「お願いだから邪魔しないで。まだこの余韻に浸っていたい。」
このプロジェクトで出会った人々から一つ、学んだことがある。
それは、何か行動を起こし、成し遂げるには、そしてそれを継続していくには、自分の内発的な動機付けによる信念と、人との信頼関係が不可欠であるということ、だ。
ネパールで学生寮を営み、学生の支援をしている岸さん、全てを投げうってネパールに200以上の学校を建設したOKバジさん、このプロジェクトを長年続け、準備してくださった関先生、シティーズさん。彼らは口をそろえて、こう言う。
「この活動は自分の幸せのためにやっていることだ。」
「協力してくれる人がいるから、活動できている。彼らには本当に感謝している。」
他人のためを思って行動することはいいことかもしれない。しかし、期待通りの反応が得られなかったとき、行動したことにすら気づいてもらえなかったとき、その動機を他人に委ねていたら、行動を続ける意味がそこにはもうなくなる。
行動すること自体に自らがモチベーションを感じ、心から楽しんでいるということ以外に、純粋で力強い動機はない。利己的であること。利己的であると同時に利他的であること。そこには真の意味で、お互いの幸せが成り立っていることを彼らとの出会えたことで深く理解できた。
このプロジェクトのテーマは「教育」であった。小学校、中学校、高校と学校の勉強をがむしゃらに頑張って来た私にとっては、テストでいい点を取る、いい成績を取る、偏差値の高い大学に入ることが目標であった。このプロジェクトに参加して人生で初めて、教育とはなにかという問いに向き合った。
学校教育は教える事、育てる事を目的とした明確な場であるから、注目されやすい。しかし、人が学ぶのは学校だけではない。ネパールのマイダン村を訪れたときにそのことを強く感じた。村の様子を説明するならば、安定した電波がほぼないことを知ってもらえれば少し想像しやすくなるだろう。そこで人々はとても幸せそうに日々の暮らしを送っていた。全く文字を読み書きできないおじいさんも、学校に行かず家業を手伝っている子供も、高等教育のために2時間もかけて隣町まで通う学生もみんな、料理をすること、片づけをすること、食卓を囲むこと、一緒に歌ったり踊ったり、会話をしたりすることに積極的で、楽しんでいた。私は、周囲との関わりが深い日々の生活そのものによって、彼らにとっての幸せの意味が形成されていくのを感じた。彼らは、「教育」を通して、自分の生き方を学んでいるのだった。
つまり、「教育」とは、学ぶ者が、何も持たない「無」の状態から、何かを得て「有」の状態へと変化する過程を支えることではなかろうか。「有」とは、人の生き方の指針「価値観」となっていくもので、それを支えるのは、学校教育をはじめとして、家庭、地域、また、私たちが認識できていない様々なものであると考える。
人は、「教育」を通してなにかしらの影響を受けて進化する。私が、このプロジェクトを通して、未知の環境で人と出会い、知らなかった考え方に触れ、新たな経験をしてそれらを自分自身の一部として加えたこの過程はまさに、「教育」が私にもたらしてくれた変化であると思う。
文章を書いている今から思い返すと、あの12日間が本当に現実だったのかさえ疑いたくなるほど、あっという間で、言葉にできないほど濃い時間だった。ただ、今、私自身が感じているこの気持ちは確実で、それはこの経験を証明してくれる十分すぎるほどの価値を持つ。これもまた、私だけは認めることができるのである。
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