2026年2月21日土曜日

BJEP2025 バングラデシュプログラム 報告書(1)「呼吸のような信仰に出会って」 東京経済大学大学院 現代法学研究科2年 和 蘇丹(ワ・スタン)


 実のところ、私の海外経験は非常に限られており、大学院に進学するまで一度も外国を訪れたことがなかった。日本へ留学するという計画でさえ、学部卒業後になって初めて具体化したものである。南アジアの国々についても、私は長らく漠然とした遠いイメージしか持っていなかった。しかし今回、BJEPプロジェクトを通じて実際にバングラデシュの地を踏むことができた。私にとってそれは、非常に貴重な経験であった。現地を訪れたことで、多くの予想外の体験を得ると同時に、南アジア諸国に対して抱いていたいくつかの固定観念が打ち砕かれた。そして何よりも、本活動を通じて、互いの文化を尊重することの意味を、これまで以上に深く実感することができた。

 私は中国の自然環境に恵まれた地方都市で生まれ、東京での留学生活においても、日々青空と白い雲を目にする環境で暮らしてきた。そのため、バングラデシュに降り立った瞬間、地面や空気中に漂う埃やスモッグに強い衝撃を受けた。この旅は、決して想像していたように容易なものではないだろうと直感した。

 実際、その予感は的中した。到着して間もなく、一本の青唐辛子を口にしただけで涙が止まらなくなり、また、食器を使わずに手でカレーとご飯を食べる習慣にもなかなか慣れることができなかった。しかし、現地の学生たちは自ら進んで私たちをバングラデシュの生活へと案内し、言語や宗教について丁寧に教えてくれた。そうした小さくも誠実な善意の積み重ねが、初めに感じていた不安や距離感を静かに溶かしていった。それによって私は、尊重とは単に差異を「我慢」することから生まれるのではなく、先入観を手放し、相手の眼差しの中にある光を真に見つめることから始まるのだと理解するようになった。

バングラデシュを訪れる前、私が最も関心を抱いていたのは、当地の宗教であった。中国で生まれ育った私にとって、宗教はどこか遠い存在である。もちろん、中国に宗教が存在しないわけではなく、実際にはあらゆる宗教信仰が法律によって保護されている。しかし、中国は無神論を基調とする国家であり、日常生活において宗教が会話の中心となることはほとんどない。それに対してバングラデシュでは、モスクのアザーンが一日に五度、朝夕を切り裂くように響き渡り、街角の屋台ではスカーフを巻いた商人がパイナップルを売りながら静かに祈りの言葉を唱え、子どもたちは下校途中にベンガル語で『クルアーン』の一節を暗唱している。そこでは、信仰は神棚に飾られる象徴ではなく、呼吸や食事、挨拶の中に溶け込んだ温度として存在していた。私はそのとき初めて、自分が宗教を説明され、鑑賞されるべき異国の風景として捉えていたことに気づいた。しかしここでは、宗教は人々が差し出した掌に陽光を受け止めたときに自然に落ちる影のようなものに過ぎない。それは名付ける必要も、正当化する必要もなく、ただ当然のものとしてそこにあった。

 同行したメンバーとの間でも、宗教についての議論が交わされた。今回のチームは、私以外はすべて日本人学生であった。宗教との距離感という点で、中国と日本にはある種の共通性がある。神社参拝や寺院での祈願は、主に祭礼や人生の節目に行われる儀礼的行為であり、日常における信仰は慣習のひだに隠れて存在している。道徳についても、中国では家族倫理や国家意識と結びつくことが多く、日本では「義理」や「恥」の感覚、繊細な人間関係の距離感として内面化されている。一方、バングラデシュでは、それが宗教の日常的実践を通して根付いているように感じられた。

 私たちがバングラデシュの宗教学校を訪問した際、通訳を務めてくれた学生たちは次第に厳かな表情を見せるようになった。学校の関係者は、自分たちが学んでいる内容を私たちに紹介してくれ、その中で一人の男子学生が静かに賛美歌を詠唱した。その様子を見て、私は通訳の学生にこう尋ねた。「あなたたちは、信仰心から経典を読むのですか。それとも、そうしなければならないからですか。」すると彼らは笑顔でこう答えた。「呼吸と同じです。あなたは、自分がなぜ呼吸をするのか考えたことがありますか。」

 その瞬間、私はその「日常性」の力に打たれた。これまでの私の認識では、宗教とは支配階級が人々を統制するための道具であり、行動を規範化するために高所から与えられる戒律に過ぎなかった。しかし、宗教が社会の主旋律ではない世俗国家で生まれ育った私にとって、信仰が単なる権力者の装飾や歴史の遺物ではなく、普通の人々が日々実践する呼吸そのものであるという発想は、これまで持ち得なかったものである。

 あるとき、アザーンが響く中、私たちは一つのモスクの前を通りかかった。中では多くの人々が地面にひれ伏し、額をひんやりとした床に触れさせ、詠唱に合わせて背中が潮の満ち引きのように揺れていた。決して裕福には見えない人々も多かったが、誰もが深い敬虔さをもって祈っていた。私は通訳の方に、なぜこれほどまでに人々が信仰に忠実なのかを尋ねた。彼女は、イスラームにおける来世観について熱心に説明してくれた。彼らが日々祈り、善行を積むのは、現世の利益のためではなく、より良い来世のためなのだという。

 そのとき私は、日本で頻発する鉄道への飛び込み自殺や、中国で後を絶たない未成年者の飛び降り自殺のニュースを思い出した。もし宗教的信仰が人々に心の避難所を与えることができるのなら、絶望の波が押し寄せたときにも、掴むべき一本の浮木を失わずに済むのではないだろうか。宗教信仰は、確かにバングラデシュの人々に精神的・心理的な支点を与えているように感じられた。

 十日間に及ぶ調査の中で、私たちは現地の貧困や教育の実情を自分たちの目で直接見た。ぬかるんだ小道の脇には低いトタン屋根の家々が立ち並び、真昼の太陽の下で白く眩しく光っていた。裸足の子どもたちは、暗い小屋の中に集まり、地面に座って授業を受けていた。しかし意外なことに、そこに生きる人々は、私たちが想像していたほど重苦しい表情をしておらず、むしろ明るい笑顔を浮かべていることが多かった。それは、信仰が現実の困難を超える軽やかな力を彼らに与えているからではないかと思われた。まるで痩せた土壌に根を張った蔓が、かえって鮮やかな花を咲かせるかのようであった。

 このような、私のこれまでの認識とは大きく異なる生命のあり方を前にして、私は他者文化への理解をさらに深めることができたと感じている。バングラデシュの人々にとって宗教とは、生き抜くための知恵であると同時に、心を支える拠り所なのだろう。そして私たちもまた、そこから学ぶべきものが多くあるのではないだろうか。


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