなことを意図して活動を継続していることをよく知っている。
 次に、私は大学生活のほとんどを捧げたと言っても過言ではない多文化間学生交流について述べたい。
 私はこの4年間でベトナム、タイ、ネパールなど様々な国にAAEEや大学のゼミでの研修を通して訪れ、ただ訪れるだけでなくその国の学生と実際に交流し、英語で会話をし、そして真の友情関係を築いてきた。今まで日本の中で生活し、日本の価値観の中だけで生きてきた私であるが、外の世界を知ることで日本の当たり前は他の国では当たり前でないことを気づき、物事を以前よりも客観的・相対的に考察できるようになった。さらに異文化に触れることで、日本の文化、自然そして日本人の優れた点にも気付かされた。
 多文化場面で交流をする上で欠かせないのは、まず英語力である。私は大学2年次にベトナム研修に参加した時、英語ができなくてせっかくの研修が苦い思い出に終わってしまった経験があり、そこで英語の必要性を強く感じた。英語ができなくても、笑顔があれば通じあえるというのはうそではないが、その人、その国を本当に知ろうと思ったら笑顔だけでは足りない。実際に言葉を交わして語り合わなければ、真の異文化交流はできないだろう。
 しかし、英語力よりも知っておかなければならない大事なことがある。それは違いを受け入れ尊重する心である。世界には様々な国があり、それぞれがその国特有の文化、風習、価値観を備えている。それらに遭遇したときに、「日本とは違うから理解できない」 と思うのか、「日本とは違うが、みな違っていい」と思えるのかには大きな違いがある。グローバル化という言葉にも表せられるように、これからは他国、他文化とのつながりがより強固なものになろうとしている。このような時代には、自国、自文化のことばかりに目を向けるのではなく、他国、他文化に目を向け、関心を持たなければならない。一人一人が個人レベルで異文化に触れ、自国の外ではどのような人が住み、どのような物を食べ、どのような暮らしをしているのか。そのような他国の現状を把握し、そして違いを受け入れ尊重する心を養うために多文化間交流があるのだ。

私の心の成長に関わってくださった多くの皆さま、私に新たな視点を与え続けてくださった関先生、そして何よりも私の自由気ままな行動を温かく見守ってくれた家族に心から感謝の意を表し、本報告書の結びとしたい。ありがとうございました!

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