BJEPでは、私が当初期待していたものと全く異なる形で最後を迎えました。
BJEP自体について話す前に、私事で恐縮ですが、当初持っていた印象について話したいと思います。初めは、正直なところを申しますと、プログラム自体にあまり期待をしていませんでした。中学を卒業する頃より国際社会や国際問題に興味を持つようになった私は、沢山とまでは言えないものの、そうした問題をテーマにする会やセミナーに何度か参加したことがありました。初めの関心を持ち始めたばかりの頃は、解決に貢献するんだといった熱心さを持って挑んでいましたが、時間も経つにつれ熱心さや関心の程度も消極的になっていきました。飽くまでこうしたプログラム等の趣旨としては、解決への強い動機づけよりも、参加者の理解を第一としたものであると徐々に理解し、何か行動したいと思う本心と実際のずれによって次第に期待をあまり持たないようになっていきました。そうした視点で私はこのプログラムを見ていました。
しかし、実際に参加し日を経つごとに自分の中で感触が変わっていきました。私自身、期待という言葉も高校生の頃と異なり、意識的に考えるものではなくなり、こうした国際的なBJEPでは自然でいるようになっていました。そうした態度は忽然と変わるということはないですが、しかし、自分の中で何か「新しさ」を感じるようになりました。
プログラム具体的な内容については、他資料などに詳しく書かれていると思うので、あまりそれについては書きませんが、BJEPのテーマであった「深層文化」がある意味私にとって新しいものであったと思います。詳細は語りませんが、「深層文化」とは一言で述べると言語化できない感覚によって体得する文化のことです。もちろんこの定義が包括的な説明になっているとは限りませんが、私達が「文化」という言葉を聞いて思い浮かべる像として、衣食住や伝統品といった視覚できるものから、祭事や音楽、社会に亘る法規などといった視覚できないものへとより感覚的なものに変わっていくと思いますが、依然社会の〈表層〉的な文化であります。そうした非視覚的なものを単純に〈深層〉的なものとして扱ってしまうことがあるかと思いますが、一方、深層文化が指す概念は、そうした表層文化の根底にある社会の思想、そしてより掘り下げていくと人間全体に共通する文化的な感覚であります。似た言葉で日本思想や東洋思想といった「思想」としてある社会の通念について考えることがありますが、思想と異なり私達がいかに文化として深く取り上げることができる共通した感覚があるかが問題となります。
こうしたテーマ設定で表層文化から段階的に深層文化へと考えていく構成でしたが、私個人の自問の題として「尊敬とは何か」を中心にしてプログラムに取り組んでいました。プログラムが進むごとに文化に対して外向的な立場でなく内向的な立場で鑑みるために、より自身の経験や思いへと向けていく構成が確立していきましたが、そうした文脈が深層文化とは何かを確かにしていったと思います。正直な思いとしては、私自身「尊敬」とは何か、本当のところでは分かりません。相対主義的な立場では、異なる文化的な背景の人々に対して価値や存在を認め尊重するなどの意が尊敬になるかと思いますが、私自身本当参加者も尊敬できていたかというと分かりません。私達は他者に対して、「良さ」を見つけて尊敬したり、尊敬の思いを感じるかと思いますが、しかし、そうしたことを関係なく私が誠より尊敬しているかと考えると、確かに尊敬を理解できていると私自身について断定できないと思います。しかし、そうした堂々巡りの思いの中で、バングラデシュ側の参加者と対話を重ねることで言語化していくだけでは見えない尊敬について概観が見えるようになっていきました。私が単純に感動したのは、参加者全員がテーマや細かい問題設定に対して純粋に向き合っている姿勢でした。より個人について向き合っていく中で、ただ問題について話すのではなく、自分自身と相手自身どちらも向かって純粋に理解しようとする姿勢を見ていく中でただ言語化するだけでは分からない尊敬の形があるのだと気づきました。それが深層文化とは個人において人間において何かを示す重要な一要素であると思います。
具体的に、ある日本人側からの参加者で、最終日にしていたスピーチがあり、そこで彼女は初日にバングラデシュ側の参加者より「君の喋り方は美しい」と言われたことについて話していました。スピーチの中で、何か話す際に初めの一言が詰まってしまうことを子どもの頃より悩んできたことを告白していました。そうした悩みを彼女自身が持っていた中で、初めて話し方が美しいと言われたここに、尊敬とは何か、国際社会で話題にされる他者への理解とは何かがあると思います。私自身も自分の幼少期の悩みがあったことをある時話したときも本当に真摯に向き合う人、時間があると思いました。
最後に萩原朔太郎さんより「こころ」を引用して締めたいと思います。
こころを何に例えよう
こころはあじさいの花
ももいろに咲く日はあるけれど
うすむらさきの思い出ばかりは仕方なくて
こころはまた夕闇の公園の噴水
音のない音が歩む響きに
こころはひとつゆえに悲しんでも
かなしんでもここに在る価値がない
ああこのこころを何に例えよう
こころは二人の旅びと
しかし伴うひとが少しも物言うことなければ
わたしのこころはいつもこのように寂しいのだ
コロナウィルスという世界全体にまたがる大きな脅威は国や地域によって別の対象様々な問題へとなっています。そうした情況の中で、私達は異なるエスニシティの人々に対してひずみが大きくなっています。社会で個人が孤立していく中でまさに「こころ」の旅人のように自分自身で自身を考えないといけない時代へとなっています。そうした時代であるからこそ、物を一緒に言っていくれる望みの旅人がいるこのようなプログラムの存在意義があるかと思われます。
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