「異文化交流の先にある、わたし」
上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科一年
蓑島周
やりきれなかった。そしてやりきった。二つの思いが今も私を取り巻いている。次々と現れる困難を乗り切れるか否かは、きっとほとんどがそこに至るまでの準備で決まるのだな、と思った。
最初にそう感じたのはネパール人との会話においてである。日本人の中には日常会話程度なら難なくできる者もいたが、海外旅行経験さえなかった私は、拙い英語と大袈裟なボディランゲージでおどけることしかできなかった。どうやって気の許せる仲をつくることができるか考えた結果であった。ネパールメンバーは優しく応対してくれたし、自身も安堵感があったが、実のところは満足できていなかった。異文化交流において本当に相手を理解するためには、お互いの政治や経済、ひいては関心の深い分野まで話をするべきだと考えていたために、そのレベルの交流ができるだけの準備をしなかったことを悔やんでいた。
ツアー全体を通してもそうであった。私はツアー全体の活動日程や構成、さらには現地の情勢等の情報さえ把握しようとせず、期待に胸を膨らませた状態でネパールへと渡った。結果は一目瞭然。ポカラで記者会見が開かれた際には、緊急に代表が不在となった私たちは満足に質問に答えることができず、おそらくほとんどの記者にはNJEPの活動意義を伝えきれずに終わってしまったように思えた。私はNJEPの一員であるにもかかわらず、どこかで他人任せにしていたのである。
そんな私にも良い出来事があった。首都から車で一日半かけ山の上にあるマエダン村に行き、村唯一の小さな学校に訪れると、そこには村中の人々が集まっていた。話しかけると照れてしまうシャイさを持つ、なんとも可愛らしい子供や大人がそこにはいた。言葉が通じない彼らと仲良くなりたい一心で、私はこれ以上ないほどにふざけた。思いつく遊びをとことん導入し、近づく私を嫌がる子供を容赦なく追いかけていく。後先も考えず全力でぶつかったことが功を奏し、のちに村人は私を「スー」と呼ぶようになった。なんだか認められたような気がして、素直に嬉しかった。それが“小便”を意味すると気づいたのは次の日だったが。
しかし仲良くなってしまえばこっちのもので、それから三日間は私が何もしなくとも向こうから寄ってきて、自然豊かな村を案内してくれるようになった。こんなところがあるよと、目をキラキラさせて寄ってくる彼らが愛おしくてたまらなかった。そして私は、こういう場所で子供と触れ合う時間が私にとって真の幸せなのかもしれないと思うようになった。今では子供と関わることまで視野に入れ、将来を見据えるようになった。
ネパールという異土で五感を通して学んだこと、感じたことは、心の内に秘め、先の人生に生かしていかねばならない。そして失敗は、二度と繰り返してはならない。そのためには自覚と覚悟をもった“準備の鬼”になることが必至である。そしてそう気づかせてくれた仲間たちに心から感謝したい。
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