2026年2月21日土曜日

BJEP2025 バングラデシュプログラム報告書 (3) 「他者の世界から教育を考える」 上智大学文学部哲学科2年 岩切優空

  


バングラデシュから日本に帰る飛行機の中で、私は言葉にしがたい空虚感に包まれていた。ただ「楽しかった」というだけでは説明できないような、胸の奥がぽっかりと空いたような感覚。BJEPでの10日間は、私にとって刺激的で温かく、学びに満ちた日々であった。BJEPで出会った仲間たちと過ごした時間、何気ない会話のすべてが、終わってしまうのが本当に悲しかった。

バングラデシュという国は、日本で、日本人と生きてきた私にとって、何もかもが新鮮で、もはや夢のようであったと同時に、「教育とは何か」を根底から揺さぶる場所だった。

貧困問題が大きな問題の一つであり、雇用機会も十分ではなく、宗教学校や大学を出ていても、仕事がない人普通にいる。そんなバングラデシュで出会った学生たちのハングリーさには本当に驚かされた。本当にパワフルで、色んな活動に参加していたり、学部生で論文を発表していたりと、彼らの姿勢から学べることが多くあった。

 BJEP2025のテーマは貧困と教育であり、このテーマに関連したリサーチ活動を行った。私たちは、子供たちに学校教育を無料で提供するフリースクールや、私立高校、宗教学校などの様々な教育機関に加え、リキシャドライバーや縫製工場の労働者、Dhakaにあるスラムエリアでは、早婚を経験した方や学校に行けていない子供たちにインタビューをさせていただいた。対話型のインタビューをすることで、ただインターネットで事実としてしか知ることができなかったことを、なぜこういうことが起こるのか、この事実について現地のひとたちはどう考えているのかという彼らの中で共有されている文化的な価値観まで感じることができた。

 貧困地域での教育現場を観察することで、「教育」に関する視野がより広がった。BJEPへの参加が決まり、貧困と教育というテーマについて考えていた時、どうしても教育=貧困からの脱却の手段であることを前提として考えていた。なんとなく教育が大切、教育はみんなが受けるべき、学校に行けてない子たちがいるなら教育を平等に提供できる制度があればいいよね、と。

しかし、あるフリースクールを訪れた際、私から見れば決して整った環境とは言えない教室で、子どもたちが心から楽しそうに過ごしている姿を目にした。彼らは口をそろえて「楽しいから来ている」「他の学校よりもたくさん遊ばせてくれるから通っている」と言っていた。ただ、私はそれを聞いた時、他にも学校に通えない子がいるのに、そんな理由?それでは教育に意味があるのか?と思ってしまった。しかし同時に、その反応が、私が教育を一義的に貧困脱却の手段として捉えていたことに気づいた。

これに加え、「教育」という前提を揺さぶったのに続き、Madrasah(宗教学校)の訪問は、教育の意味をさらに別の角度から問い直す機会となった。Madrasahでは信仰と倫理を中心にした教育であり、そこでの学生たちの生活の基盤となっていた。信仰は、論理的に証明した上で信じるものではなく、彼らの生活の中に自然に受け入れられていた。まさに、Madrasahでの教育は生活の土台を作る営みとなっていた。 イスラム教の信仰は、「誰も見ていなくても正しく行動する」ことが重視され、神は常に見ているという意識が内面的な道徳的規範になるそう。つまり、学生たちの内面の倫理を育てている教育であると言える。貧国地域で労働者にインタビューを行った際、今の生活について、「貧困だけど、神様に感謝しているから満足している」 と答えていた。イスラム教の考えが内面にない私にとっては、初めは論理だけでは理解できなかった。しかし、Madrasahでイスラム教の教えについて聞いて、宗教学校での教育は貧困という状況の中でも人として生きる力を支えるものであるように感じた。

バングラデシュでの経験を通して、私が無意識に抱いていた「教育=貧困脱却」という前提を揺さぶった。幸せそうなフリースクールの子供たちから、教育が子供たちの安心、居場所の一つでありうることを示し、宗教学校での観察からは、教育が信仰と強く結びついており、人の尊厳や倫理を支える営みであることを教えてくれた。また、このように異なる文化に触れた時に、自分の価値基準を一度保留し、相手の世界から物事を見る姿勢(エポケー)が不可欠だと感じた。色んな教育の在り方があり、教育の意味は一つではないからこそ、支援や国際協力を考える際には、相手の世界から物事を見るべきである。私はこれからも、この姿勢を大切にしながら教育と貧困について考え続けたい。


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