2020年4月14日火曜日

ネパールMero Sathi Project 2020 2月プログラム 報告(5)上松蒼波(新潟県立大学 国際地域学部 国際地域学科 1年)

「変われなかった」

新潟県立大学 国際地域学部 国際地域学科 1年
上松 蒼波

このネパール研修は私に今までにない経験と、自分と向き合う機会を与えてくれた。このプログラムに応募したのは、今の自分を変えたい、いつもと違う場所に行って、何か違うことをしたいと思ったことが主な理由だった。その目的が達成されたかというと、正直ノーだ。新潟に戻れば、その場所の生活に戻り、特に変化なし。しかし、ネパール研修中に自分の弱点を見つけ、克服しようとトライした。そして、日本人、ネパール人メンバーからたくさんの刺激をもらった。
ここからは、ネパール研修やネパール研修の前後の出来事から感じた、ネパール人の心の距離と、貧富の基準の二点を述べたい。
 ネパール人は人との心の距離が近いと感じた。ネパール人はとにかく思いやりがあって、優しい。これを、ネパール研修中に起きた出来事を通して伝えたい。
研修初日、日本からネパールに行く途中、日本に留学していた一人のネパール人と席が隣だった。彼は「日本人ですか?」と私に話しかけ、会話が始まり、私たちは経由地の香港に着くまでずっと話していた。ネパールに行くのが初めてだと言うと、彼と、同じ飛行機に乗っていた5人の友達が一緒にネパールまでついて来てくれた。その一人は、携帯電話の充電がゼロで絶望的だった私に、彼も充電が少なかったにもかかわらず充電器を貸してくれた。なぜこんなにも親切なのかと彼らに聞くと、「人を助けることが好きなんです、だから」と返ってきた。
ネパール人メンバーと約10日間過ごしていて驚いたのは、ほぼ全員が両親と毎日電話をしていたことだ。なぜなら、私はネパールにいてもLINEのメッセージ機能で連絡を取り合うくらいで、電話するという考えが頭になかったからである。さらに、両親と電話をしていた日本人は二人のみでそれぞれ一度だけであった。私は何を話すのかネパール人メンバーに聞くと、「朝ごはん何を食べた?」「今何している?」といった簡単な内容だと言う。ネパール人メンバーとは今でも連絡を取り合っている。彼らが「元気にしている?」「今何している?」といったメッセージを三日に一度のペースで送ってくれる。日本人とネパール人の連絡の頻度の差、メッセージはいつもネパール人から来て、私が返信するという流れはなぜ起こるのだろうと疑問に思った。もちろん、日本人でもマメな人はいるが、実際にネパールに行ってマメな性格だからといって起こることではないと思った。私は心の距離が近いから起こるのだと思った。ネパール人は相手と交流したい、良い関係を築きたい、困っている人を助けたいというように、周りにいる誰かを視野に入れて行動していると感じた。一方、日本人は他者との関わりが少なく、一人一人が個々に生活しているように感じた。ネパールに来る前、私は積極的で相手との関りを大事にしていると思っていたが、人前で手を挙げて発言するために頭の中で自問自答を繰り返すし、バスでの移動中は英語での会話に疲れ、寝たふりをする自分本位な所があった。ネパールに来て、ネパール人の心の距離の近さとともに自分の弱さも相対的に知ることができた。
 次に貧富の基準について。このプログラム中にずっと考えていたことである。私たちは、4日間シクレスという村にホームステイをした。私は正直、この村の生活は貧しいと思った。村では蛇口をひねってもお湯は出ない、寒くてもヒーターはない、毎日毎食ダルバートという名前のネパールカレーを食べる生活である。この村で一生涯暮らしていくのはかわいそうとさえ思ってしまった。しかし、村の人たちに「経済的に、自分の家族は社会的においてどの位置にいると考えますか?」と聞いたところ、質問した二組の家族が平均以上の位置にいると答えた。驚いた。貧しいなんてこれっぽっちも思っていなかった。私は、村の人たちにとって、その生活が当たり前で、村の人たちの中に基準ができているのだと感じた。例えGDPや収入の低さから貧しいと言われても、その人が貧しさを感じていなければ、その人は貧しくないのだと分かった。貧しいか裕福かどうかは一人一人の価値観の中にあり、数字では表せないのだと気づかされた。シクレスでのホームステイは、今回のテーマである「ダイバーシティ」について深く考えさせてくれた。
ネパール研修の最後のプレゼンテーションが終わると同時に、私は頭痛と身体の熱さで倒れそうだった。解熱剤を飲んで少し良くなったので昼食を食べ、みんなと最後の夕食をとった。その夜高熱を出し、カトマンズで3日間入院をした。日本にいるときでさえ入院したことがなかった私が、ネパールという異国の病院に泊まることに不安とわくわくでいっぱいだった。入院中、面白いことがたくさん起こったので二つ紹介したい。一つは、看護師さんについて。私の高熱は細菌が原因で起こったそうなのだが、“What kind of bacteria?”と尋ねると、“general bacteria”と言われた。聞き方に問題があったのかもしれないが、細菌の名前が知りたかった。また、看護師さんが持ってきてくれる病院食には私が選んだメニューに、必ず頼んでいないものがついてきたり、熱を下げるからと言って、スプライトを持ってきてくれたり、何でもアリな病院だった。もう一つは、お見舞いに来てくれたネパール人について。彼は、私が入院中、毎日数回ずつお見舞いに来てくれた。しかし、いつも5分くらい部屋の中を歩いて、“Aoba, are you ok?”と体調を確認して帰る。彼は、私が入院中、毎日数回ずつお見舞いに来てくれた。しかし、いつも5分くらい部屋の中を歩いて、“Aoba, are you ok?”と体調を確認して帰る。彼は、忙しいのに毎日来てくれて、疲れているはずなのに顔に出さなかった。想定外の入院生活は奇妙で面白く、周りの人の支えや愛情を感じた。
最後に、私は自分を変えたくてネパール研修に参加したが、変われなかった。しかし、ネパールでたくさんの人と出会い、笑って、泣いて、怒って生活してきた中で、今の自分に満足している人はほとんどいないと思った。みんなもっとこういう風になりたいと一生懸命なのだと気づかされた。この旅で自分の決めた目標に貪欲に一生懸命に挑戦していこうと決めた。

2020年4月13日月曜日

ネパールMero Sathi Project 2020 2月プログラム 報告書(4)渡辺ひなの(上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科 1年)

『「知る」ということ』

 上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科 1年
渡辺ひなの

 私がネパール研修の参加を決めたのは、他の人がやらないような珍しいことに挑戦し、日本から飛び出して自分が知らないもっと広い新しい世界を知りたいと思ったからであった。ネパールでの約2週間の経験は、非常に新鮮で予測不可能なものであり実に発見が多かった。日本と異なる部分だけではなく似ている部分が多くあることにも驚いた。そして、普段日本で生活していて気づかないであろう当たり前のことや自分が無意識に持っていた偏見に気づかされたり、交流を通して自分自身と向き合い新たな自分を知ることができた。私は研修全体を通して非常に多くのことを経験し学んだが、主に「知る」ことの重要性と困難さについて述べたい。

 まず、貧困というと私たちは何を思い浮かべるだろうか。十分なお金がなく生きるために必要なものを手に入れることもできず、路上に暮らすかわいそうな人々を想像するだろうか。私もこのようなイメージを抱き、かわいそうな貧しい人々を助けなければならないと考えていた。確かに、首都のカトマンズでは少年が一人でものを売ったり、子供を連れたお母さんが物乞いをする場面を頻繁に見かけた。その度に私は心を痛めた。しかし、貧困=かわいそうという考え方は三日間のシクレスでのホームステイでは違っていた。シクレスは都市から離れており標高の高い場所に位置する小さな共同体の村であり、グルン族という民族が暮らしている。農業や家畜を育てて自給自足するほか、ホームステイで生計を立てている。頼りない電気は頻繁に止まり、出てくる水は凍えるほど冷たい。ここでの生活は非常に質素で決して便利ではなかったし、とても貧しそうに見えた。しかし、二日目にグルン族の家庭を訪問しインタビューを行ったところ、彼らは自分たちを決して貧しいとは感じておらず便利な生活ができる都市に住みたいとも感じていなかった。なぜなら、彼らにとってはシクレスは故郷であり日常であり人生であるからだ。話を聞いていると、近くに住む隣人が数人集まってきて嬉しそうに互いに話を交わしており、彼らは隣人との繋がりが強く相互に助け合って生きているということもわかった。とても穏やかで幸せそうだった。私たちは実際の状況や住んでいる人々の背景を知らずして、外から「助けたい」だの「かわいそう」と考えるのは間違っていると感じた。そして、私たちは無意識に自分たちの生活を基準に物事を考えているということに気づいた。
 次に、交流するにあたって私が非常に強く感じたことがある。それは、いかに自分が知識不足または能力不足であったかということである。最も私が知識不足を感じたのは、日本のことについて聞かれたときであった。ネパール人メンバーと会話をする際、彼らはネパールのことについて詳しく教えてくれた。私も日本の文化や社会について教えたりしたが、政治や経済の問題など深いことについては教えることができなかった。私が特に印象に残っていることは、ジェンダー問題について議論する際ネパール人メンバーはネパールの深刻な状態について詳しく説明しどのように解決するべきか語っていた時の熱意とその知識に圧倒された。一方で、私は日本における問題点を詳しく説明することができず自らの知識量の少なさを実感した。彼らは日本にはジェンダー差別が存在しないと思っていたと知り、私はますますマイナスの面を伝えたかったが表面的になってしまったことを後悔している。この経験を踏まえて、私はもっと自分の国について知らなければならないと感じた。しかし単に幅広い知識を身に付けるというのではなく、自分の国の問題点やマイナス面に焦点を当ての能動的に知ろうとしなければならないと感じた。
知識不足に加えて、能力不足を感じたのは主に英語力である。英語力不足は研修の最初から感じていたが、それが原因で私は話すことに自信を失いネパール人メンバーとコミュニケーション取ることを少し恐れていた。そして、私は英語を話すと内向的な性格に代わってしまい自分でも混乱していた。正直これほど自分自身の弱みに向き合うことになるとは想像していなかった。しかし、ネパールに来て三日目の夜、メンバーそれぞれが抱える不安や悩みを打ち明けて全員で共有した。私は英語力で自信を失っていることと内向的な性格にについて打ち明けると、ネパール人メンバーの中にも同じような悩みを抱えている子が多くとても安心した。この機会をきっかけに、他のメンバーが自分を気にかけてくれたり自分でも意識的にコミュニケーションをとることができ、一気に距離が縮めることができた。自分自身の不安を仲間が理解してくれることで私は失敗を恐れずに挑戦できたと同時に、私たちが仲間の不安を理解することで彼らの成長を感じることもできた。結果的に、私を一生懸命理解しようとしてくれた仲間の存在のおかげで、徐々に自信を取り戻し英語力は必ずしも全てではないと分かった。自分自身と向き合ってこそ他者という存在の重要性を実感させられるような国や言語を超えた相互理解ができ、このような深い交流ができたことを嬉しく思う。
 最後に、研修を通して私は非常に多くのことに気づき学ぶことができた。そして、日本では決して経験することができないような貴重な経験をすることができ、濃い充実した2週間を過ごすことができ参加して良かったと心から思う。ネパールは未だ発展途上であるものの、いつも笑顔で明るく情熱的なネパール人メンバーを始めとして、関わった全てのネパールの人々を見ていると、この国の将来はより明るく希望に満ち溢れているのだと感じる。私は同世代の彼らの熱意に感化されたこの機会に、より自分の知識と英語力の向上に励み何らかの形で将来につなげたいと思う。そして、ネパールでの生活で感じた一つ一つの感情や新鮮な気持ちを忘れずに、自分が日々の生活を当たり前に過ごしていることに感謝して生きたいと思う。


ネパールMero Sathi Project 2020 2月プログラム 報告書(3)關根ゆり子(上智大学文学部フランス文学科 1年)

「感性を取り戻す旅」


上智大学 文学部フランス文学科 1年
關根ゆり子

私はネパールへ行く前に、この旅の目標を決めた。題して、「感性を取り戻す旅」だ。理由は簡単で、ただ精神的に豊かな生活を取り戻したかったからだ。私は高校生の頃1年間ベルギーへ留学した際、道端に咲いたタンポポに感動し、綺麗な空を見るだけで涙を流すほど感性豊かだった。しかし、日本に帰国してからは毎日ぎゅうぎゅうの電車に乗り通学し、放課後は大学受験のための塾へ行き、せわしない生活に戻った。完全に東京に揉まれて感性など失っていたのだ。そこで、今回このプログラムで新たな世界を見ることで感性を取り戻せるのではないか、と考えた。この報告書では、私の心がどう変化したかについて述べようと思う。
 結果からいうと、滞在中は感性を取り戻すどころではなかった。あまりにも今まで私が訪れた国とは異なり、歩いているだけで質問で頭がいっぱいになる程刺激的な毎日だったからだ。感性を取り戻すのを超えて、新しいことに興味が湧き、新しい自分に気づいた旅となった。そんな旅をするうちに、感性を豊かにする方法を学んだことに気付いた。それは、日常のすべてを五感で感じることと、自分に自信を持ち命と環境に感謝することである。
 まず、五感を駆使することでより多くの文化を感じ取ることができる。例えば、聴覚。日本でイヤフォンで音楽を聞かない日はない私が、12日間1度もイヤフォンを使わなかった。常にネパールメンバーと話し、ネパール音楽を聞き、街の音を聞いた。車の走る音が夜も絶えず宣伝やアナウンスの音が大きい日本に比べ、首都カトマンズではバイクとクラクション音が大きく、小さな町シクレスでは鳥のさえずりの他は何も聞こえなかった。私が毎日音楽でシャットアウトしていた街の音だけでこんなにも違いを感じることができた。そして何より五感を使ったのは、人と会話する時だ。ただ聞くことに集中するのでなく、相手の動きをよく見たり、相手との距離感を感じることでどう返せば良いかを考える。そうすることで、新しいことに気付いたり感性も磨かれ、同時に相手と仲良くなることができた。また、仲良くなれたことでネパールの歴史や彼らの考えなども深く聞くことができた。私は幼い頃から、祖母に「何よりも友達を大切にしなさい、友達は何でも教えてくれるのよ。」と言われて育った。今回はまさに祖母の言葉を実感した旅となった。そして、ネパールメンバーは五感を使うのがとても上手い。彼らは日本メンバーへの観察力がすごく、何も言わなくてもこちらの気持ちに気づいてくれたり、とても気遣ってくれた。これが彼らの長けた想像力に繋がっているのだと考える。シクレスの学校での授業を準備していた時、私は彼らの想像力に圧倒された。一人一人のアイディアがとても面白く、相手の意見を取り入れながら新しいアイディアが次から次に出てあっという間にクラスの内容が決まっていった。説明するのに時間がかかる私の意見も時間をかけて一生懸命聞いて取り入れてくれた。私はこれから意識的に日常の様々なことに対して五感でアンテナを張ろうと思う。
 そして、二つ目に自分に自信を持ち自分の命と環境に感謝すること。私は物質的に豊かな生活ではなく、精神的に豊かな生活をしたいと思っていた。そのために今回のプログラムに感性と取り戻す旅、と名前をつけた。実際シクレスという小さな村の人々は日本人よりも物質的には豊かとは言い難かったが、精神的に豊かな生活をしていると感じた。私はネパールに行くまで、彼らは他の世界を知らず選択の自由がないから彼らの生活に満足できるのだと思っていた。なぜなら、新しいものに興味が湧くのは人として当然のことだからだ。しかし、彼らは先進国の生活を知っていた。ではなぜ彼らの生活に満足できるのか。それは、自分たちの生活に誇りを持っており、さらに自分の環境に感謝できる心を持っているからだと考える。歴史を知っているからこそ自文化に誇りを持てるし、自分がその環境にいるからこそ、その経験ができるということを知っている。その経験は自分以外誰も体験できない唯一無二なものであり、まさに小さな奇跡、そして幸せである。この考えが彼らに深く根付いているのだと思う。対して、日本人はこの気持ちを忘れていると思う。衣食住に困らず、趣味に時間も費やせる。家族と一緒に暮らせて、学校に行ける。このありがたさを常に忘れてはいけない。つまり、物質的豊かさと精神的豊かさは対義語ではない。結局は物質的に豊かでもそうでなくても、自分に自信を持って自分の命と環境に感謝することが、感性を豊かにして幸せに生きる術なのだ。
 日本に帰ってからたまに思う。今頃シクレスの人々は何をしているのだろうかと。その度に、彼らと私たちが幸せに暮らせていることに感謝する。このプログラムで学んだ感性を豊かにする方法をこれからも実践して、幸せに生きてゆこうと思う。

ネパールMero Sathi Project 2020 2月プログラム 報告書(2)中村華乃(上智大学文学部英文学科 1年)

『「違い」を知ること』

上智大学文学部英文学科 1
中村華乃

 今回のネパールでの研修を通じて、実に様々なことを経験し、分かち合い、学んだ。これまでの人生の中で学びの面でも、気持ちの面でも最も激動な11日間であり、良い経験も悪い経験も含め渡航前の私の想像をはるかに超える研修であったことは間違いない。本報告書では、環境について、シクレスの村での気付きについて、の2点のテーマで述べていく。

 初めに環境についてであるが、環境と一言に言ってもたくさんの意味合いがある。本報告書では生活環境や国そのものの環境について、ネパール人の生徒、学生が置かれている環境についての2点に分けて話す。まず一点目のネパールの生活環境、国そのものの環境について、ネパールの首都であるカトマンズについて初めに私が感じたのは空気が濁っている、ということであった。また空港から宿泊していたホテルまでの道中、信号機が非常に少ないこと、車線もほとんど存在しないことにとても驚いた。それでも一人一人が気をつけているため事故が多発しているわけではなく、これが「違い」なのだと初めに体感した。また、街にはストリート犬や物乞いをする子供たちも多く見られ、彼らが置かれている環境は彼らのせいではないけれど、無力な私でさえもその環境をどうにかしていかなければならないと感じた。次に二点目のネパール人の生徒、学生が置かれている環境についてであるが、このことについて考えさせられたのはカトマンズにあるShamrock Schoolを訪れた時だ。Shamrock Schoolの生徒たちのプレゼンテーションや、私たち日本人のプレゼンテーションに耳を傾ける姿を見て、彼らは熱心で、教育のレベルも高く、集団でいることに長けていると感じた。私は当初もっと悪い教育状況や学校の状況を想像していたため、何も問題ないように思ったが、お昼ご飯を生徒たちと食べている時に彼らに話を聞き、質問をしてその考えは変わった。Shamrock Schoolの学費は月に500ルピーで、生徒は共同生活を送っており、この学校に入学するため面接試験や筆記試験を受け、合格した生徒たちが集まっている。家が貧しいから家の近くや良い私立の学校に通うことができないため、学費が安く教育が良いShamrock Schoolに遠くから通う生徒も多い。彼らが家族と会えるのは月に1回程度で、学校では自分たちでお皿を洗ったり、掃除をしたり、ご飯の用意を年齢問わずみんなで助け合って行っていた。まだまだ幼い生徒もたくさんいて、彼らは家族に会いたいと口々に言っていた。良い学校へ行くことが簡単ではない。私たちは当たり前に周りにたくさんの学校があり、選択肢も多い。私立の学校も公立に比べると高いが親が学費を払ってくれ、通うことができる。学校で学ぶことができる、学校に通うことができるということに対する価値観の「違い」がここまで学ぶ姿勢に繋がるのだと思った。

 私たちはシクレスという村で4日間ホームステイを経験した。高校生の時にニュージーランドで約1年間の留学をしていたが、その時のホームステイの印象とはいい意味で全く「異なる」ものであった。3日目に村で家庭訪問をした際に主に家族についての質問をしたが、その中でも私がとても印象に残っているのは「この村に何か足りないものはありますか?」と質問した時の答えである。答えてくれたおじいさんは「医療、医者と薬がこの村にはない。それが足りないものだ。」言った。彼の奥さんは糖尿病と他にも病気を患っていて、先は長くないと言っていた。病気のための薬を手に入れるため、1ヶ月か2ヶ月に1度、4時間もかけてガタガタの道を下り、ポカラまで行く必要がある。ポカラまでの交通費や高額な薬代、高齢な夫婦にとって金銭的にも身体的にもその負担は大きすぎる。私はこの質問への回答として最初予想していたのは何かもっと便利なものが欲しい、引っ越したい、豊かな暮らしがしたい、などといったことだと思っていた。しかしそれは全くの「間違い」であった。発展途上国と決めているのは私たちであり、彼らはそう思っていないかもしれない。最近の私たちは勝手に発展途上国を支援すること自体に満足し、彼らが本当に必要としていることに目を向けられていないのではないだろうか。ここに私たちと彼らとの認識、考えの「違い」が生じているのだと思う。私たちが少し豊かな生活をしているだけで、彼らにとって彼らの生活は当たり前であって、むしろ我々より幸せや家族との関わりを深く感じているのかもしれない。本当の意味での発展途上国支援について考えていく必要があると思った。

 これまで2つのテーマについて述べてきたが、ここに共通することは「違い」を知るということである。「違い」を完全に受け入れるのは難しいかもしれない。それでもお互いに「違い」を知り、その「違い」を認め合うことが大切なのである。国際交流においてこのことは最も重要であると私は考える。Mero Sathi Projectの関係者のみなさんにお礼を申し上げたい。
このプログラムで何を学んだかと聞かれ一言で答えることはできない。しかし大切なメンバーとかけがえのないと経験を通して確実に見る世界が変わり、私の人生に大きな影響を与えてくれたと胸を張って言える。これからの人生において今回のプログラムでの経験は必ず生きていくと信じている。この場をお借りして関教授をはじめとするMero Sathi Projectの関係者のみなさんにお礼を申し上げたい。

ネパールMero Sathi Project 2020 2月プログラム 報告書(1)野澤葉奈(慶應義塾大学・法学部法律学科1年)

「異文化理解と助け合い」

 慶應義塾大学・法学部法律学科 1年
野澤葉奈

 春休み始めの十二日間をネパールという国で過ごした経験は、渡航前の期待を上回る、人生の大きな糧となった。馴染みのない景観、文化、生き方に次から次へと触れ、圧倒されていたらあっという間に過ぎたようにも感じるが、一生心に残る出会いと彼らと過ごした時間は濃いもので、その期間が二週間にも満たないなんて信じられないとも思う。全く馴染みのなかった国にいながら、ネパール、日本、ベトナムから集まった学生十五人や行く先々で関わった現地の人々と交流したことで私が感じたことは、違いを認め合った上で友情を育み、問題解決のため協力することの美しさである。ここでは、始めに私が経験した異文化とそこから学んだことついて、次に、その学びを得て助け合うために他者と交流することについて、書き述べていきたい。
 ネパールと日本の違いには、空港に降り立ってすぐに気づく。国際空港がこじんまりしているのも、パスポートをチェックしたスタッフが「ハナ、調子は良い?ようこそ!」とフレンドリーに笑いかけてくれるのも、日本では経験しないことだ。ここから十二日間、一つ一つの違いに毎回大きな、または小さな衝撃を感じたわけだが、私が特に強くに感じた違いは、「柔軟性」と「繋がり」という二つのキーワードでまとめられる。
 まず、「柔軟性」については、人々の生活の仕方からよく見てとれる違いだ。例えば、ひとつ道を渡るにしても東京とカトマンズでは風景が全く異なる。東京では、広い道路を高級車やタクシーが走るところを赤信号が止めると、歩行者たちは残りの秒数を確認しながら渡る。道が広過ぎて時間内に渡りきれない高齢者などのために、真ん中に歩行者が留まるスペースを設ける道路も少なくない。一方、カトマンズでは信号は使われない。車線のある道路も少なく、自由に走り飛ばす車やバイクをくぐり抜けるように、歩行者たちはタイミングを計って道路に出て行くのだ。するとバイクがスピードを落としたり、止まったりしてくれて、それで成り立っている。これは、日本人からすると相当スリリングだし、この話を聞いて危険だからきちんと整備をした方が良いと指摘する人もたくさん出てくるだろう。初めの数日間は、私にとってもこの光景はネパールが後進国ということの表れだった。しかし、ネパールの人々の穏やかさや温かさ、そしておおらかな所を知ったり、彼らから特に事故はないと聞いたり、一度導入されたものの使われ続けないまま廃れた一機の信号機を見かけたりした後で、このカトマンズの人々には、今の譲り合いのシステムの方が適しているのでは、と思うようになった。一見混沌としている交通事情にこのような感想を持ったことは、自分でもとても驚くべきことだが、人々と関わりその世界に触れることで、自分の常識とは正反対の現実も、また貴重な文化だと気づくことができた。また、このようなネパールの混沌とした所や、自由、多様性は、柔軟性と繋がるわけだが、これが規律により実現されている日本の秩序や整然性の良い所も悪い所も映し出す。シクレスという村で学校を訪問した際、同学年のクラス内に生徒の歳の差が五歳もあることが分かった。これは、飛び級をした子と進学が遅れたり復学したりした生徒が混じっているからであるが、個々の生徒の学力や事情に対応せず年齢と学年が規則で固定されていることへの違和感に、ここでやっと気づく人も多いのではないか。日本の規律や秩序を重んじる文化は保証的だし整理しやすい。一方で極端にシステマチックな環境では個人や自由が見失われ、息苦しく感じてしまう。ネパールの人々との文化交流から、このバランスの測り方に関して日本人が学べることは多いなと感じた。
 「繋がり」に関しても、日本とネパールには大きな違いがある。両国の学生とも互いの文化を知ること、伝えることには同じくらい熱心であったが、自文化との繋がりの強さには差が見られた。ネパールでは、伝統衣装は頻繁に身に纏うものだし、百以上の民族が共存するネパール文化では、自民族の代表的な料理を楽しみながら、母語としてネパール語ではなく各民族の言葉を話す人が多い。宗教に関しては、ネパールの学生たちは個々の神々や彼らの神話、儀式やお祭りについて、その数の多さにも関わらず幼少期から自然と基礎知識として文化を受け継いでいる。学生たちの間でも宗教をはじめとする文化への向き合い方はそれぞれだった。無神論者という子もいたし、神話は実際に起きたことを誇張していて、現実ともいえると考えている子もいた。このように考えていながらどうして年に幾度も宗教祭に参加するのだろうか。答えは人と人との繋がりにあると私は思う。私たちのリサーチテーマは「家族観」であったが、いとこやはとこも「兄弟、姉妹」と呼び、一日に何度も両親と電話で話し、一人暮らしなど考えにないネパール人メンバー達と寝食を共にしていれば、家族観が異なることなど明らかだ。日本の自殺率や高齢者の孤独死のデータは、ネパールの人々のフィルターを通して見るとき一層にショッキングで、深刻だ。上京してきてより強くなった所属意識への欠乏感はネパールを知った後では自然なことに思えたし、伝統衣装を着て美しくパフォーマンスするネパール人メンバー達を見て初めて、一度も着物を着たことがないことを悲しく思った。現代の日本人がどれほど「繋がり」に欠けるかは深刻な問題で、ネパールの学生とも話し合っていたが、家族が地理的にも近くに住むネパールと日本では状況や背景が異なるため、ただ家族と連絡を頻繁にとるようにすれば良いという単純な話ではない。ネパールの人から学べる事は沢山あるが、そのまま真似は出来ないのだ。

 これらの気付きや学びは、すべてメンバー達と交流し、議論する中で深まったものだ。プログラムを通して、私達は悩みを打ち明け合い、お互いの支えになり、友情を深めることができた。ネパールで異文化に触れて感じたことはまだまだ書ききれない程あるが、一つ一つの疑問や違いについて丁寧に話し合い、聞き合うことができなければ、人生に影響を与える程の旅にはならなかっただろう。小さな疑問をきっかけに同年代の学生が集い、話すと、他文化への疑問や憧れ、そして自文化への誇りや不満が明らかになり、互いの国が抱える社会問題をどう解決できるかまで議論をすることができた。信号が不要かもしれないと、正反対の価値観を受け入れられたのも、先進国だからと正当化とされがちな日本のシステムに疑問を持てたのも、「後進国」から見て日本が繋がりに欠ける可哀想な国になりうると気付けたのも、異文化と向き合うにあたってそこに生きる人々と深く交流したからだ。信頼できる人々ときちんとコミュニケーションをとった後では、ただ自分達と比較して相手の欠点を指摘し、見習った方が良いと言うのではなく、問題の文化的背景まで話し合って、その文化に他方の文化から改善策として「適応」させる方法はあるかを考える慎重さが持てた。ネパールの日本大使館を訪問したこともあり、自分たちが国を代表する存在になることや、ネパールと日本という二つの国が協力し助け合うことを意識した会話もあった。私たちはただの学生と言われればそれまでだし、このプログラムが両国の外交を代表しているわけでもない。内輪の議論で完結しており、社会問題に実際に取り組んではいない為、将来本当に国を代表して他国の人々と問題解決のために協力するための予行練習になったとも言える。しかし、同時に学生同士二十四時間ずっと過ごし、一生の経験を共にした彼らとの純粋な友情は、実際に社会に出てからではかなわない、今しか築けない関係だったとも思う。いずれにせよ、異文化を理解し助け合うことの力強さを教えてくれたこの十二日間は、人生において大切な時間となった。