2018年10月4日木曜日

ベトナム VJEP 2018 報告書 (1)永島郁哉 (早稲田大学 文学部文学科1年)

                  「南越にて」

早稲田大学 文学部文学科 
1年 永島郁哉
  

目を覚ましました。いつもの天井ですが、昨日までの天井とは違うことが感ぜられてなりません。心地良い感触のベッドが居心地悪く感じるのは何故でしょうか。いえ、おかしいのです。自分はあの散らかったままの部屋に戻ってきたらしいのです。自分は、自分が恋しかったはずのあらゆる物が部屋に横たわっているのに、ちっとも嬉しくないと思いました。ベトナムという、四千キロも離れた土地は、この日本人を祖国から引きはがしてしまったのか、と思うくらいでした。そうこうベトナムについて考えを巡らしていると、自分はこのプログラムから実に多くの財産を、それはまた、自分という奇怪な生き物をそうせしめるために必要なエナジーを得たと思いました。この、記憶を辿る作業は、謂わば自分の、この部屋のように散らかった心情を整理整頓する過程の様なものでした。



彼らのおかしな点は真面目で不真面目な点だと思います。自分はこれが矛盾だと言うことを知っていますが、彼らは否定しようもなく、そうでありました。例を挙げると限がないのですが、彼らが大真面目だということは言うまでもありません。ベトナム国内の約六百という学生の中から選りすぐられた十人は、英語運用能力も然ることながら、教養やプレゼンテーション能力までもが、日本人のそれを上回っていまして、自分はこれに何度も脱帽を強いられましたが、その都度、それがエナジーとなりました。彼らに追いつこうと必死になっていた、おっかない顔の自分は幾許か滑稽に映っていたでしょうが、この未熟者を成熟させるのは正にこの瞬間だと言えようと思います。ここで例を挙げるとすれば、やはり、ビンフック省の小学校で行ったティーチングアクティビティが好かろうと思います。この時の自分は感嘆の余り、目を見張って、兜を脱いだ挙句、舌を巻いた、と言っても決して過言ではないのでした。(正に滑稽な顔とはこのことでしょう)彼らの提供する教育は、児童の視線を集める虫眼鏡ような役割をして、アメリカの国道六十六号線か、ドイツのアウトバーンほどの、直進の続く道路といった感じで、視線が注がれるのでした。彼らは道化の達人でもありましたので、どらんどらんと揺れ動く箱の中で、自分は取り残されて、この空白の目には、彼らが伝道師か何か、未だ知らぬ、アウラの塊の様に映ったのでした。
そして、所謂不真面目な部分は、毎晩開かれた言葉遊びや、あの例の、魔法のメロディの初演となった人形劇等々、要するにプログラムから真面目な部分を切り離した余剰であります。毎日腹を抱えて過ごしたなんてことは自分のちっぽけな人生でありましたでしょうか。幼稚園にいた頃、あの馬鹿の雄大君と、幾人かの先生に茶々を入れたその時の可笑しさ以上でしょうか。ともあれ、腹の底からハッハと笑うということは簡単なようで難しいのです。狙って出来るものでもありはしないのです。では何故彼らとの起居はそうも世の中(こう言うと、時たまいくつかの人間は文句を垂れますが、この「世の中」は自分の世界の「世の中」であって貴様たちの「世の中」ではないと言っておきます)の定説を無視したのでしょうか。実は、彼らの「大人の童心」がそれを誘起したのだ、と勘付くのには実に長い時間を要しました。「大人の童心」とは自分自身もよく理解してはおりませんが、その答えのようなものに名前を貸し出すなら「大人の童心」という口回しが、どんぴしゃりだと思います。彼らは、大人ながらに子供なのでした。子供遊びというのは、無責任に遊び散らかす刹那行為ですが、しかし、彼らとの遊びはいつもどこか、アブノーマルな瞬間という意識を孕んでいて、地に足をつけて暴れまわるのでした。それでも、こちらが呆れ倒す程に、尚且つさらに、全てに覆いかぶさって、実に愉快でした。

今回のプログラムでは「貧困と教育」というテーマが設けられておりました。我々がこれに、いかにアプローチしたのか、これもまた興味深い成分だろうと思います。ホーチミン経済大学での講義に始まり、ビンフック省でのフィールドワーク、ホームステイ、少数民族へのインタビュー等、多角的に知識を経ていく過程は実に天晴れでありました。この時に、自分は、何と見事に仕組まれたプログラムに飛び込んだのだろうと思いました。テーマそのものが大変不確実で、朝靄のような朧げさが付きまとっておりましたが、いや、そうだからこそ、実体の無いそれを「掻く」難しさに向き合い、苦悩し、時に克服し、また試行錯誤することが出来たのではないか、と思うのです。(しかもそれを、異国の学生とやってのけたなんて、如何に貴重な時間であったのだろう!)自分自身、このテーマに深い関心を寄せていただけに、得たものは計り知れません。「世界が広がる」とは正にこのことなのかと驚いております。プログラムテーマの余韻は、随分と、この体に纏わりついて離れません。かく言う自分も離れたくないと感じています。


以上が、この八月の出来事でありました。整理を始めると、いかんいかん、とばかりに、写真アルバムを見返してしまうように、この場合も、遅々として整序活動は前に進みませんでしたが、しかし、アルバムを一通り眺めた後には、清清しくなるものです。自分はこの余韻たちと抱擁して、また深い眠りにつきました。


追記(九月二十五日)

今でも、ベトナム・日本の参加者と連絡を取り合っております。駿馬のように流れる生活を、それぞれが持っているのにも関わらず、こうしてお互いを気に掛ける様子を見て、大変嬉しく思います。最後に、代表の関大先生には仰山お世話になりましたので、この場で御礼申し上げたく思います。有難う御座いました。


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