私の夢は戦争のない世界に生きることだ。気づけば私はこのフレーズを何度も何度も言い続けている。筑波大学を受験したときも、VJEPに応募したときも、VJEPのオープニングセレモニーでも、ビンズオン省のオーペニングセレモニーでも、だ。「戦争」や「平和」といった言葉が私をうずうずさせるのだが、それと同じくらい、「教育」という言葉も私の心に刺激を与えるのだ。それはなぜか、その答えがVJEP 2024を通して明らかになった。
私はこのプログラムでリーダーを務めたのだが、副リーダーを務めていたひなさんが、プログラムの最終日のスピーチで、“Education, I believe, includes everything a child receives from others from the moment they are born(教育とは、子供が生まれた瞬間から、他者から受け取るもの全てを含む).”と述べていた。この言葉が、私がふんわりとしたイメージを持ちつつも言語化することを怠っていた教育に対する考えをそっくりそのまま体現していた。教育とは、他者から受け取るもの全てのものを指す、つまり他者から受け取るものが変化すればその人の価値観や考え方、人格ですら変化する。だから教育というものは戦争のない社会を実現するための重要な要素であり、そのために私は「教育」というものにも突き動かされるのだ。
一瞬はスッキリしたようにも思えたが、帰国後、私は一つの矛盾と向き合った。教育が、子供が生まれた時から受け取るもの全てを指すのであれば、今回のVJEPでテーマとされた「教育格差」とは何なのだろう?ということだ。格差があるということは、「良い教育」と「悪い教育」が存在するということで、その二つの間に大きな乖離があるということである。しかし、そういった「良い教育」と「悪い教育」があると評価してしまうと、子供が他者から受け取ったものを「良い」「悪い」と評価してしまうことになり、それは個人の人格や価値観や考え方までもを測ることになる。例えば、VJEPでは、教育格差の上位の現場としてHigh School for the GiftedやViet Anh Schoolを見て、教育格差の下位の現場として、Ms. Ba のVolunteer Schoolを見た。しかし、それはHigh School for the GiftedやViet Anh Schoolの子供達が他者から受け取ったものを「良い」ものとし、Volunteer Schoolの子供達が他者から受け取ったものを「悪い」ものとしているわけではないことは明らかである。High School for the Giftedは、ある一つの学問分野に対し非常に長けた能力を育成する教育機関であり、クラスは英語や日本語、科学や数学といった専門分野に分かれ、自らの専門とする領域における高い実力を身につけることで社会で活躍することを目標とする場所である。そのため、専門領域以外に関しては、普通の高校に通う生徒と同程度かそれ以下の能力を持つ生徒がほとんどであるというのだ。
High School for the Giftedでディベートのアクティビティを行った時、非常に頭がいいという印象を受けたのは事実だが、この教育システムは現在日本で流行している幅広い学問を学び視野を広げていくリベラル・アーツと正反対のシステムであることもまた事実であり、高校生の時点で専門に絞った学習を推進する教育システムには議論の余地がある。High School for the Gifted で学ぶ生徒を一言で「良い教育を受けている」と評価するほど短絡的になってはいけない。反対に、Volunteer Schoolでは、使われる教材の質や学習環境といった面で考えると子供達が受けている教育のレベルはHigh School for the GiftedやViet Anh School よりも低いと言わざるを得ないが、教育を人から受け取る全てのもの、と考えたときに、Ms.Baから受け取る愛情によって育てられた子供達が受け取る「教育」というものは本当に「悪い教育」と評価できるのだろうか?
そういったことを考えていくうちに、「教育格差」とは、学問選択への自由度のギャップを示すものではないかと考えるようになった。つまり、教育格差の上位に属する人々は、学びたいことを学ぶことができる環境に属し、自分が好きな学問を障壁なく追求することができ、その下位に属する人はその選択の自由度が低い、ということである。このように考えると、Ms. BaのVolunteer Schoolを卒業した子供たちは、皆職業訓練校にいくことが多いという事実があるなど、将来の選択の幅が限定されているということを受け、やはり教育格差の下位に属しているのだと納得がいく。反対に、High School for the Giftedの生徒は奨学金や海外大学へのアクセスがしやすく、将来の選択肢として国内大学ではなく海外大学への進学も考えやすいという点で相対的に高い教育を受けていると評価することもできるのだ。
その一方で、私はベトナムにおいてある違和感を感じた。
将来の夢は何?と聞くと、自分が就きたい職業ではなく、真っ先に「海外の大学で学ぶこと」「自分の能力を高めること」との返答が返ってくること。
ベトナムでは理系に進学する女子の割合が1割にも満たないことを受け、ベトナム人のメンバーに理系に進学する女子が少ないのはなぜか?という質問を聞いて回った時に複数人の口から平然と発される「女子は弱い」「論理的思考力に劣るので難しい学習についていけない」「その点経済は簡単だから女子学生が多い」といった女性の能力を過小評価しているような言葉たち。
ディベートの際に当たり前のように発される「女子は精神的にも身体的にも弱い」という表現。
ホーチミン経済大学の学生になぜ経済を学んでいるのか?と聞くと返ってくる答えが経済学の面白さではなく、「お金を稼ぐ方法を実践的に学ぶことができるから」という非常に現実的なものである点。
参加者との交流が深まり、さまざまな対話を重ねるにつれ、ベトナムにおいては俗にいう教育格差の上位の環境で学んできたであろうVJEPのベトナムの参加者の人たちにとっても、学びたい学問を何でもかんでも追求できるといった環境はベトナムにはまだ完全に整っているとは言えないのかもしれないと少しずつ感じるようになってきた。大学に入学して学ぶ学問が、今後の収入の確保、国内で安定した職に就くため、女子学生への偏った評価など、さまざまなことが原因で限定され、学問が好奇心を満たすためではなく、お金を稼ぐための踏み台となり、知的好奇心に基づいた学問選択が阻害されているという現状がある。もっと多くの学生が自分の興味関心に沿った学問選択ができるよう、どんな学問を学んでもそれを活かすことのできる職業へのアクセスを設けることや、幅広い分野における学問の発展など、多くの側面での国家としての発展が必要となってくるのかもしれないと感じた。
このプログラムに参加した多くの方とは違い、異文化交流を通じて感じたことではなく、これまで全く違う経験をしてきた彼らの何気ない会話を通じた違和感から、「教育格差」について感じたことを報告書にまとめることにした。こういったことを考えることができたのは、日本人の参加者やベトナムの参加者と友人として交流し、友人として彼らの素直な言葉を受け取ることができたからに違いない。
報告書では、まるでベトナムの教育が日本に比べて劣っているというような書き方をしているように思えるかもしれないが、決してそういう意図はない。日本でも学歴至上主義や都市と地方の格差、海外大学へのアクセスの少なさなど、学問選択の自由度が決して高いとは言えない。また、ベトナムの学生は私よりも遥かに頭が良く、学びに貪欲で、優秀であり、の自らの能力を高めることへの圧倒されるほどの高いモチベーションは決して真似することができないものであった。
そんな彼女たちから得た学びを今後も大切に心に抱いておきたい。