2025年10月20日月曜日

AAEEネパールプログラム2025報告書(1) 「価値観の更新と思考の整理」筑波大学 国際総合学類 2年 小島莞子

  12日間のネパールにおけるMero Sathi Projectを通して得られた経験、知識、気づき、人とのつながり、楽しさいっぱいの思い出。多すぎていまだに処理しきれていない。多文化共修という側面からの学びも山ほどあるが、今回は教育と開発について考えたことを中心に書くことにする。 

 私はプログラム参加当初、開発途上国、特に農村地域においては、先進諸国に劣らない近代化を推進し、所得格差の是正や経済基盤の強化を目指すことが最良の開発であると捉えていた。特に、教育システムを国内でしっかりと運営できる体制が整うことで、国民の能力や質が向上し、国家全体の開発が促進されると考えていた。しかし、訪問先の一つであったマイダン村での光景は、この従来の価値観に大きな問いを投げかけるものであった。

 マイダン村の人々は、水道や電波といった現代的なインフラがない環境でごく普通に生活し、皆が笑顔に溢れ、異文化人である私たちをも温かく迎え入れてくれた。この様子を目の当たりにし、「彼らは本当に外の世界のような開発を望んでいるのだろうか?」「村の外の世界を知らないからこそ、今の生活に満足しているのではないか?」という疑問が湧き上がった。

 開発を表面的な要素、例えば高層ビル、最先端技術、高い所得水準といった観点のみで評価したとしても、その結果として人々の幸福度が低かったならば、その開発は真に意味を持つとは言えない。逆に、インフラや経済が不安定であっても幸福度が高水準であれば、それ以上の開発や教育システムの高度化の必要性は薄いのではないかとも感じられた。開発は持続可能であるべきだから、国際団体や政府の独断で無理な開発を行っても、徐々に詰めが甘かったところから崩壊していくだろう。これを踏まえて、教育や国家開発の真の目的は、突き詰めて言えば各個人を幸せにすることであり、開発、そして教育の普及を進める上で最も重要な要素は、当事者たちが何を必要としているのかという主体的な視点であると強く認識するようになった。経済水準を表す数値や教育の質の高さを示すデータのみに基づき、他の先進国の真似をして闇雲に開発を推し進めるのではなくて、その国や地域に適した開発像があるはずだから、それを基盤とした方向性で社会は発展するべきだと考えた。

 教育とは見方によれば価値観の押しつけだが、右も左もわからない人が教育を受けずに野放しにされていてもできることは限られている。だから、たとえ教わる側の態度が受身的で、教わることがプロパガンダ的だったとしても、とにかく人は教育を受けるべきだと考える。重要なのは、教わったことを別の情報と照らし合わせて更新し、身に着けた知識をもとに新たな領域に自ら踏み込んでみること。なぜ教育を受けるのか、その人なりの正解にたどり着くまでにはいくつものルートがある。マイダン村の子どもたちのように、外の世界をあまり知る機会がないまま大きくなったり、バンディプルの公立学校で出会った多くの生徒たちのように、高校卒業後は海外に出稼ぎに行こうと計画していたり、様々なケースがある。どのような道を歩んだとしても、結果的に自己成長ができて、自分にとっての教育の意味、目的を見つけ出せる。これができることこそが教育の理想のあり方なのではないか。

 世界を見渡せば、教育のみならず、数え切れないほどたくさんの課題で溢れかえっている。一人の力のみではもちろんどうにもならないし、一国だけでは解決できない問題が山積みだ。だからこそ、社会、世界全体の幸福のためには多国間、異文化間の協働は不可欠で、協働するためにはまず互いを理解するための努力が必須なのだ。Mero Sathi Projectでは、自分とは全く違う11人の学生たちと国境を越えて教育についての熱い議論を交わせたし、何気ない雑談でお互いの文化や内面までについてシェアできた。それは他者を彼らの言動を通じて理解すること、他者との比較や感覚的な違いから至る自己理解につながった。このようにプログラムを振り返ることで初めて今回のプログラムの意義がクリアになり、自分自身がAAEEに関わり続けている理由に説明がついた気がした。この広い世界でより多くの人が幸せを感じて生きられるために、他者を理解しようとし、差異を踏み越えて協働しようとする。私はそんな人でありたいし、そういう人が少しでも増えたら、と思う。



 

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