2026年2月21日土曜日

BJEP2025 バングラデシュプログラム 報告書(4)「非日常の中で見つめなおした『当たり前』」 獨協大学外国語学部交流文化学科2年 山﨑柚葉

 「ダッカディズニーランド」

帰りの空港へ向かう車の中で、関先生が仰ったこの言葉に、私は強く共感した。私が目にしたこの10日間は、一体何だったのだろうか。日本で生まれ育った私にとって、それはまさに「非日常」であり、異世界の夢物語のような時間だった。

 

貧困と教育をテーマにしたBJEP2025Bangladesh-Japan Exchange Project)では、さまざまな学校や職場を訪問し、インタビュー調査を行った。その中で、豊かな暮らしを送る人々と、貧困に苦しむ人々の姿を目の当たりにし、社会に存在する大きな格差を実感した。中でも印象に残っているのは、小学生へのインタビューである。

Holy Penという私立のインターナショナルスクールでは、非常に恵まれた環境での学びがあった。ある男の子に「教育は大切だと思うか」と尋ねると、彼は迷うことなく “Of course” と即答した。先生方もまた、教育は人生を豊かにするために必要なものだと話していた。大学院に通いながら教壇に立つ先生や、大学院留学のためにIELTSの勉強をしている先生もおり、学びへの意欲の高さを強く感じた。そして、その意欲を実際に行動へと移せる環境が整っていることも印象的だった。

しかし、学びへの意欲は、決して恵まれた環境にいる子どもたちだけが持っているものではなかった。Switch Schoolという、今回のプログラムをオーガナイズし、共に活動してくださったSwitch Bangladesh Foundationが運営する学校には、比較的学費が抑えられており、貧困層の子どもたちも多く通っていた。また、NGOBRAC」が運営するフリースクールでは、家庭の経済的理由から、1年前に初めて教育を受け始めたという5年生の生徒もいた。

これらの学校は、小さな教室に多くの生徒が集まっていたり、机や椅子がなく、薄い絨毯が敷かれただけの教室だったりと、決して恵まれた環境とは言えないかもしれない。それでも子どもたちは、「勉強できて嬉しい」「ここに通い始めて人生が変わった」と語り、学びに対する喜びや将来への期待に満ちていた。

さらに、正式な学校ではなく、シェルターで学ぶスラム街の子どもたちとも出会った。彼らはとてもまっすぐで輝いた目をしていた。“Are you happy?” と聞くと、皆が “Yes” と即答し、他者への感謝や尊敬、未来への希望をたくさん話してくれた。日本の私立大学に通う私は、その環境を思わず「可哀想」と捉えてしまう。しかし、そこで暮らす子どもたちは、その「日常」の中で、強く、そして純粋に生きていた。


バングラデシュでは、人々のあたたかいおもてなしにも何度も触れた。プログラム中、複数回家庭に招いていただき、その度に食事や飲み物を振る舞ってくださった。家庭訪問に限らず、インタビューで訪れた先々でも、私たちは温かく迎え入れられ、お茶や軽いスナックを用意していただくこともあった。異文化交流の一環として、お互いにパフォーマンスを披露し合う場面もあった。

外国人観光客がほとんどおらず、外国人に会ったことがない人も珍しくないバングラデシュで、日本という異国の地から来た私たちに興味を持ち、明るくもてなしてくれたことは、純粋に嬉しかった。「おもてなし」という概念は日本特有の文化だと思っていた。実際、日本のおもてなし文化は世界でも有名だろう。しかし、裕福とは言えない生活の中でも、人と人とのつながりを強く、大切にする文化が、そこには確かに存在していた。そしてそれが、彼らにとっての「当たり前の日常」だった。

 私は、その社会の中に10日間、身を置いた。シャワーはお湯が出なかったり、ベッドは固かったり、食事のスパイスが口に合わないこともあった。それでも、辛くないよう配慮してくれたり、コーヒーやミルクティーを用意してくれたり、たくさん話しかけてくれたりと、現地の人々は常に私たちを気にかけてくれた。そんな社会・文化の中に没入したこの10日間は、3回目の海外渡航であった私にとって、間違いなく最も充実した経験だった。

 

 そんな生活を終えて帰国し、自宅でのんびり過ごした大晦日。温かいシャワー、年越しそば、ふかふかな布団。「当たり前の日常」に戻ったとき、まだバングラデシュを離れて1日しか経っていないはずなのに、あの10日間が夢のように感じられた。本当に私はあの地へ行ったのだろうか。あの「日常」は現実だったのだろうか。言葉に表し難い、不思議な感情に苛まれた。

調査を通して身をもって感じた、途上国支援の重要性。そして、私にとっては過酷に思える環境が、誰かにとっては当たり前の日常であり、その中で人々が幸せに生きているという現実。それと同時に、日本での日常を当たり前のように過ごしてしまう自分。同じ空の下にあるはずなのに、まるで異世界の夢物語のように感じられた。


それでも、この経験を通して、自分の「日常」や自分自身をより深く知ることができた。AAEEが大切にしている理念である「交流する他者を跳ね返りにして自分を見つめ直し、自己を理解していくこと」とは、まさにこの経験そのものだったと思う。きっちりとスケジュールが組まれたプログラムではなく、曖昧さが残り、自分たちで作り上げていくプロセスがあったからこそ、この学びが得られたのだろう。

私は2025年、ディズニーランドのように、あるいはそれ以上に価値のある締めくくりを迎えた。


BJEP2025 バングラデシュプログラム報告書 (3) 「他者の世界から教育を考える」 上智大学文学部哲学科2年 岩切優空

  


バングラデシュから日本に帰る飛行機の中で、私は言葉にしがたい空虚感に包まれていた。ただ「楽しかった」というだけでは説明できないような、胸の奥がぽっかりと空いたような感覚。BJEPでの10日間は、私にとって刺激的で温かく、学びに満ちた日々であった。BJEPで出会った仲間たちと過ごした時間、何気ない会話のすべてが、終わってしまうのが本当に悲しかった。

バングラデシュという国は、日本で、日本人と生きてきた私にとって、何もかもが新鮮で、もはや夢のようであったと同時に、「教育とは何か」を根底から揺さぶる場所だった。

貧困問題が大きな問題の一つであり、雇用機会も十分ではなく、宗教学校や大学を出ていても、仕事がない人普通にいる。そんなバングラデシュで出会った学生たちのハングリーさには本当に驚かされた。本当にパワフルで、色んな活動に参加していたり、学部生で論文を発表していたりと、彼らの姿勢から学べることが多くあった。

 BJEP2025のテーマは貧困と教育であり、このテーマに関連したリサーチ活動を行った。私たちは、子供たちに学校教育を無料で提供するフリースクールや、私立高校、宗教学校などの様々な教育機関に加え、リキシャドライバーや縫製工場の労働者、Dhakaにあるスラムエリアでは、早婚を経験した方や学校に行けていない子供たちにインタビューをさせていただいた。対話型のインタビューをすることで、ただインターネットで事実としてしか知ることができなかったことを、なぜこういうことが起こるのか、この事実について現地のひとたちはどう考えているのかという彼らの中で共有されている文化的な価値観まで感じることができた。

 貧困地域での教育現場を観察することで、「教育」に関する視野がより広がった。BJEPへの参加が決まり、貧困と教育というテーマについて考えていた時、どうしても教育=貧困からの脱却の手段であることを前提として考えていた。なんとなく教育が大切、教育はみんなが受けるべき、学校に行けてない子たちがいるなら教育を平等に提供できる制度があればいいよね、と。

しかし、あるフリースクールを訪れた際、私から見れば決して整った環境とは言えない教室で、子どもたちが心から楽しそうに過ごしている姿を目にした。彼らは口をそろえて「楽しいから来ている」「他の学校よりもたくさん遊ばせてくれるから通っている」と言っていた。ただ、私はそれを聞いた時、他にも学校に通えない子がいるのに、そんな理由?それでは教育に意味があるのか?と思ってしまった。しかし同時に、その反応が、私が教育を一義的に貧困脱却の手段として捉えていたことに気づいた。

これに加え、「教育」という前提を揺さぶったのに続き、Madrasah(宗教学校)の訪問は、教育の意味をさらに別の角度から問い直す機会となった。Madrasahでは信仰と倫理を中心にした教育であり、そこでの学生たちの生活の基盤となっていた。信仰は、論理的に証明した上で信じるものではなく、彼らの生活の中に自然に受け入れられていた。まさに、Madrasahでの教育は生活の土台を作る営みとなっていた。 イスラム教の信仰は、「誰も見ていなくても正しく行動する」ことが重視され、神は常に見ているという意識が内面的な道徳的規範になるそう。つまり、学生たちの内面の倫理を育てている教育であると言える。貧国地域で労働者にインタビューを行った際、今の生活について、「貧困だけど、神様に感謝しているから満足している」 と答えていた。イスラム教の考えが内面にない私にとっては、初めは論理だけでは理解できなかった。しかし、Madrasahでイスラム教の教えについて聞いて、宗教学校での教育は貧困という状況の中でも人として生きる力を支えるものであるように感じた。

バングラデシュでの経験を通して、私が無意識に抱いていた「教育=貧困脱却」という前提を揺さぶった。幸せそうなフリースクールの子供たちから、教育が子供たちの安心、居場所の一つでありうることを示し、宗教学校での観察からは、教育が信仰と強く結びついており、人の尊厳や倫理を支える営みであることを教えてくれた。また、このように異なる文化に触れた時に、自分の価値基準を一度保留し、相手の世界から物事を見る姿勢(エポケー)が不可欠だと感じた。色んな教育の在り方があり、教育の意味は一つではないからこそ、支援や国際協力を考える際には、相手の世界から物事を見るべきである。私はこれからも、この姿勢を大切にしながら教育と貧困について考え続けたい。


BJEP 2025 バングラデシュプログラム報告書(2)「貧困と格差─自分と違う環境の受けとめ方を考える」 筑波大学 社会・国際学群 国際総合学類1年 野澤 沙奈

 はじめに

 今回の研修を振り返ってまず思うことは、とにかく楽しかった、ということ。新しい自分を見つけて、次の一歩を踏み出すのに十分な刺激に満ちた11日間だった。でも同時に、充実した気持ちに包まれる自分は、本当にこの国に向き合えたのだろうかと考えてしまう。14歳で結婚し、小さな部屋の中で相手の家族と一緒に暮らし、スラムの外にほとんど出ることがなく人生を終える人がいる。街頭でインタビューをしていると、その日の出費を日の稼ぎだけで賄う暮らしをしている人も少なくない。圧倒的な貧困。そしてイスラム教の信仰がもたらすカルチャーショックにさらされ続け、すべてを受け止められたのか、私には分からない。

 バングラデシュにいる間、私はある種の興奮状態だった。もともと、体力はある方だが、この期間は少し異常だった。10時から16時までの共通のスケジュールをこなし、17時から個人的な調査にでかける。19時に帰り、突然告げられる予定の変更に対応して24時過ぎまで翌日の準備を他のメンバーと行い、個人調査のデータまとめと論文執筆を3時ごろまで行う。大学の課題をおわらせ、4時に眠る。3日目は体調を崩したが、共通のスケジュールを欠席することはなかった。

個人調査中の私
現地語の回答を訳してもらっている様子


 今思うと、この時に感じていたエネルギーの所以は、新しい物事への出会いに体が驚いていたからだと思う。疲れを全く自覚できないほど。ただ、すべてに全力で楽しく日々を過ごす反面、冷静に物事を観察できていなかったかもしれない。だから今、見たこと、感じたことを落ち着いた頭で振り返りたい。


格差について

 バングラデシュでは、明らかな格差を見た。バラックのような家に住み、明日をも知れぬ暮らしをする人がいる一方、もてあますほどの資産を持ついわゆる富豪もいる。11日という短い期間でその両方に会って話をし、あまりの非日常感にふわふわした気持ちを抱いた。日本で19年間生活した自分の人生を振り返ると、格差を感じる機会はすぐに思いつかなかったが、よく思い出せば意外とあった気がする。例えば、中学受験のために塾に通っていた時、私学を受ける子たちは電動の自転車に乗り、かわいい文房具をたくさん揃えていた。私が通っていた大阪市西成区の公立小学校の友達とは少し違っていた。しかし、そういう日々見る格差にはだんだん慣れてきて、ちょっとずつ感じなくなっていった。当人にとって当たり前になってしまえば、格差に気が付けるのは外からやってきた人だけかもしれない。今回、私自身が「外からやってきた人」になったことで、バングラデシュの中の格差をはっきりと捉えることができた。


とある富豪の家のプライベートプール

スラム地域の家


では、この格差の解消のためには、何が必要か。これを考えるにはバングラデシュの文化をもっと知らなければならない。私の価値基準では、例えば金融サービスやビジネスの形にすることで、財産を持つ者も持たない者もwin-winな関係のまま、富を分配することが望ましいと考えていた。なぜなら、資産の分配もやりようによっては経済的な格差がそのまま社会的地位の格差を生み出すことになってしまいかねないからだ。特に、持つ者が持たざる者に対して一方的に与えるやり方は、かえって、経済的に苦しい人に対する差別を助長するのではないか。しかし、バングラデシュの金融サービスについての個人調査中、多くの人がローンの利子を「حرام(ハラーム:避けるべきこと)」として捉えていたことに驚いた。イスラム法では経済的な援助は個人の善意によって行われるべきであり、収益を生むべきではないという考え方があるのだ。実際にイスラム金融では利子は厳格に取り締まられており、投資に対する配当は、その事業の利益からのみ出され、利益が発生しなかった場合、投資をしても利子を得てはいけないとされている。これは、私の中で望ましい解決策として持っていた考え方がひっくり返った経験であり、「格差」とその解消法についてより考えさせられるきっかけになった。

ハラームについてとりわけ強い語気で話してくれた男性、お茶をごちそうしてくれた


貧困と自分について

 私が貧困問題に関心を持ち始めたのは、中学2年生からである。私の生まれ育った大阪市西成区は、戦後に職業斡旋所が作られたことが由来して、バブル崩壊の時期から現在まで多くの日雇い労働者が生活する。また、労働環境の改善を求めて地元警察と何度も衝突した「西成暴動」の報道をきっかけに全国に野蛮なイメージが広がった。そして今も生活保護受給率が高く、ホームレスが生活する三角公園はたまにテレビで取材される。Youtubeには、倫理観に欠けた人が興味本位で面白可笑しく西成区を取材する動画が蔓延っている。

しかし私は、幼いころは地元について関心がなかった。例えば、私の自宅横の公園で生活していたホームレスの女性がいた。彼女は、登校と下校中で見かける場所が変わるので、さっさと移動するおばさん、通称「ササおばさん」と近所の子どもの間で呼ばれていた。彼女はある時から高速道路の高架下に拠点を変え、警官から注意を受けているところを見たのを最後に、全く見かけなくなった。当時小学生の私は、彼女に対してただ、かわいそうだなと思うだけだった。それどころか、私にとって「ササおばさん」の存在は日常であり、彼女がどんな人で、なぜ路上で生活しているのかを想像することすらなかった。

関心が芽生えたのは、受験して入学した中学で他地域の子と関わり、西成区に対する中傷を自分のこととして捉えるようになってからだ。社会科の授業で、あるグループの「日本のスラム、西成」というタイトルの発表を聞いたとき、初めて強く憤りを感じた。同時に、たしかに貧困に苦しむ人を見てきたのに、ずっと無関心でいた自分が情けなく思えた。私は地域のボランティアを始め、町を知って、無関心でいることをやめようとした。留学生のダークツーリズムに翻訳係として参加したり、ホームレスの方と一緒に花壇整備の作業をしたり、様々な活動をした。この活動では多くの得るものがあった。ホームレスの人に対する偏見を自覚し、平等に接そうと意識すること自体が差別ではないかと悩み、よく考えた。いつの間にか、私は貧困問題を知った気になっていたかもしれない。

 

 バングラデシュで見た絶対的貧困は、西成区の貧困とはまた違っていて、とにかく衝撃を受けた。一面に広がるごみと強いにおい、不衛生のせいか顔にできものがある子供たちがいて、こちらを警戒して見ている大人たちに対しては少し怖いとすら感じてしまった。でも話してみると、子供たちはとても人懐っこく好奇心旺盛で、大人の方もこちらに微笑みかけてくれたり、話しかけてくれたりと、とても優しかった。個人調査の際にも、多くの人が快く協力し、たくさん話をしてくれた。

幼い弟の面倒をみる女の子、たくさん話をしてくれた

スラム地域の入口の様子


そして、月の稼ぎや出費を教えていただき、その暮らしぶりの苦しさを知るごとに、今の自分には何もできないという無力感をおぼえるようになった。また、国を超えて人の気持ちを理解する難しさにも直面した。ある人は、「貧しさは苦しいが、神様を信じているから幸せだ」と話してくれた。この回答の捉え方として、まず現実逃避ではないかと思った。苦しい現状から逃げるのでは、何も改善しないじゃないかとも思った。でも、実際はどうだろうか。この人にとっての幸福と、私の思う幸福な生活は全く違うはずである。ましてや、信教も国籍も、性別も年齢も全く違う人の価値基準を私には到底理解できないだろう。貧困問題を少し知った気になっていた私は、鼻を折られたというか、いい意味で自分の小ささを認識させられた。これから先も、まずは相手を知ろうとする姿勢を忘れず、断定をせず、貧困問題に向き合える人でいたいと思う。そしてゆくゆくは、相手の幸福とは何かを具体的に捉え、大きな変化を与えられるようになりたい。

調査に協力してくれた方のお店

ジェスチャーだけで仲良くなれた子どもたち


教育について

 このプログラムで私の知る教育の意味がまた広がった。印象深いのは、イスラム教式の学校である「مدرسة(マドラサ:学校)」への訪問である。インタビューを受けてくれた生徒たちは、とても利発的で聡明だった。なぜ学ぶのか、という問いかけに対して、イスラム教への理解を深め、Muslim scholarに近づくことで家族にも幸福をもたらすことができるからだと話す子がいた。私は大学生になってから、自分がなぜ学んでいるのかを考える機会が増えた。大学での学びは完全に自分のモチベーションに委ねられている。やらなくても誰にも咎められないし、正直それほど熱心に勉強せずとも卒業できてしまうだろう。それでも勉強を続けるには自分なりの理由を持つことが大事だと思う。マドラサの生徒たちは、朝は4時に起き、夜は23時に眠る。たくさんのことが制限された寮で規律正しく暮らし、毎日11時間勉強をする彼らは、自分たちそれぞれの確固たる理由をもって学んでいた。そんな彼らに刺激されるだけではなく、私がなぜ学ぶのかということを考えされられた。

マドラサでのインタビュー中、生徒たちは非常に熱心に受け答えをしてくれた


 貧困問題という点では、教育は貧困を解決する手段として捉えられる。しかし、教育はバングラデシュでインタビューをした人たちには、あまり重要視されていないようだった。教育を通じて手に職をつけるためのスキルを身につけることや、ひたすら勉強し奨学金を得て国外で稼ぐ力を得ることもできる。私はずっと、教育によって子供たちの未来の選択肢を広げることが重要だと考えてきた。教育を受けて様々な可能性を知ることで、貧困から抜け出すことができるだろうと考えていた。けれど実際の貧困とは、それほど甘い問題ではない。家族や地域の人からの目を気にして、年端もいかぬうちに結婚してしまう女の子や、家族の貧困のために学校をやめて働きに出る子に、未来の可能性を感じさせるのはどれほど難しいだろうか。今日、明日も知れぬ生活をしている人に、十年後の自分を想像してもらうのは容易ではない。彼らにとっては、生活に直結しない学校での教育はさほど重要ではない。現に、インタビューをした子どもたちや、縫製工場の労働者、リキシャの運転手は、学校で学んだ知識が今の生活に役立っているか、という問いに対して答えに詰まっていた。そんな人たちに、勉強は役に立つからと言って、学校をつくったり、勉強道具を渡したりする支援は本当に必要か、ということすら疑問に感じてしまう。

スラム地域にて17歳で結婚をした女の子にインタビューをしている様子

彼女は自分の結婚を「Love marriage」だと言っていたが、近所の人や家族からのプレッシャーも感じていたと話してくれた



例えば、私たちが訪問した現地のNGOが運営するフリースクールでは、年齢の違う子供たちが同じ教室で同じ内容の授業を受けているようだった。学校は学ぶ場所、というより子どもが集う場所となっていた。それが悪いことだとは思わないが、正直勉強する環境が整っているとは言えなかった。この学校に通う子たちに勉強する意味を感じてもらうには、まず良い環境を整備しなければならない。生活に直結する知識を教えたり、関心ある内容を取り入れたりすることで、彼らにとっても教育が意味あるものとして捉えられるようにする必要がある。私たちの価値基準の押し付けは良くないが、何もしないままでは現状はよくならない。教育が重要だと理解させるのではなく、彼らにとっても自然に重要性を感じられるようにする姿勢を持てば、意味のある支援になるのではないだろうか。

NGOが運営するフリースクールにて、インタビューを受けてくれた子供たちは少しシャイだったが私たちと話すことに関心がある様子だった



総括

 今回のプログラムでは、たくさんの刺激を受けて自分の生い立ちや今の自分のことについて、考えさせられた。改めて、他文化に触れる大切さを思い知った。自分と異なる文化に身を埋めることで初めて自分の輪郭が見えてくる。自分の中の固定観念に気づくと、なぜその考えを持っているのかを辿り、また一つ自分について知ることができる。今回出会えたすべての出会いと経験、そして調査に協力してくれたすべての人に感謝したい。

毎日一緒に調査に出かけてくれた二人、とても優秀な方たちでたくさん助けられた

分かりやすくはしゃいでいる私

朝の5時半、作業中に聞こえてきた祈りの音楽を聴きながらスマホをのぞき込む私


 

 

 

 



BJEP2025 バングラデシュプログラム 報告書(1)「呼吸のような信仰に出会って」 東京経済大学大学院 現代法学研究科2年 和 蘇丹(ワ・スタン)


 実のところ、私の海外経験は非常に限られており、大学院に進学するまで一度も外国を訪れたことがなかった。日本へ留学するという計画でさえ、学部卒業後になって初めて具体化したものである。南アジアの国々についても、私は長らく漠然とした遠いイメージしか持っていなかった。しかし今回、BJEPプロジェクトを通じて実際にバングラデシュの地を踏むことができた。私にとってそれは、非常に貴重な経験であった。現地を訪れたことで、多くの予想外の体験を得ると同時に、南アジア諸国に対して抱いていたいくつかの固定観念が打ち砕かれた。そして何よりも、本活動を通じて、互いの文化を尊重することの意味を、これまで以上に深く実感することができた。

 私は中国の自然環境に恵まれた地方都市で生まれ、東京での留学生活においても、日々青空と白い雲を目にする環境で暮らしてきた。そのため、バングラデシュに降り立った瞬間、地面や空気中に漂う埃やスモッグに強い衝撃を受けた。この旅は、決して想像していたように容易なものではないだろうと直感した。

 実際、その予感は的中した。到着して間もなく、一本の青唐辛子を口にしただけで涙が止まらなくなり、また、食器を使わずに手でカレーとご飯を食べる習慣にもなかなか慣れることができなかった。しかし、現地の学生たちは自ら進んで私たちをバングラデシュの生活へと案内し、言語や宗教について丁寧に教えてくれた。そうした小さくも誠実な善意の積み重ねが、初めに感じていた不安や距離感を静かに溶かしていった。それによって私は、尊重とは単に差異を「我慢」することから生まれるのではなく、先入観を手放し、相手の眼差しの中にある光を真に見つめることから始まるのだと理解するようになった。

バングラデシュを訪れる前、私が最も関心を抱いていたのは、当地の宗教であった。中国で生まれ育った私にとって、宗教はどこか遠い存在である。もちろん、中国に宗教が存在しないわけではなく、実際にはあらゆる宗教信仰が法律によって保護されている。しかし、中国は無神論を基調とする国家であり、日常生活において宗教が会話の中心となることはほとんどない。それに対してバングラデシュでは、モスクのアザーンが一日に五度、朝夕を切り裂くように響き渡り、街角の屋台ではスカーフを巻いた商人がパイナップルを売りながら静かに祈りの言葉を唱え、子どもたちは下校途中にベンガル語で『クルアーン』の一節を暗唱している。そこでは、信仰は神棚に飾られる象徴ではなく、呼吸や食事、挨拶の中に溶け込んだ温度として存在していた。私はそのとき初めて、自分が宗教を説明され、鑑賞されるべき異国の風景として捉えていたことに気づいた。しかしここでは、宗教は人々が差し出した掌に陽光を受け止めたときに自然に落ちる影のようなものに過ぎない。それは名付ける必要も、正当化する必要もなく、ただ当然のものとしてそこにあった。

 同行したメンバーとの間でも、宗教についての議論が交わされた。今回のチームは、私以外はすべて日本人学生であった。宗教との距離感という点で、中国と日本にはある種の共通性がある。神社参拝や寺院での祈願は、主に祭礼や人生の節目に行われる儀礼的行為であり、日常における信仰は慣習のひだに隠れて存在している。道徳についても、中国では家族倫理や国家意識と結びつくことが多く、日本では「義理」や「恥」の感覚、繊細な人間関係の距離感として内面化されている。一方、バングラデシュでは、それが宗教の日常的実践を通して根付いているように感じられた。

 私たちがバングラデシュの宗教学校を訪問した際、通訳を務めてくれた学生たちは次第に厳かな表情を見せるようになった。学校の関係者は、自分たちが学んでいる内容を私たちに紹介してくれ、その中で一人の男子学生が静かに賛美歌を詠唱した。その様子を見て、私は通訳の学生にこう尋ねた。「あなたたちは、信仰心から経典を読むのですか。それとも、そうしなければならないからですか。」すると彼らは笑顔でこう答えた。「呼吸と同じです。あなたは、自分がなぜ呼吸をするのか考えたことがありますか。」

 その瞬間、私はその「日常性」の力に打たれた。これまでの私の認識では、宗教とは支配階級が人々を統制するための道具であり、行動を規範化するために高所から与えられる戒律に過ぎなかった。しかし、宗教が社会の主旋律ではない世俗国家で生まれ育った私にとって、信仰が単なる権力者の装飾や歴史の遺物ではなく、普通の人々が日々実践する呼吸そのものであるという発想は、これまで持ち得なかったものである。

 あるとき、アザーンが響く中、私たちは一つのモスクの前を通りかかった。中では多くの人々が地面にひれ伏し、額をひんやりとした床に触れさせ、詠唱に合わせて背中が潮の満ち引きのように揺れていた。決して裕福には見えない人々も多かったが、誰もが深い敬虔さをもって祈っていた。私は通訳の方に、なぜこれほどまでに人々が信仰に忠実なのかを尋ねた。彼女は、イスラームにおける来世観について熱心に説明してくれた。彼らが日々祈り、善行を積むのは、現世の利益のためではなく、より良い来世のためなのだという。

 そのとき私は、日本で頻発する鉄道への飛び込み自殺や、中国で後を絶たない未成年者の飛び降り自殺のニュースを思い出した。もし宗教的信仰が人々に心の避難所を与えることができるのなら、絶望の波が押し寄せたときにも、掴むべき一本の浮木を失わずに済むのではないだろうか。宗教信仰は、確かにバングラデシュの人々に精神的・心理的な支点を与えているように感じられた。

 十日間に及ぶ調査の中で、私たちは現地の貧困や教育の実情を自分たちの目で直接見た。ぬかるんだ小道の脇には低いトタン屋根の家々が立ち並び、真昼の太陽の下で白く眩しく光っていた。裸足の子どもたちは、暗い小屋の中に集まり、地面に座って授業を受けていた。しかし意外なことに、そこに生きる人々は、私たちが想像していたほど重苦しい表情をしておらず、むしろ明るい笑顔を浮かべていることが多かった。それは、信仰が現実の困難を超える軽やかな力を彼らに与えているからではないかと思われた。まるで痩せた土壌に根を張った蔓が、かえって鮮やかな花を咲かせるかのようであった。

 このような、私のこれまでの認識とは大きく異なる生命のあり方を前にして、私は他者文化への理解をさらに深めることができたと感じている。バングラデシュの人々にとって宗教とは、生き抜くための知恵であると同時に、心を支える拠り所なのだろう。そして私たちもまた、そこから学ぶべきものが多くあるのではないだろうか。


2025年10月20日月曜日

AAEEネパールプログラム2025報告書(5)「幸福と教育の間にみえたもの〜ネパールでの経験から得た学び〜」東京外国語大学 言語文化学部英語科1年 舘山佳歩

  
去年までの私は、受験生として典型的な日本の教育を受けてきた立場にあった。大学に行くことしか考えず、行けなければ自分の価値は証明できないと思っていた。英語教育学に興味はあったものの、学力やテストの点数、日本全体の英語力にばかり意識が向き、「教育」そのものの意味や教育と幸福、教育と社会の関係について深く考えたことはほとんどなかった。今回のネパールプログラムを通して、教育は必ずしも個人の幸福に直結するものではないという現実を目の当たりにした一方で、その価値や重要性を実感する経験となった。このプログラムは、私の教育観を大きく揺さぶるものになったと感じている。

 プログラムを経て私が考える教育の定義は、単に勉強することではなく、社会の中で生活を営むための方法を伝え、文化を継承する営みも含むものである。ネパールは、多くのコミュニティを含み、コミュニティごとに独自の文化を持つという点で、一種の多文化社会であるとも捉えられる。2週間の滞在を通して、その土地や共同体の価値を理解し、生活を支える力を育むことも教育の一部であると感じた。教育は学力向上だけを目的とするものではなく、社会や文化の未来に関わる行為だということを、今回の研修で痛感した。

 都市部の私立学校クムディニホームズでは、ダンスルームや美術室、ホテルマネジメントのコースなど、多様な学びを通して生徒の視野を広げる教育が行われていた。都市部の教育は、すでにある生活の質を前提として成り立ち、学ぶことは人生の充実や自己実現のための手段と位置付けられていた。つまり、教育は幸福な暮らしをより豊かにする存在である。しかし、私たちが発表を行った際、生徒たちはあまり話を聞いてくれず戸惑いを覚えた。発表者としてどのようにプレゼンテーションを行うべきか考えさせられたと同時に、知識や経験を与える教育が必ずしも生徒自身の幸福感と直結するわけではないことも実感したことを覚えている。

 一方、マイダン村の学校では、電気もなく天候次第で学校が閉まることもあり、5年生までしか学べないため高学年になるには村を離れなくてはならない。生活基盤自体が脆弱であり、学ぶこと自体が幸福に直結するわけではない。しかし、訪問して実際に授業をしてみると、子どもたちが私語を慎んで真剣に話を聞く姿があった。また、村の人々に教育についてインタビューをしていくと、教育をどれほど受けてきたかには大きく個人差があれど、誰もが教育を受けることの重要性を語っていた。都市部の教育が幸福を前提に学びの質を高める「ケーキの上のイチゴ」のような存在であるとすれば、農村部の教育は生活や社会の基盤を支える「皿」のような存在であり、長期的には社会や共同体の未来を支える力となることを実感した。

 Bandipurの公立学校では、教育と幸福の関係の複雑さをより痛感した。高校に通う生徒たちは、多くが大学に行きたいと考えておらず、わずかに希望する者も海外志向だった。「学ぶため」ではなく「海外に行きやすくなるから」という理由で学ぶ生徒が多く、中には「どれだけ学んでもNepalでは意味がない」と語る者もいた。英語で授業を受けることが当たり前の環境で、国際的活躍を視野に入れた教育が行われていても、学ぶこと自体が必ずしも幸福につながるわけではない現実を痛感した。私は日本で過酷な労働に直面する外国人労働者の状況を知っていたため、「日本に行きたい!」と希望を語る生徒に対して、心から「ぜひおいで!」とは言えなかった。教育と幸福が単純に結びつかないことを改めて認識した瞬間だった。

 この研修を通して得た最大の学びは、教育自体が幸福と必ずしも一致しないことを理解したうえで、その重要性を再認識できたことである。教育は選択肢や可能性を広げ、社会や文化、共同体の未来を支える力を育む営みであり、目先の幸福に直結しなくとも深い意味を持つ。正直なところ、私にとっては典型的な教育そのものの意味や教育と幸福に関して考え方が大きく変化する経験でもあり、「教育とは何か」という問いに対する明確な答えがわからなくなり困惑したのも事実である。しかし、その困惑の中にこそ教育の本質を考える契機があったように思う。教育は個人の学力向上だけでなく、社会全体の未来を支える行為であり、幸福に直結しない教育の存在を理解することは、教育の本質を再定義する第一歩だと考えた。目に見える成果や幸福だけに縛られない教育の意味を考え続けることにこそ意義があると知り、今後も教育の本質について考え続けたいと改めて感じた。


AAEEネパールプログラム2025報告書(4)「異文化理解とは何だろう」 筑波大学 国際総合学類1年 野澤沙奈

  異文化理解とは何だろう。そもそも、何のために文化を学ぶのか。アメリカを筆頭に、保守主義が世界中に広がっている。日本も例外ではない。自国中心的な考え方が勢いづく中で、他国、ひいては多文化を理解することに価値があるのか。ネパールに行き、短期間の生活を通して、自分なりに考えた。

    ネパールで出会った人は自分とあまりに違いすぎて、到底理解できないと諦めそうになった。私と比べて、遠慮や躊躇がなく、そして人との壁を作らない。例えば、毎夜ギターをかきならし、歌ったり踊ったり、肩がくっつきそうな距離で話しては大きな笑い声をあげる。私の心が折れそうになったのは、マイダン村での歓迎会のダンスで、他の人に気圧されながら一生懸命参加していたとき、ネパール人学生の一人が私を押しのけて輪の中心に入っていったことだ。私が努力して踊っても、本気で楽しめる他の人と同じ熱量ではないし、同じ経験はできない。それでも努力する意味があるのか、よく分からなくなった。

      考えが変わったのは、OKバジさんの話を聞いてからだ。バジさんが教えてくださった、相手との信頼の大切さは強く響いた。ネパールの人と一緒に活動するとき、バジさんは取り付けた約束を証明するポストカードを手渡すという。資金の用途、期日など、相手との信頼がなければ、一緒に活動できない。気になったのは、ネパールの人の時間の感覚と日本人との違いだ。例えば、学生の一人は集合の5分前に出発する私を引き留めて、自前のアクセサリーを紹介してくれるといった具合で、スケジュールが正しく運ばない。私は正直、時間を守らない人を信用するのは難しい。しかし、バジさんは、村の家の昼食が予定から30分以上遅れても動じず、村の人を信用して「もうすぐできると言っていますから待ちましょう」と私たちに声をかけた。その後、学校を訪ねるとバジさんが村の子供たちと手遊びをしていた。私たちには恥ずかしそうにしていた子供たちが、声をそろえて歌い、バジさんの一挙手一投足に注目し、笑っている。その姿が感動的で印象に残った。そして、他者を信頼することは、自分が他者から信用を得ることに繋がるのだと感じ、まずは自分から心を開いてみようと思った。翌日、学校を訪ねたとき、私は子供たちに変顔をしたり、追いかけっこをしたりと行動で示した。子供たちは少しずつ慣れてきて、構ってほしそうに何度も私の名前を呼んでくれた。このことを自信にして、ネパール人参加者に対しても、違和感を覚えたことを自分で吞み込まずに、共有するようにした。最後に贈ってくれた手紙に書いていた私の人物評価を見て、相手を信頼して自分を表現してよかったと思えた。

     今回のテーマは教育だったが、多文化共生教育はこれから特に重要になると考える。ネパールの学生と一緒に歌い踊り、村のダルバートを手で食べて、訪問した学校の子供たちと遊んだり話したりすることで得たものは、日本の学校では手に入らない。一方で、ネパールの教育現場では、文化の多様性を感じさせるものが多くあった。自分の民族の伝統衣装を着ている生徒や、校舎にネワール族の彫刻を飾る都市部の学校、参加者の学生も公用語のネパール語、英語以外に、自分の民族の言葉を話すトリリンガルだった。村には、目に見える形の文化多様性はなくても、文化的に豊かだった。例えば、農村部出身の参加者が、村で炊飯に使う道具について、都市部では圧力鍋を使うそうだが、それより美味しいと嬉しそうに教えてくれた。親から子へ、生活を通じて継承される「教育」が、村の文化の豊かさを作り出していた。このように、国家の中に多様な文化を含む国であるから、他人との壁をつくらず、他人に頼り、頼られるという関係性を築くことが容易なのだと考える。

     ネパールプログラムを通じて、相手を信頼し、また信頼してもらうために、他文化を理解するという異文化理解の価値を再認識した。近年の政治トレンドである自国の過ちを外国人のせいにせず、互いに信頼しあうには、多文化共生教育が不可欠であり、ネパールの教育現場や生活環境で見た文化的な豊かさの伝え方を私たちは考えるべきではないだろうか。


AAEEネパールプログラム2025報告書(3)「異国の地で起こった自分の進化」筑波大学 医学類3年 西村奈緒

 

「お願いだから邪魔しないで。まだこの余韻に浸っていたい。」

これはある映画のセリフであり、まさに、微分のずれもなく、今の気持ちを表してくれる。ネパールから帰国して二日後、私は、大学の固い椅子に座って、胎児循環、とかいう今の私にとっては無意味な単語を聞きながら、この文章を書いている。心がまだ何かを感じ続けているのに、感情はまだ過去にとどまっているのに、周りの全てが私を日常に引き戻そうとしてくる。昨日だけでも、写真とともに12日間の日々を思い出せたことを心からよかったと思う。

このプロジェクトで出会った人々から一つ、学んだことがある。

それは、何か行動を起こし、成し遂げるには、そしてそれを継続していくには、自分の内発的な動機付けによる信念と、人との信頼関係が不可欠であるということ、だ。

ネパールで学生寮を営み、学生の支援をしている岸さん、全てを投げうってネパールに200以上の学校を建設したOKバジさん、このプロジェクトを長年続け、準備してくださった関先生、シティーズさん。彼らは口をそろえて、こう言う。

「この活動は自分の幸せのためにやっていることだ。」

「協力してくれる人がいるから、活動できている。彼らには本当に感謝している。」

他人のためを思って行動することはいいことかもしれない。しかし、期待通りの反応が得られなかったとき、行動したことにすら気づいてもらえなかったとき、その動機を他人に委ねていたら、行動を続ける意味がそこにはもうなくなる。

行動すること自体に自らがモチベーションを感じ、心から楽しんでいるということ以外に、純粋で力強い動機はない。利己的であること。利己的であると同時に利他的であること。そこには真の意味で、お互いの幸せが成り立っていることを彼らとの出会えたことで深く理解できた。 


このプロジェクトのテーマは「教育」であった。小学校、中学校、高校と学校の勉強をがむしゃらに頑張って来た私にとっては、テストでいい点を取る、いい成績を取る、偏差値の高い大学に入ることが目標であった。このプロジェクトに参加して人生で初めて、教育とはなにかという問いに向き合った。

学校教育は教える事、育てる事を目的とした明確な場であるから、注目されやすい。しかし、人が学ぶのは学校だけではない。ネパールのマイダン村を訪れたときにそのことを強く感じた。村の様子を説明するならば、安定した電波がほぼないことを知ってもらえれば少し想像しやすくなるだろう。そこで人々はとても幸せそうに日々の暮らしを送っていた。全く文字を読み書きできないおじいさんも、学校に行かず家業を手伝っている子供も、高等教育のために2時間もかけて隣町まで通う学生もみんな、料理をすること、片づけをすること、食卓を囲むこと、一緒に歌ったり踊ったり、会話をしたりすることに積極的で、楽しんでいた。私は、周囲との関わりが深い日々の生活そのものによって、彼らにとっての幸せの意味が形成されていくのを感じた。彼らは、「教育」を通して、自分の生き方を学んでいるのだった。

つまり、「教育」とは、学ぶ者が、何も持たない「無」の状態から、何かを得て「有」の状態へと変化する過程を支えることではなかろうか。「有」とは、人の生き方の指針「価値観」となっていくもので、それを支えるのは、学校教育をはじめとして、家庭、地域、また、私たちが認識できていない様々なものであると考える。 

人は、「教育」を通してなにかしらの影響を受けて進化する。私が、このプロジェクトを通して、未知の環境で人と出会い、知らなかった考え方に触れ、新たな経験をしてそれらを自分自身の一部として加えたこの過程はまさに、「教育」が私にもたらしてくれた変化であると思う。


文章を書いている今から思い返すと、あの12日間が本当に現実だったのかさえ疑いたくなるほど、あっという間で、言葉にできないほど濃い時間だった。ただ、今、私自身が感じているこの気持ちは確実で、それはこの経験を証明してくれる十分すぎるほどの価値を持つ。これもまた、私だけは認めることができるのである。

 

AAEEネパールプログラム2025報告書(2) 「学び、考え、成長する12日間」上智大学 文学部 哲学科 2年 岩切 優空

  

Mero Sathi Projectでの12日間は、私にとって刺激的で、とても充実した時間だった。なかでもこのプロジェクトの大きな魅力は、ネパール人参加者6名と日本人参加者6名が共に生活をしたことにあると思う。夜に心を開いて語り合う時間や、その中で生まれた友情、そして異なる文化を生きてきた仲間の人生に触れる経験は、学びにあふれた、かけがえのないものであったと強く感じている。

だからと言って、このプログラムは全く簡単なものではなかった。私は英語力や知識量、自信など、学習者として不十分な部分が多く、一日のリフレクションでは、自分の考えを英語で言語化することに苦戦し、ディスカッションでは、周りは議論が盛り上がっているのにそのスピードについていけなかった。初めはその差の埋め方すらわからなかったが、優秀な学生と関わるにつれて、周りとの違いに気づいたり、ネパールで出会った方から「成長のためにはFrustrationが大切だ」と教えてくださったりと、徐々に自己をより理解し、次はこうしてみようと思えるようになっていった。

しかし、このプログラムは本当にあっという間で、最終日、最後のファイナルリフレクションでは、涙が止まらなかった。もちろん、この12日間をずっと一緒にいた11人とのお別れはとても悲しいものだったし、日本に帰りたくないという気持ちもあった。しかし、それ以上に悔しさでいっぱいで、やり遂げたという達成感無しにこのプログラムが終わってしまうことが嫌でたまらなかった。

ただ涙が出るほど一生懸命になったこのプログラムは、私にとって単なる短期研修以上の意味を持つ経験であったと思う。英語で思考を表現する難しさや、議論のスピードについていけない自分への苛立ち、仲間と励まし合いながら少しずつ前に進もうとする日々、、、そうした一つひとつの感情の振幅が、学びをより深く鋭いものにし、表面的な知見を越えて自分の学び方や価値観そのものを問い直すきっかけになったと思う。;;

とりわけ、このプログラムでは今回のテーマである「教育」について沢山の学びを得られた。プログラムの内容としては、ネパールの子どもたちの生活向上取り組むINGOSave the Children)を訪問してお話を伺ったり、都市部の私立高校から農村部のマイダン村の公立学校まで実際に足を運び、教育現場の実情を直接見たりした。さらに、現地に暮らす人々にインタビューを行い、彼らにとって当たり前となっている習慣や考え方を知ることもでき、どれも新鮮で大きな学びとなった。

私たちは「教育」という漠然とした共通の課題を持っていて、私たちはグローバルパートナーシップとして、その共通の課題に取り組もうとしている。しかし、実際にネパールに足を運んで、自分の目でその教育現場の現状を見てみると、そこには、私たち日本人が感じている日本の教育現場での課題とは全く異なる課題も持っていて、私たち日本人参加者そしてネパール人参加者が、それぞれの視点や考え方をお互いの課題に提供できる場合もあれば、そうでない場合もあることがわかった。

実際に、マイダン村で学校教育を受けた経験の無い方に出会ってお話を聞いた際に、村での生活をすごく楽しんでおり、幸せそうな様子を見た際に、勉強して大学に入って就職することが「普通」となりつつあり、「普通」が美徳とされる日本社会ではあまり想像ができなかった。

私は哲学科の学生でありながら、幸せについて熟考したことがあまりなかった。というのも、私は分析哲学といったより明確な論理や言語分析を通して考えていく哲学の方が考えやすかったため、幸せや幸福といったトピックを好まなかった。そのため、この幸せそうなおじいちゃんを見た時に、自分の中で、幸せ・幸福といった言葉を自分の中で腑に落ちる形で定義することが難しかった。

まず、幸福と教育と結び付けて考えた時に、広義の「教育」とは、人間らしさを形成する営みであり、幸福はその人間らしさの大きな要素の一つだと感じた。マイダン村でのインタビューや学校訪問を通じて、村人の教育(いわゆる学校教育)に対する重要性、学校の設備や学校を通して得られる機会などから、量的にも質的にも十分な学校教育ではないと感じた。しかし、そこに住んでいる人たち、子供たちも含めて、とても幸せそうで、「そのままでもいいのではないか」と思える瞬間すらあった。だからといって、学校教育が必要ない、いらないということでは全くない。学校教育というのは、教育の中でもほんの一部でしかなくて、人間らしさを形成する営みとしての教育は、もっともっと広い意味での教育であると感じた。実際、まだ学校が無かった時に、そこにいた子供たちが教育を受けていなかったというわけではない。つまり、「教育」とは、両親や周りの人間関係などの様々な活動を通して人が生まれたときから環境から受け取るものであり、相互作用であると考える。私たちはプログラム中、些細な日常的なことから「幸せとは?」といった哲学的な問いまで語り合った。話し合いを重ねるうちに、知識の受け取り方は人によって大きく異なることに気づいた。これは、「教育」とは、人が生まれたときから環境から「受け取る」ものだけではなく、それぞれが自分の中で「解釈し、選び取り、再構築する」営みだからであろう。教育は人間には必要不可欠で、価値観といった深い部分まで影響を与える。そして、学校教育は、教育の中でも、目に見え、私たちの手で改善し、比較対比できる領域である。だからこそ、政府やINGOが子供たちのために懸命に取り組み、私たち学生もまた、自分ごととして関心を持ち、声を上げる必要があるのだ。

この12日間を通じて、私は「教育」のみならず自分自身の在り方、考え方についても大きく揺さぶられた。先ほどの私なりの「教育」に関する定義が正しいわけではないが、ネパールでの様々な経験を通して、「教育」、「幸福」について熟考することができた。また、プログラムを共にした仲間や現地の人々と関わるなかで、自分の弱さや可能性に気づき、これからどのように学び、成長していきたいのかを真剣に考えるきっかけとなった。

同時に、プログラムを支えてくれたKshitizさん、Seki先生、共に学び合ったネパール人・日本人の仲間たちへの感謝の思いでいっぱいである。彼らと過ごした12日間は、私の人生において忘れられない時間となった。今後は、この経験を糧に、自分自身の学びをより広げ、教育や幸福について考え続けていきたい。

 


AAEEネパールプログラム2025報告書(1) 「価値観の更新と思考の整理」筑波大学 国際総合学類 2年 小島莞子

  12日間のネパールにおけるMero Sathi Projectを通して得られた経験、知識、気づき、人とのつながり、楽しさいっぱいの思い出。多すぎていまだに処理しきれていない。多文化共修という側面からの学びも山ほどあるが、今回は教育と開発について考えたことを中心に書くことにする。 

 私はプログラム参加当初、開発途上国、特に農村地域においては、先進諸国に劣らない近代化を推進し、所得格差の是正や経済基盤の強化を目指すことが最良の開発であると捉えていた。特に、教育システムを国内でしっかりと運営できる体制が整うことで、国民の能力や質が向上し、国家全体の開発が促進されると考えていた。しかし、訪問先の一つであったマイダン村での光景は、この従来の価値観に大きな問いを投げかけるものであった。

 マイダン村の人々は、水道や電波といった現代的なインフラがない環境でごく普通に生活し、皆が笑顔に溢れ、異文化人である私たちをも温かく迎え入れてくれた。この様子を目の当たりにし、「彼らは本当に外の世界のような開発を望んでいるのだろうか?」「村の外の世界を知らないからこそ、今の生活に満足しているのではないか?」という疑問が湧き上がった。

 開発を表面的な要素、例えば高層ビル、最先端技術、高い所得水準といった観点のみで評価したとしても、その結果として人々の幸福度が低かったならば、その開発は真に意味を持つとは言えない。逆に、インフラや経済が不安定であっても幸福度が高水準であれば、それ以上の開発や教育システムの高度化の必要性は薄いのではないかとも感じられた。開発は持続可能であるべきだから、国際団体や政府の独断で無理な開発を行っても、徐々に詰めが甘かったところから崩壊していくだろう。これを踏まえて、教育や国家開発の真の目的は、突き詰めて言えば各個人を幸せにすることであり、開発、そして教育の普及を進める上で最も重要な要素は、当事者たちが何を必要としているのかという主体的な視点であると強く認識するようになった。経済水準を表す数値や教育の質の高さを示すデータのみに基づき、他の先進国の真似をして闇雲に開発を推し進めるのではなくて、その国や地域に適した開発像があるはずだから、それを基盤とした方向性で社会は発展するべきだと考えた。

 教育とは見方によれば価値観の押しつけだが、右も左もわからない人が教育を受けずに野放しにされていてもできることは限られている。だから、たとえ教わる側の態度が受身的で、教わることがプロパガンダ的だったとしても、とにかく人は教育を受けるべきだと考える。重要なのは、教わったことを別の情報と照らし合わせて更新し、身に着けた知識をもとに新たな領域に自ら踏み込んでみること。なぜ教育を受けるのか、その人なりの正解にたどり着くまでにはいくつものルートがある。マイダン村の子どもたちのように、外の世界をあまり知る機会がないまま大きくなったり、バンディプルの公立学校で出会った多くの生徒たちのように、高校卒業後は海外に出稼ぎに行こうと計画していたり、様々なケースがある。どのような道を歩んだとしても、結果的に自己成長ができて、自分にとっての教育の意味、目的を見つけ出せる。これができることこそが教育の理想のあり方なのではないか。

 世界を見渡せば、教育のみならず、数え切れないほどたくさんの課題で溢れかえっている。一人の力のみではもちろんどうにもならないし、一国だけでは解決できない問題が山積みだ。だからこそ、社会、世界全体の幸福のためには多国間、異文化間の協働は不可欠で、協働するためにはまず互いを理解するための努力が必須なのだ。Mero Sathi Projectでは、自分とは全く違う11人の学生たちと国境を越えて教育についての熱い議論を交わせたし、何気ない雑談でお互いの文化や内面までについてシェアできた。それは他者を彼らの言動を通じて理解すること、他者との比較や感覚的な違いから至る自己理解につながった。このようにプログラムを振り返ることで初めて今回のプログラムの意義がクリアになり、自分自身がAAEEに関わり続けている理由に説明がついた気がした。この広い世界でより多くの人が幸せを感じて生きられるために、他者を理解しようとし、差異を踏み越えて協働しようとする。私はそんな人でありたいし、そういう人が少しでも増えたら、と思う。



 

2024年11月1日金曜日

VJEP2024報告書「『教育格差』とは何か」亀田 青空 (筑波大学社会・国際学群国際総合学類1年)

 


 私の夢は戦争のない世界に生きることだ。気づけば私はこのフレーズを何度も何度も言い続けている。筑波大学を受験したときも、VJEPに応募したときも、VJEPのオープニングセレモニーでも、ビンズオン省のオーペニングセレモニーでも、だ。「戦争」や「平和」といった言葉が私をうずうずさせるのだが、それと同じくらい、「教育」という言葉も私の心に刺激を与えるのだ。それはなぜか、その答えがVJEP 2024を通して明らかになった。

 私はこのプログラムでリーダーを務めたのだが、副リーダーを務めていたひなさんが、プログラムの最終日のスピーチで、“Education, I believe, includes everything a child receives from others from the moment they are born(教育とは、子供が生まれた瞬間から、他者から受け取るもの全てを含む).”と述べていた。この言葉が、私がふんわりとしたイメージを持ちつつも言語化することを怠っていた教育に対する考えをそっくりそのまま体現していた。教育とは、他者から受け取るもの全てのものを指す、つまり他者から受け取るものが変化すればその人の価値観や考え方、人格ですら変化する。だから教育というものは戦争のない社会を実現するための重要な要素であり、そのために私は「教育」というものにも突き動かされるのだ。

 一瞬はスッキリしたようにも思えたが、帰国後、私は一つの矛盾と向き合った。教育が、子供が生まれた時から受け取るもの全てを指すのであれば、今回のVJEPでテーマとされた「教育格差」とは何なのだろう?ということだ。格差があるということは、「良い教育」と「悪い教育」が存在するということで、その二つの間に大きな乖離があるということである。しかし、そういった「良い教育」と「悪い教育」があると評価してしまうと、子供が他者から受け取ったものを「良い」「悪い」と評価してしまうことになり、それは個人の人格や価値観や考え方までもを測ることになる。例えば、VJEPでは、教育格差の上位の現場としてHigh School for the GiftedViet Anh Schoolを見て、教育格差の下位の現場として、Ms. Ba Volunteer Schoolを見た。しかし、それはHigh School for the GiftedViet Anh Schoolの子供達が他者から受け取ったものを「良い」ものとし、Volunteer Schoolの子供達が他者から受け取ったものを「悪い」ものとしているわけではないことは明らかである。High School for the Giftedは、ある一つの学問分野に対し非常に長けた能力を育成する教育機関であり、クラスは英語や日本語、科学や数学といった専門分野に分かれ、自らの専門とする領域における高い実力を身につけることで社会で活躍することを目標とする場所である。そのため、専門領域以外に関しては、普通の高校に通う生徒と同程度かそれ以下の能力を持つ生徒がほとんどであるというのだ。

 High School for the Giftedでディベートのアクティビティを行った時、非常に頭がいいという印象を受けたのは事実だが、この教育システムは現在日本で流行している幅広い学問を学び視野を広げていくリベラル・アーツと正反対のシステムであることもまた事実であり、高校生の時点で専門に絞った学習を推進する教育システムには議論の余地がある。High School for the Gifted で学ぶ生徒を一言で「良い教育を受けている」と評価するほど短絡的になってはいけない。反対に、Volunteer Schoolでは、使われる教材の質や学習環境といった面で考えると子供達が受けている教育のレベルはHigh School for the GiftedViet Anh School よりも低いと言わざるを得ないが、教育を人から受け取る全てのもの、と考えたときに、Ms.Baから受け取る愛情によって育てられた子供達が受け取る「教育」というものは本当に「悪い教育」と評価できるのだろうか?

 そういったことを考えていくうちに、「教育格差」とは、学問選択への自由度のギャップを示すものではないかと考えるようになった。つまり、教育格差の上位に属する人々は、学びたいことを学ぶことができる環境に属し、自分が好きな学問を障壁なく追求することができ、その下位に属する人はその選択の自由度が低い、ということである。このように考えると、Ms. BaVolunteer Schoolを卒業した子供たちは、皆職業訓練校にいくことが多いという事実があるなど、将来の選択の幅が限定されているということを受け、やはり教育格差の下位に属しているのだと納得がいく。反対に、High School for the Giftedの生徒は奨学金や海外大学へのアクセスがしやすく、将来の選択肢として国内大学ではなく海外大学への進学も考えやすいという点で相対的に高い教育を受けていると評価することもできるのだ。

 その一方で、私はベトナムにおいてある違和感を感じた。 

 将来の夢は何?と聞くと、自分が就きたい職業ではなく、真っ先に「海外の大学で学ぶこと」「自分の能力を高めること」との返答が返ってくること。

 ベトナムでは理系に進学する女子の割合が1割にも満たないことを受け、ベトナム人のメンバーに理系に進学する女子が少ないのはなぜか?という質問を聞いて回った時に複数人の口から平然と発される「女子は弱い」「論理的思考力に劣るので難しい学習についていけない」「その点経済は簡単だから女子学生が多い」といった女性の能力を過小評価しているような言葉たち。

ディベートの際に当たり前のように発される「女子は精神的にも身体的にも弱い」という表現。

ホーチミン経済大学の学生になぜ経済を学んでいるのか?と聞くと返ってくる答えが経済学の面白さではなく、「お金を稼ぐ方法を実践的に学ぶことができるから」という非常に現実的なものである点。

 参加者との交流が深まり、さまざまな対話を重ねるにつれ、ベトナムにおいては俗にいう教育格差の上位の環境で学んできたであろうVJEPのベトナムの参加者の人たちにとっても、学びたい学問を何でもかんでも追求できるといった環境はベトナムにはまだ完全に整っているとは言えないのかもしれないと少しずつ感じるようになってきた。大学に入学して学ぶ学問が、今後の収入の確保、国内で安定した職に就くため、女子学生への偏った評価など、さまざまなことが原因で限定され、学問が好奇心を満たすためではなく、お金を稼ぐための踏み台となり、知的好奇心に基づいた学問選択が阻害されているという現状がある。もっと多くの学生が自分の興味関心に沿った学問選択ができるよう、どんな学問を学んでもそれを活かすことのできる職業へのアクセスを設けることや、幅広い分野における学問の発展など、多くの側面での国家としての発展が必要となってくるのかもしれないと感じた。

 このプログラムに参加した多くの方とは違い、異文化交流を通じて感じたことではなく、これまで全く違う経験をしてきた彼らの何気ない会話を通じた違和感から、「教育格差」について感じたことを報告書にまとめることにした。こういったことを考えることができたのは、日本人の参加者やベトナムの参加者と友人として交流し、友人として彼らの素直な言葉を受け取ることができたからに違いない。

 報告書では、まるでベトナムの教育が日本に比べて劣っているというような書き方をしているように思えるかもしれないが、決してそういう意図はない。日本でも学歴至上主義や都市と地方の格差、海外大学へのアクセスの少なさなど、学問選択の自由度が決して高いとは言えない。また、ベトナムの学生は私よりも遥かに頭が良く、学びに貪欲で、優秀であり、の自らの能力を高めることへの圧倒されるほどの高いモチベーションは決して真似することができないものであった。

 そんな彼女たちから得た学びを今後も大切に心に抱いておきたい。




VJEP2024 報告書 「こうするしかない」(東京大学教養学部理科二類2年 中崎 日向)

  

 ベトナムを発って二日後の今日、私はパソコンに向かってこの文章を書いている。関教授のここを離れて一週間後にはもうこのプログラムは思い出の中の出来事になっている、という言葉を到底信じられなかったので、一週間待ってやろうと思っていたのだけれど、どうやらそれは正しかったらしい。私の人生の中で一番中身の詰まった十四日間は、あっけなく風化していきつつある。せっかちな私は、記憶が薄れるのに気がつきながら一週間も待つなんてことができずに、書き始めたというわけだ。

 飛行機で六時間のフライト。映画を二本見るとか、ちょっと満足できるくらいの睡眠をとるとかってことくらいはできる時間をかけて、私はベトナムへ行った。文化も言葉も違う人々と過ごす日々は、楽しくて、驚きに満ちていて、ずっとどこか緊張感が漂っていて、永遠に続くようにも瞬きする間に過ぎ去ってしまいそうにも感じる、不思議な時間だった。ベトナムの学生七人は、英語を使いこなす力だけでなく、満足な英語を話せないこちらを待つ忍耐力も、足りない内容を補填する洞察力も、圧倒的に優れていた。彼女たちはまた、個人的な問題や考えについて話すことも躊躇わなかった。話しにくいかもしれないけどと私が前置きすれば、そんなこと気にしないでと笑う強さを持って、私の個人的な意見も真正面から受け止めてくれた。私たちを理解しようとする姿勢を全身で示し続けていてくれた彼女たちに、けれど私は自分の考えを十分に説明することができなかった。語学の勉強を怠ってきた自分をこれほど恥じ入る気持ちになったのは初めてだ。日本を発つ前に、母国語で話す時と同じくらいベトナムに住む人々とも分かり合えたら、などと考えていた自分の浅はかさを身にしみて感じたし、自分の無力さが悔しくて仕方がなかった。異文化交流に留まらず、互いに理解し合うために超えなければならない壁は、びっくりするほど高い。身振り手振りを交えつつ、足りない英語で何とか自分の考えや気持ちを伝えようと格闘した経験は大切に抱えていこうと思う、なんて綺麗なまとめ方ができないくらいに、悔しかった。今でも悔しい。不甲斐なさでお腹の底がジリジリ焼けるような感覚が、ずっと続いている。でも、こうやってぼやいているだけじゃ仕方がないから、未来で同じことを繰り返さないように、この後悔をできる限り噛み締めてこれからに活かそうと思う。

 さて、私がベトナムで目にしたのは、教育格差そのものだった。十に満たない頃から英語学習を始める小学生や、通常の科目に加え特に優れた一科目を専門で学ぶことができる高校生と、日中は外に出て働き、夜は年齢の別なくチャリティークラスで学習する子どもたちの断絶は凄まじい。後者の子どもたちは、様々な理由から正規の教育にアクセスすること自体ができないそうだ。彼らの現状を打破する方法を見つけることすら難しい中、今プログラムの主題である持続可能な教育を実現するのは気が遠くなるほど長い道のりだろう。けれど、きっと実現できる。チャリティークラスを運営するMs.Baを見て、私はそう思った。彼女は自ら路上に立ち、宝くじを売って得たお金でチャリティークラスを運営なさっている。九十歳を超えられた今でもご自身で稼いだお金で子どもたちに教育の機会を提供されている姿、子どもたち一人ひとりに寄り添うように立ち、声をかける姿から、私にはMs.Baの強い意志が感じられた。

 子どもたちに少しでも多くの可能性を、今より少しでも幸福な未来を。

 私が持続可能な教育を実現するために必須だと思うことは、まさにこの願いだ。そしてこれは、私たち大人が果たすべき責任でもあると思っている。Ms.Baはこの願いを叶えるために、現在進行形で行動なさっているのだ。私はMs.Baのようにはなれないかもしれないけれど、彼女の真摯な姿勢に倣いたいと強く思った。そして、私が彼女の姿に心を動かされたように、この文章を読んだ人が、これから私が何らかの形で働きかける人が、あるいははるか4,000キロ離れた場所で触れ合った人々の誰かが同じ願いを抱いてくれるよう、その輪がますます広がっていくよう、子どもたちに対し誠実な姿勢を取り続けたい。

 とはいえ、世の中には色んな考え方があって、誰かにとっては私の願いは押し付けがましくうざったいものである可能性だってある。話の腰を折るようだが、このこともまた、ベトナムに行って私が強く感じたことの一つだ。ベトナムで二週間過ごす中で、私がどうしても納得できなかった文化や思想があったように、ベトナム側の参加者も私に対してそう感じることがあっただろう。例えば、私はその場の空気感で予定がくるくる変わってしまう性質に最後まで慣れることができなかったけれど、ベトナムに住んでいる人からすれば珍しいことでもなかったりする。裏を返せば、何でも予定通りに進めて欲しい私の方が、彼女たちから見たら異様だったかもしれないということだ。この世界に生きる人全員が、色んなことを見て感じて考えて、生きている。文化圏の違いがあってもなくても、各々経験してきた出来事が違うのだから、人によって価値観が異なることは当たり前のことだ。でも、異文化に晒され、相手から自分がどう見えるかについて考えざるを得ない状況に置かれて、私はそんな当然のことを鮮烈に実感したのだった。このことを認識していなければ、自分の願いを他の人にも伝播させる、なんてことは果たしようがない。誰かと話していても大抵の文化的背景を共有している母国に住んでいると、私はいつも当たり前を忘れて一元的な見方をしてしまう。他者の価値観に想像が及ばない自分を戒めるためにも、何度もこのプログラムで得た経験を反芻しよう。そうして、子どもの笑顔が今より溢れる未来を形作る方法を模索し続けよう。
 異文化交流の難しさを理解することも、教育に対するこれからの展望を持つことも、これまでの内省を行うことも可能にしてくれるなんて機会は、そうそうない。このプログラムに携わってくれた全ての方々の力添えに報いるためにも、日々に溢れる成長の機会を取りこぼさないよう丁寧に過ごしたいと思う。

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 以下、年が変わって2025年2月下旬から書き始め、3月中旬に書き終えたものを追記した。  先日、関教授と次回のベトナム渡航プログラムについて話していた時、ある言葉が口から出た。 「VJEPは、学生がプログラムを通じて学んだこと、考えたことを自分の中で発酵させることが大事だと思う」  事前に準備していたというわけではなく、話している拍子にぽろっと出た言葉だった。教授と話しながら、私ってこんな風に考えてたんだ、と自分でも新たな発見をした気分になった。思考を発酵させる。ベトナム渡航プログラムを経て半年強、私がしていたことは正にそれだった。  発酵という言葉が好きだ。何となく「良いもの」を想像させるから。ではなぜ良いイメージを持つかというと、私の中にある「発酵」と書かれたカードの裏に、「腐敗」の二文字があるからだろう。微生物の働きによって物体の状態が変化するという現象を、人間にとって有益か否かで評価して分別することで、一つの現象に発酵と腐敗という二面性が生まれる。発酵という言葉は、同じ現象を色んな方向から眺めてみることの面白さも教えてくれるのだ。 
 ある物事を考える時、多角化することが大事だ、とはよく言われることのように思う。「発酵」について考えるのと同じように、表と裏を確認することに始まり、上下から見る、左右から見る、斜めから見る。そうすると今まで見えなかったものが見えてきて、より深い議論が可能になる。  私の中では、物事の多角化と聞くとある立体の面をを増やしていく様子が浮かぶ。最も面の少ない立体である四面体から始めて、四方向から眺められるようになったら、その頂点を切り取ってさらに面を増やす。そうやって新しい視点を獲得していくと、それぞれの視点に立った時に得られる思考が互いに影響しあって変容し、より良い形をとるようになる。微生物が食物に影響を与えて変えていく様に、少し似ているようなこの方法を、「思考の発酵」と呼んでも差し支えはないのではないだろうか。  閑話休題。  プログラムに参加する前は、私の中で、物事はいつも表側しか見えない面だった。新聞紙だったり、テレビやスマホの画面だったり、面がある場所は変わっても一つの視点から物事を見るばかりだった。それを不思議に思ったことはなかったが、面の上に存在する様々な物事に対して、憤ったり喜んだり思考を巡らせたりするものの、結局深い理解を得られることはなかった。  実際に渡航する前はベトナムについても同様で、ベトナムという国についてのっぺりとした浅い知識しか持っていなかった。東南アジアの国の一つで、今経済成長期にあり、社会主義を掲げる国。大変失礼だが、本当にこの程度の知識量で向かったのだ。酷い話である。正直なところ、向こうに行って活動している間も、日本に帰ってきた時もまだ私の見方は変わっていなかった。だから、私はまだ自分の書いた報告書を読み返すことができない。恥ずかしさに耐えられなくて。  けれど、帰国して時間が経ち、ある時突然自分の思考が変化しているのに気がついた。VJEPというプログラムの中の、具体的にどんなことが影響を与えたというわけでもないように思う。強いていうならば、最も大きかったのはほぼ初対面の人々10数名の中で二週間を過ごすという経験そのものだろう。違う歴史を、文化を、言葉を持って想像もできないような思考を持つ人々。同じ歴史、文化、言葉を持ちながら全く異なる思考を持つ人々。恐らくは、そんな人々と共同生活をしなければならない状況に陥って初めて、“自分”が輪郭を帯び始めたに違いない。  変化の原因はわからなくても、それに気がついたきっかけははっきりと書くことができる。報告会を開いた後、ある学生メンバーと一人のベトナム側の参加者について改めて話し合っていた時のことだった。ベトナムで出会った彼女は、英語が堪能で、愛国心が強く、誰かに伝えたい意見をはっきりと持つ人だった。彼女の声は大きく、だから多分、日本人側で話題に挙がる機会も多かった。特に印象的なのはホーチミンで訪れた博物館でのことだ。少し薄暗く、ひんやりとした館内に展示されている戦争の遺物を、彼女は一つひとつ解説してくれたのである。とても詳細に、戦いの痕が残る銃や軍服に刻まれる歴史を。彼女について話す時、博物館でのその出来事が思い返されるのは当然で、何度も「本当にすごかったよね」と言い合ったものだ。けれど、どうしてだろう。報告会が終わって少しした後話した、その一回だけが、びっくりするほどの後悔と気づきとを私にもたらしたのだ。  彼女は本当にすごかった、その通り。じゃあ私は?  問いが頭の中に浮かんだ時感じた驚愕は、徐々に、恥ずかしさと綯い交ぜになって直視するのが耐えられないような後悔に形を変えた。ベトナムの学生たちの協力を仰いで学ばせてもらっている立場でありながら、彼女が話してくれた歴史をほとんど知らなかった。知らないままでベトナムへ向かったことをまるで恥じていなかった。そのことを、帰国してから三ヶ月以上省みることもなくそのため後悔することもまるでなかった、なんて。なんて不誠実で不遜な態度だろう。彼女から見た私は、どれだけ敬意を欠いた人間だったろうかと、考えれば考えるほど恥ずかしく、ひどい後悔に苛まれた。  そして同時に、一元的にしか見ていなかった渡航前の自分、もとい彼女から見た時の自己の姿を想像もしなかった自分と、不完全ながらも今とは異なる視点に立って眺めようとしていた渡航後の自分、もとい彼女の立場から考えることができた自分に気がついたのだった。  誰に対してもどんなものに対しても誠実でありたいという自分の思いに真っ向から背いてしまったこと、国の歴史というそこで生きる人々の根幹をなす事柄について不誠実だったという事実は、後悔してもし足りない。だが、その時の発見は、後の思考に多大な影響を与えた。面が立体に組み変わった瞬間だった。  以来、ある社会問題について考える時、色んな考えが錯綜するようになった。ごちゃごちゃと絡まった有線イヤホンのコードみたいな思考回路は、正直言って窮屈で扱いにくい。誰かに意見を伝える時慎重にならざるを得ないし、行動するためにあげる腰も重くなる。視点を増やし続けて、本当により良い答えに辿り着けるのかは甚だ疑問だ。…この文章を書いていて、自分の言葉に自信がなくなってきてしまった。でも、私の内部で起こった変革を、敢えて思考の発酵と呼ぶことにする。ベトナムで得た経験から派生した様々が、より良い私にしてくれることを信じている、いや、信じていたいからだ。  最後に。  今回報告書を書き足すにあたって、タイトルも変更した。(思)考/(発)酵/後(悔)/行(動)するしかないから。全くの蛇足だ。



 


 

VJEP2024報告書「たった二週間、されど二週間」遊佐 望 (東京理科大学理学部化学科3年)

 

 そもそも本プログラムを知ったきっかけは、他の参加者は主に過去参加者の紹介であるのに対し一味異なる。GoogleマップからJICA地球ひろばを発見し、JICAのホームページへ遷移すると、「外務省・JICA後援AAEE」のような文字が飛び込んできた(ような気がする)。結果的に自身の調べ癖が幸いして辿り着いた。たしかに夏休みを利用して何かしらのプログラムには参加したいと思っていたり、友人たちも短期留学を検討していたり、と様々なことが起因して非常に興味が湧いたのは事実である。しかし、普段英語に触れる機会がかなり少なく、英会話のラリーがスムーズに続くかさえ不安だったため、応募すること自体をかなり躊躇った。どのような選考状況か、適性があるかを応募締切2日前に直接問い合わせ、そのまま応募。そこから気づけば3ヶ月が経過し、817日。私はベトナム・ホーチミンに降り立っていた。私にとって二度目のベトナムである。昨年2月に友人と訪れたのだが、今回は全く異なる感情を抱いて帰国することとなる。帰国から二週間経過した今もなお、余韻が残る。

参加する決め手となった最大の目的、それは「コンフォートゾーンからの脱却」である。本プログラムの魅力は旅行代理店等を介することなく、大学や自治体との直接的な連携により、私たち日本人参加者も直にベトナムの人々と関われる点である。一見、素晴らしいことのように聞こえるが、同時に各参加者には創意工夫を凝らし、積極的に人々とコミュニケーションをとる姿勢が求められる。つまり、参加すること自体で私の目的はおおむね達成されるものの、達成度は14日間の過ごし方に委ねられる訳だ。また、本プログラムの意義が「交流(exchange)か協働(collaboration)か」のどちらか。この問いを念頭に置き、次にどんな行動を取るべきかを考えながら臨んだ。

私にとって「交流(exchange)か協働(collaboration)か」という問いは、非常に難しかった。本プログラムは” exchange” programであるが、「持続可能な開発のための教育(Education for sustainable development)」という根本的な活動テーマがある。交流を行った上で、教育という大きなテーマをベトナムの学生とともに議論しなければならないのだ。しかし、参加後気づいたことがある。そもそも二択ではなく、交流→協働という順に作用するものであり、協働を行うには交流が必要不可欠であるということ。ベトナムの学生たちと教育について議論する以前に、親睦を深めなくては事が進まない。拙い英語で積極的に話しかけ、交流を行った。時間が経過していく中で、初めは日常会話から始まり、日本とは全く異なる教育のシステムや価値観、宗教の話題まで会話は広がった。協働へ移ったと初めて感じたのはディベートの準備の時間である。英語でのディベートはおろか、日本語での本格的なディベートさえ経験したことのない私に親身になって教えてくれ、「あなたはどう思うの?」と双方の意見を統合することで、協働へと繋げていた。

 最も驚いたかつ刺激になったことは、7人の参加者やオーガナイザー含め参加したベトナムの全学生たちのエネルギーである。無論、元気やパワフルのように一言で表すことはできない。このエネルギーの原動力は、物事に対する意欲に違いないと肌で感じた。こう感じた場面をいくつか挙げる。初対面の際は、笑顔でたくさん話しかけてくれた。日本のように人見知りという文化は存在しないのか、はたまた偶然明るいメンバーが集められたのかと疑ってしまうほど私たちと積極的にコミュニケーションをとる姿勢が伺えた。戦争についての博物館を訪問した際には、「インターネットにもどこにも載っていない情報を教えてあげるから!」と自国の歴史を流暢に説明してくれた。特にディベートや模擬国連などの活動の前夜には、夜遅くまで準備に注力している姿が印象的だった。割り当てられたチームのメンバーが別部屋ならノートパソコンを片手に部屋まで赴き、別のホームステイ先なら画面通話で共有しながら準備を進める。これらの一つ一つの活動に対する意欲の高さは、一体どこから来ているのか。そして、自分とどこで決定的な違いを生んでいるのか。自分なりに考察した結果、決して私自身の意欲が低いという訳ではなく、彼女たちはどんなに些細なことも吸収したいという貪欲さに満ちていると気づいた。ディベートの準備の際、忘れられない出来事が起きた。ディベートは3人チームで、私以外の2人はベトナム人メンバーであった。ここで、一方の学生の意見をもう一方の学生は全く理解できないと反発し、真っ向から衝突した。私はその状況に驚くばかりか、むしろ感銘を受けてしまったのである。双方が自分の意見を確立しており、各々の根拠には深みがある。そして、芯を持っているからこそ意見を曲げない。幼い頃から他人の意見を尊重するように、と言われてきたためかこのような場面に遭遇するのは稀であった。気を遣わずに、良いものは良い、悪いものは悪い、とはっきり意見をぶつけられる感性が羨ましくなった。

ベトナム人学生らが何事にも貪欲で、芯を持っているという気づきから発展し、私自身がどれだけ受け身で教育を享受してきたかを思い知らされた。受験や試験のために勉強する。能動的に勉強に向き合ってきたと思っていたが、彼女たちに比べれば過去の自分の姿勢はあまりにも受動的であった。また、教育についての自分自身の明確な考えをあまり確率できていなかったため、いざ「あなたはどう思うの?」と聞かれると言葉に詰まってしまうことが多かった。

ただ、ベトナム人の参加者7名はいずれもHigh school for giftedと呼ばれる優秀な高校を卒業しており、ある程度恵まれた環境で育ったのは間違いない。ある会話の中で大学進学率を聞いてみると、ベトナムのほとんどの生徒が大学に行く、と言うのである。実際に調べてみると53%であった。彼女らの高校では大学進学率はほとんど100%というが、こんなにも差が開いていること、そして彼女たちもこの事実をこれまで全く知らなかったという事実に素直に驚いた。しかし、日本の大学進学率も57.7%であり、私自身も彼女たちと全く同じ状態であると気づかされた。教育の格差が囁かれていても、実際はその現状について全くの無知であることに恥ずかしくなった。さらに、ビンズオン省では3つの教育現場を実際に訪ねた。教育現場はインターナショナルスクールの小学校、High school for gifted、ボランティアクラスと三者三葉である。特に、インターナショナルスクールの小学校とボランティアクラスに通う生徒は同年代の子供たちだが、前者は活発で挙手が絶えないのに対し、後者はかなり静かで英語が全く話せない。両者で授業を行ったが、英語の理解度が全く異なるため敢えて授業内容は違うものにした。前者ではベトナム語↔英語↔日本語と3か国語を介してスライドを用いた授業を行ったが、後者ではモニターなどの設備がないためベトナム人の学生に翻訳してもらう形で折り紙を一緒に工作した。もちろん「持続可能な開発のための教育」の実現に向けて大躍進をしたわけではないが、学生たちとの会話だけでは見えてこなかったベトナムにおける教育格差の全体像が教育現場を訪れたことで少しだけ見えた。学生たちとの会話、そして実際に足を運んで、どの国にも教育格差の根本には無知があると痛感した。もちろん、世界各地で教育の不平等が問題になっていることの事実も知っている。しかし、私はその事実や現状のみの表面的な側面を知っているだけで、何をすべきか、どうすべきか、いつまでにすべきかといった実践的な側面には全くもって無知であると自覚させられた。自分にできることは何かを模索したい。

14日間の経験から体得した教育についての見解を記す。まず、教育は人種、性別、経済状況に関わらず、全ての人がアクセスできるものであることが大前提である。これはベトナムの学生と帰国後に交わした言葉を借りたものだが、「持続可能な開発のための教育」を実現するには、教育がこれを満たしていないといけない。特にボランティアクラスを訪ねたことで、経済状況による教育の壁に関心が高くなった。貧困を減らせば、教育の場が増え、貧困や教育問題を理解する人々が増える。教育の場を増やすことと、貧困を解決することは表裏一体であるという結論には至ったが、まだまだ教育について知らないことが多く、そう単純な問題ではないのだろう。

振り返れば、意思疎通においてこんなにももどかしい思いを経験したことがなかったと思う。積極的に話しかけに行ったことで数多の交流ができたが、「もっと英語がわかれば理解できるのに…」「この表現がわかれば伝えられるのに…」という後悔を何度もした。言語の壁が災いして、せっかくの貴重な活動も100%の力を注げなかったことがあった。しかし、これらの苦い経験により私の言語学習に対するモチベーションは高まり、さらに言語自体への認識が改まった。以前まで、言語は単なる意思疎通の手段という認識に過ぎなかった。毎日、これはベトナム語(日本語)で何と言うの?という類いの会話が絶えなかった。ベトナム人メンバーにスラングや乾杯の挨拶を教えてもらい、逆に日本語でも同様のことを教える。日本語とは抑揚も発音の方法も全く異なるベトナム語を通して打ち解けられた。ホームステイ先のベビーシッターの方に英語が通じず、翻訳アプリを用いて必死に伝えようと試み笑いあったのもとても良い思い出である。すなわち、言語の役割が意思疎通の手段である以上に、人同士を繋げるためにあると実感した。

最大の目的であった「コンフォートゾーンからの脱却」について考察したい。環境の側面では水シャワーやドライヤーがない等、普段の環境とは全く異なるためいかに恵まれた環境で過ごしているかを再認識した。ある意味、コンフォートゾーンから脱却できたと言えるだろう。設備的な環境を除外した側面から目的の充実度を再考する。やはり、国籍が異なっても話しやすい人と行動を共にしたくなってしまうものだ。英語が障害になり、なおさらその傾向が強くなってしまったと感じる。そのため、ベトナム人メンバー全員と満遍なく、かつ同じ話題について話せたわけではない。また、英語しか話せなく、お手洗い以外は常に隣に誰かがいるという状況は窮屈に感じたことが多々あった。特に最後のホテル滞在の部屋割りではベトナム人メンバー2人に対し、日本人は私1人であった。だが、思い返せば彼女たちはあらゆることに気を遣っていてくれた。私たちの街散策やカラオケに行きたいという要望、部屋での過ごし方、フリータイムのスケジュールまで、ありとあらゆることに甘えてしまっていた。ベトナムで開催されたということもあり、日本側の学生はややお客様のような扱いを受け、両国の学生は完全に対等ではなかったかもしれない。それでも、常に笑顔でいる事だけは忘れないようにした。言語が通じなくても、どれだけ疲れていても、彼女たちに最低限の敬意は伝えたかった。

感想を端的に表すなら、楽しかった。これに尽きる。学んだことは数え切れないが、既に記憶から抜けていることもあり、全てを書き記せないことが残念である。たった二週間、されど二週間。人間関係が垣間見えたり、異国の地に住む同世代の子が自分の長所に気づかせてくれたり、国民性に触れたり、旅行ではできない貴重な経験をさせてもらった。良い面も、そうでない面も。特に、今回の活動テーマに沿った様々な教育へのアプローチは一生忘れないはずだ。しかしながら、未だ「持続可能な開発のための教育」に対する理解も具体的な方策も曖昧というのが正直なところである。

最後に、本プログラムに関わってくださった方々に改めて感謝の意を示したい。4,000 km離れた遠い地ベトナムで、この瞬間も貪欲に学ぶエネルギッシュな友人たちにまた会える日まで、私自身も学びを続けたい。あのとき、参加を決めて本当に良かったと心から思っている。



VJEP2024 報告書 「2週間で得た探求心」山﨑柚葉 (獨協大学外国語学部交流文化学科1年) 

 2週間で得た探求心

獨協大学外国語学部交流文化学科1年 山﨑柚葉

 

 「ベトナムで何したの?」帰国後掛けられたこの言葉に、何も答えられない自分がいた。ベトナムメンバーとの交流、様々な学校への訪問、集大成としてのMUNなどやったことを言い並べることは出来るが、このプログラムで得たものは何か、これから時間をかけて考えていく必要があるだろう。しかし、この経験がとても濃く貴重なものであったことは確かだ。そんな私の2週間を、少しずつ振り返っていきたい。

 出発前日、私は何度も「行きたくない」と口にしていた。というのも、これまで海外に行ったことがなく、気候や食事、生活習慣などに大きな不安を抱いていた。その上、テーマに関する知識や英語力が圧倒的に足りていないことも自覚していた。なぜこんな私がこの選考を通ったのか、答えが出ることなく始まったこのプログラムでいちばん大きかったものは、異文化交流だったかもしれない。

 Education for Sustainable Development”というテーマがあったものの、ベトナムでベトナムメンバーと共に過ごしたことは特別だったと思う。例えば、国旗が至る所に掲げられていたり、多くのバイクが通っている道を渡ったり、外で食事をしていたりと、街を歩くだけでも様々な驚きがあった。また、互いの文化を、日常や伝統的なものから少しアカデミックなところまで話す中で、私自身が日本についてあまり知らないことにも気付かされた。ベトナムメンバーからは私が1つ質問すると何倍にもなって答えが返ってくるが、私は「なんで?」と聞かれても答えられないことが多々あった。さらに、宗教やジェンダー問題など慎重に扱うべきトピックについても、「シリアスじゃないよ、普通だよ」と言ってたくさん教えてくれた。ベトナムメンバーは学ぶことに対しての喜びが大きく、それは見習うべき点だろう。「一生新しいことを学び続けると思う」と言ったベトナムメンバーもいて、ある特定の分野に縛られず学び続けることは素晴らしいと感じた。

ビンズオン省へ移り学校への訪問をする中で、教育格差の現状を目の当たりにした。特にボランティアクラスへの訪問は、テーマについて考える上でとても大きな役割を果たすと思う。日本メンバーでの振り返りで、インターナショナルスクールの小学校ではほとんどの生徒が元気よく積極的に発言していたが、ボランティアクラスでは言語の壁があるものの、控えめな子が多かったというものが挙がった。教育環境の差が、知識量だけでなく態度にも表れていると考えられる。このような格差をなくすためには、持続的に教育の場を提供しなければならない。質の高い教育、適切な学習環境、学生への支援制度などを確保し続けることで、教育を受けられない子供が減っていくのではないだろうか。しかし、私たちがビンズオン省で行ったのは、たった1ヶ所に対してのたった1度きりの支援だ。アクティビティ後、鉛筆などをクラスに寄付した。もちろんそのクラスにとって貴重な資源で、役に立つことは間違いないが、これが持続可能な解決をもたらすわけではない。では、そもそも“Education for Sustainable Development”とは何だろうか。持続可能な開発を達成するための教育。子どもたちに深く考えさせ、問題を解決させ、物事のつながりを理解させ、何が正しくて何が間違っているのかを考えさせることで、持続可能性に関する考えを教育に取り入れるのだ。子どもの時から持続可能性に関する考えを学ぶことで、成長してから解決に向けて動くことができたり、次世代の子どもたちに受け継ぐことができたりと、持続可能な開発を達成できるだろう。例えば、ビンズオン省で私たちが訪問した高校では、SDGsのウォールペーパーを作成した。特に3枚目には、1つのゴールをイメージして自由にイラストを描いたことで、そのゴールについて深く調べ、考えることができただろう。このように身につけた知識は、その後の社会問題に対する関心にもつながり、持続可能な開発の達成に近づく。しかし、私たちが小学校やボランティアクラスで行った活動は、文化的な供給に留まるものだった。折り紙を中心とした日本文化をテーマに授業を行ったが、持続可能な開発に関する知識の提供はできていない。では、なぜ私たちは小学校やボランティアクラスに訪問したのか。私たちが授業を行った意義は何だったのだろうか。私は、子どもたちにただ喜びをもたらしたかったのだと思う。小学生にとって日本人(外国人)との交流は滅多にない経験である。幼いころに非日常体験を通して楽しさを感じることも大切だろう。また、このような国際交流の経験が国際社会への関心につながり、長期的に見たら持続可能なのかもしれない。少なくとも小学生にとって、そして私たちVJEP参加者にとっては、貴重な経験となった。

このプログラムは、“Education for Sustainable Development”というテーマで行われたが、結局未だ答えは出ていない。ただベトナムへ行って終わりではなく、これからもずっと考えるであろう、考えるべき問だ。この2週間で何をしたのか聞かれても、簡単には答えられない。それでも2週間の渡航を終えて、自信を持って言えることが1つある。「行って良かった。」