2025年10月20日月曜日

AAEEネパールプログラム2025報告書(5)「幸福と教育の間にみえたもの〜ネパールでの経験から得た学び〜」東京外国語大学 言語文化学部英語科1年 舘山佳歩

  
去年までの私は、受験生として典型的な日本の教育を受けてきた立場にあった。大学に行くことしか考えず、行けなければ自分の価値は証明できないと思っていた。英語教育学に興味はあったものの、学力やテストの点数、日本全体の英語力にばかり意識が向き、「教育」そのものの意味や教育と幸福、教育と社会の関係について深く考えたことはほとんどなかった。今回のネパールプログラムを通して、教育は必ずしも個人の幸福に直結するものではないという現実を目の当たりにした一方で、その価値や重要性を実感する経験となった。このプログラムは、私の教育観を大きく揺さぶるものになったと感じている。

 プログラムを経て私が考える教育の定義は、単に勉強することではなく、社会の中で生活を営むための方法を伝え、文化を継承する営みも含むものである。ネパールは、多くのコミュニティを含み、コミュニティごとに独自の文化を持つという点で、一種の多文化社会であるとも捉えられる。2週間の滞在を通して、その土地や共同体の価値を理解し、生活を支える力を育むことも教育の一部であると感じた。教育は学力向上だけを目的とするものではなく、社会や文化の未来に関わる行為だということを、今回の研修で痛感した。

 都市部の私立学校クムディニホームズでは、ダンスルームや美術室、ホテルマネジメントのコースなど、多様な学びを通して生徒の視野を広げる教育が行われていた。都市部の教育は、すでにある生活の質を前提として成り立ち、学ぶことは人生の充実や自己実現のための手段と位置付けられていた。つまり、教育は幸福な暮らしをより豊かにする存在である。しかし、私たちが発表を行った際、生徒たちはあまり話を聞いてくれず戸惑いを覚えた。発表者としてどのようにプレゼンテーションを行うべきか考えさせられたと同時に、知識や経験を与える教育が必ずしも生徒自身の幸福感と直結するわけではないことも実感したことを覚えている。

 一方、マイダン村の学校では、電気もなく天候次第で学校が閉まることもあり、5年生までしか学べないため高学年になるには村を離れなくてはならない。生活基盤自体が脆弱であり、学ぶこと自体が幸福に直結するわけではない。しかし、訪問して実際に授業をしてみると、子どもたちが私語を慎んで真剣に話を聞く姿があった。また、村の人々に教育についてインタビューをしていくと、教育をどれほど受けてきたかには大きく個人差があれど、誰もが教育を受けることの重要性を語っていた。都市部の教育が幸福を前提に学びの質を高める「ケーキの上のイチゴ」のような存在であるとすれば、農村部の教育は生活や社会の基盤を支える「皿」のような存在であり、長期的には社会や共同体の未来を支える力となることを実感した。

 Bandipurの公立学校では、教育と幸福の関係の複雑さをより痛感した。高校に通う生徒たちは、多くが大学に行きたいと考えておらず、わずかに希望する者も海外志向だった。「学ぶため」ではなく「海外に行きやすくなるから」という理由で学ぶ生徒が多く、中には「どれだけ学んでもNepalでは意味がない」と語る者もいた。英語で授業を受けることが当たり前の環境で、国際的活躍を視野に入れた教育が行われていても、学ぶこと自体が必ずしも幸福につながるわけではない現実を痛感した。私は日本で過酷な労働に直面する外国人労働者の状況を知っていたため、「日本に行きたい!」と希望を語る生徒に対して、心から「ぜひおいで!」とは言えなかった。教育と幸福が単純に結びつかないことを改めて認識した瞬間だった。

 この研修を通して得た最大の学びは、教育自体が幸福と必ずしも一致しないことを理解したうえで、その重要性を再認識できたことである。教育は選択肢や可能性を広げ、社会や文化、共同体の未来を支える力を育む営みであり、目先の幸福に直結しなくとも深い意味を持つ。正直なところ、私にとっては典型的な教育そのものの意味や教育と幸福に関して考え方が大きく変化する経験でもあり、「教育とは何か」という問いに対する明確な答えがわからなくなり困惑したのも事実である。しかし、その困惑の中にこそ教育の本質を考える契機があったように思う。教育は個人の学力向上だけでなく、社会全体の未来を支える行為であり、幸福に直結しない教育の存在を理解することは、教育の本質を再定義する第一歩だと考えた。目に見える成果や幸福だけに縛られない教育の意味を考え続けることにこそ意義があると知り、今後も教育の本質について考え続けたいと改めて感じた。


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