「幸せの伝道師となるために
~失敗や絶望から得た教訓~」
東京経済大学
経済学部国際経済学科4年
北野 宏晃
私はネパール研修中、病に伏した。身動きも取れなくなり、放心状態。「ネパールまで来て、何しているのだろうか。」私は、悲しみと絶望で目の前が真っ暗になりかけた。しかし、この出来事がきっかけで、後に誰も経験できなかった「奇跡」を起こすとは思ってもいなかった。
私は日本という大変恵まれた国で生まれ、何不自由なく生活をしてきた。海外も計9カ国に赴いた経験もあり、日本では海外慣れしている雰囲気を醸し出しているほどである。
そもそも、私自身ネパールは今回で2度目の訪問だ。初ネパールは、この研修のちょうど半年前、AAEEのプログラムで行った。前回も、言うまでもなく満足したプログラムで、多くの学びもあり、純粋に楽しめた。
しかし、心残りだったことが2つある。①言語が壁となって、不完全燃焼になることが幾度となくあった。②アレルギー反応(全身発疹)を起こして、一部のプログラムを途中離脱したこと。以上の2つだ。個人的に、今回参加を決意した理由は、またネパールに赴いて前回のメンバーに会うだけでなく、この2つの反省を踏まえて、研修をしっかりと全うして、ネパールの真髄により一層迫りたい。そんな願望があったからである。就職活動も無事に終了して、幸いにも、もう一度この研修に参加させていただくチャンスが巡ってきた。そして、それを皮切りに、私は英語を猛勉強し始めた。また、英語を勉強するだけでなく、日本の歴史や文化に関する勉強も怠らなかった。なぜなら、何度も海外に行って、毎回感じるのは、「日本人にも関わらず、日本について無知だった。」からである。そして、その無知が前回のネパール研修で、誤解を招くこともあった。私は、いい加減これに終止符を打ちたかった。こうして、万全を期して9月5日、私は日本を飛び出た。飛行機の中、私は英語の勉強を止めなかった。
努力の甲斐もあって、一つ目の言語問題はなんとかクリアしたと思う。相手は熾烈な受験戦争を勝ち抜いたネパールのエリート集団。3歳から英語教育を受けた者もおり、CNNやBBCを9割理解できる英語力、教養の持ち主もいた。私はたかが数か月頑張っただけで、そういった方々と対等に話せるなどとは到底思っていなかった。しかし、明らかに前回と感触が違った。往復約30時間の悪路走行をしているバスの中、村にいる時、ポカラにいる時、夜遅くまでネパール人メンバーと多くの事を語り合えた。ジャンルは、ネパールを取り巻く国際情勢、ネパールの教育・就職事情、ネパールと日本の宗教観の違い、日本の交通事情と近現代の発展の経緯、書院造についてなど、多岐に渡る。
こんなに、濃密だった時間は一生忘れない。もっと英語を話せるようになりたい。そんな純粋な気持ちが湧き出てきて、帰国後の今でも英語の音読を重ねている。
問題は2つめである。
それは、6日目の朝のことだった。その日は、起きた瞬間から異変が起こっていた。全身に発疹、止まらぬ鼻水、そして、呂律がうまく回らない事態。今振り返ってみれば、これは、極端な環境変化に起因する。
電気もネットもシャワーもない、そして土などでできた家の中で何食わぬ顔で草を食べてこっちを見てくる牛。その周りで羽をまき散らしながら動きまわるニワトリ。極めつきは、寝床だ。私のベッドの上は、アリとダニの大群でひしめき合っている状況だった。日本人からしたら、お世辞にもきれいとは言えない状況であろう。はじめは、雨や風を凌げるだけで満足。夜は満点の星空。飯はうまい。ホストファミリーの方が優しいから感謝。と軽く開き直っていた。しかし、日本の恵まれた環境で生きてきた自分には2日間で限界がきた。6日目、この日は村から村へ6時間かけて徒歩で移動するものであったが、歩いている最中、意識が朦朧としていた。それにも拘わらず、私は調子に乗って川に飛び込み、泳ぎ、潜水するという愚行をした。長い道のりを経て村に着いたとき、私の体はゲームオーバーだった。
翌日の朝になっても治らなかった。不幸なことに、私が最も楽しみにしていた、小中学校での授業プログラムを辞退する結果になった。他のメンバーが充実した時間を過ごす反面、私は一人、絶望と悲しみ苛まれながら、寝ていた。2回目のネパールなのに、何やっているのだろう。どん底の状態で研修が終わろうとしていた…。
その日の昼の出来事であった。薬の効果もあり、体調も改善してきた。とは言っても、その場には、気軽に喋れる仲間もおらず、孤独で有閑的な時間を消費していた。私にフラストレーションが蓄積されようとしたまさにその時、近所の子供たちが突如自分の部屋に入ってきた。そして、子供たちは私をつぶらな瞳で物珍しそうに見つめてきた。私は、子供が苦手なわけではない。しかし、この状況に陥るのは初めてだ。だから、私はどうしてよいかわからず、狼狽してしまった。その時、突然私の頭の中でこのフレーズが思い浮かんだ。
The surest way to be happy is to make others happy.
(幸せになる最も確実な方法は、他人を幸せにすることである。)
このフレーズは、ネパールで長年支援活動をされているOKバジこと垣見一雅さんの言葉である。6月にこの方をゼミで講演会にお招きしたのだが、その際に仰っていたこのフレーズに感銘を受けた。
それを思い出したのだ。そして私は、この状況から子供たちがどうやったら幸せになるかを真剣に考えた。その結果私は「自分の体力が許す限り、子供たちと遊んで喜ばせよう。」という結論に至った。
まず、大学で借りた指差しネパール語に頼りながら、ネパール語であいさつや自己紹介をして、「私は、みんなと仲良くなりたいです。」と意思表示をした。できるだけ、英語に頼らず、拙いネパール語で向き合った。その結果、子供たちの頭の中で、私を物珍しそうな「対象」として見ていたものが、「友達の一人」に代わっていた。その証拠に、私は気が付いたら子どもたちと一緒にチャンバラごっこをしていた。子どもたちが無邪気に笑っており、私をお兄さんのごとく色々と頼ってくれた場面も度々あった。私は、楽しさと同時に嬉しさも感じた。
休憩した後、私は、日本から持ってきたUNOをやった。日本語も英語も通じない状況下、私は渾身のジェスチャーでルール説明をした。UNOの楽しさを知ってもらいたい。何より、UNOを通じて幸せになってほしい。そんな思いだった。苦労の甲斐があって、彼らは30分ほどでルールを理解し、3人でUNOをやっていた。慣れるまでに時間はかかったが、それでも諦めずに向き合い続けた。それに子ども達もついてきてくれた。その結果、気が付いたら村の子どもが徐々に集まってきて、みんなでUNOをやっている光景があった。敵味方関係なしに、無我夢中で楽しんで、自分も含め子供たちが笑顔になっていた。
つまり、OKバジさんの言葉の通り、全員が幸せになっていた。
The surest way to be happy is to make others happy.
(幸せになる最も確実な方法は、他人を幸せにすることである。)
誰かを幸せにするって、私にとって難しい作業だと考えていた。私自身ユーモアや知識・教養は豊富ではない。もちろん、あるに越したことはない。日々我々は精進し、それらを高めることが義務であると考える。しかし、私は誰かを幸せにするためには、笑いのセンスだけでなく高度な博識が重要なのではないと思う。さらにそれより大切なのは、いかに相手の目線に立てるかどうか?そして、その人を幸せにするという強い願望があるか?だと考えるようになった。
今回、私は童心に戻って、どうやったらうまく接することができるかを過去の経験を頼りに、必死に模索した。そして、子供たちと仲良くなりたい、笑顔にしたいという強い願望があった。だから、このようなハッピーエンドで終えることができた。
私は来年の春から社会人となる。学生でいられる残り半年間、勉学や一人旅などを全力で励もうと思う。これは、人を幸せにするための引き出しを多く持つための準備である。それは、社会人になっても可能な限り、続けていきたい。すべては、将来誰かを何かしらの形で幸せにできる本当の意味で「幸せの伝道師」となるためにである。
子どもと指差しネパール語でコミュニケーションを取っている様子
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