2018年10月7日日曜日

ベトナム VJEP 2018 報告書 (8) 河面雄樹(立教大学 観光学部年)

「挑戦」
立教大学観光学部年
 河面雄樹


 まず初めに、関昭典教授、望月千里氏、大瀬朝楓氏、ベトナムと日本からの参加者やこの事業に関わった全ての人、そして誰よりも、常に私を支えてくれる私の家族に、心から感謝の意を表したい。
 このVietnam-Japan Exchange Programは、私にとり挑戦の連続であった。全ての始まりは四月末、望月氏からの連絡から始まる。VJEPという日越交流事業があるのだけれども興味はないか、との一通。その時フィリピンでの一年間の留学を丁度終えようとしていた私は、喪失ともいえる達成感に駆られ、自分の依り代になる新たな目標を探しているところであった。なんという僥倖、そう思った私は即座に望月氏にこの事業の詳細を尋ねた。話を聞くと、日本とベトナムの学生間で文化的かつ学術的な交流をしようという趣旨の事業であるようだった。正に天啓だと確信した。留学を通し殊更に高まった東南アジアへの興味と、現状の自分はいかに学術的な英語を話せるのか試したいという欲求、この二つを叶えられるからだ。しかしながら、ここでこの事業最初の挑戦を強いられる。金が足りない。単純だが決定的な問題であった。いかにしてこの問題を乗り切ったかはただ一言。母よ、ありがとう。実を言うと私は、充分な持ち合わせがないままこの事業に応募してしまったのだった。そのような私に、是非もなし、と母は出資してくれた。最大限に感謝している。本当にありがとう。まあ母はこのような文字だらけの書き物を読むような性格ではないのだが。
 そのような艱難を(母が)乗り越えた矢先に、新たな挑戦に直面した。Research projectだ。VJEP内では、様々な企画を遂行する。Researchはその内の一つであり、ベトナムの僻地に赴きその地域がどれほど貧困にあえいでいるのかを調査しまとめ、いくつかの集団に分かれて成果を発表するという企画である。その企画の担当者に任命されたのである。ここで思い出してほしい、ベトナムは社会主義国家である。社会は平等であり、貧困は存在しないことになっている。ここに関しては議論が大いにあるだろうが、問題はこのVJEPが政府の全面協力の下に成り立っているということだ。あなたは貧困ですかと聞くことは、つまり政府に不満を持っていますかと役人の眼前で聞くことに同義なのだ。まさしく大挑戦であった。結果から言えば、この挑戦はこの時点では失敗に終わる。直接貧困を想像させるような質問をすることはできず、どれほど鄙びた場所に連れていかれるかも分からず、さらに調査する期間がわずか半日しかないのである。結局私は、事前準備を同じく担当者の備瀬氏と山戸氏に頼りきってしまい、碌に準備もできないまま出国してしまったのであった。正直に言えば、これほど大変であることを初めから知っていたならば、担当を言下に断っていたであろう。今振り返れば得難い経験ができたと声高に言えるが、当時は言わずもがな辟易していた。南無三。
 そのような木偶の坊にもベトナムは暖かかった。というよりも暑かった。独特の東南アジアのにおい(・・・)とともに三十度越えの気温で、ベトナムは我々を熱烈に歓迎してくれた。ベトナム側の参加者も皆気さくで、打ち解けるまでに幾日も掛からなかった。貧困と教育について各々の国側からの発表や、ベトナムの伝統陶芸の体験、ホーチミン市の観光を通じて、全員と親睦を深めていった。しかしながら、この事業を通して個人的二大挑戦の内の一つ目がここで立ちはだかる。学術的な議論を英語で行う機会が足りない。この事業に参加した最たる目的は、ベトナムの文化を知ることであったので、率直に言ってしまえば英語に固執する必要はなかった。だが、折角貧困と教育という表題まで掲げているのだから、そこに取り組まない道理もなかろう。そう思い立ち私は或る夜、ベトナムの参加者達が談話している中に突撃していった。大多数に立ち向かって話をするのがあまり得意ではない私にとって、これはよく言う、自分のComfort zoneから一歩踏み出した瞬間であった。素晴らしく有意義な夜であった。“社会が発展するには教育こそが必要なのである。何よりも教育に力を”、“その教育というものは洗脳とどう違うのか”、“貧困はこの世から本当に無くせるのか”、等々。各々が異なった意見を持っていれば、似通った意見を持つ場合もあり、勉強になることだらけであった。自分の取った行動に珍しく誇りを持った瞬間であった。ちなみにComfort zoneから一歩踏み出た状態をLearning zoneと言い、一歩どころではなく突き抜けてしまった状態をPanic zoneという。私の限られた英語力では、その晩に何度も突き抜けてしまうことになるのだが、その話はここでは割愛する。
 程なくしてホーチミン市から北におよそ百粁、ビンフオック省という場所に移動する。悠々自適、晴耕雨読という言葉はここで生まれたのではないかと紛うほど長閑な地域だ。その恩恵か、そこに暮らす人々も一人残らず暖かく、我々を家族の一員かのように迎え入れてくれた。ホームステイ先の父とは今でも偶に連絡を取る。彼には日本に滞在している息子がおり、近くその息子とも落ち合う予定だ。また、事業の中で小学校を訪れたのであるが、ここでも歓迎された。日本文化伝播の一環として、折り紙や書道を子供たちに教えたのだが、皆意欲と珠のような笑顔に溢れていた。教室外でも、溌剌と走り回る顔は皆笑顔だった。それに延々と付き合わされた私の笑顔は引きつっていた。迎えに来た親御さんの片言のアリガトウで疲れは全て吹き飛んだのではあるが。そのような平穏な空間の中でも私の心の奥は常に汲々としていた。この事業最大の挑戦である、Research projectが迫っていたからだ。まずこの企画の何が大変かをまとめる;調査対象の地域がどのような場所か分からないのでそもそも企画が成り立たない可能性がある、厳しい制約の中で何を質問すればいいか分からない、そもそもどのような返答がきたら貧困と認定できるのかさえ不明瞭。更に、調査対象地域の人々はベトナム語が話せないので政府の通訳が入るという事実が、調査前日に発覚する。匙を全力で振りかぶって投げる準備だけは万全であった。幸いなことに、常に大瀬氏が全面的に協力してくれたため、結果的にこの企画自体は辛うじて形にはなった。彼女には万謝の念しかない。企画について詳しいことを述べると文字が足らないので、ここには企画運営としての改善点のみを挙げる;ホーチミン経済大学の教授がしてくださった講義を調査発表に盛り込めるよう誘導すべきだった、事前に取った統計を調査発表にて図表等で盛り込めればよかった、そうするためにも事前統計の質問項目をより熟慮し有用なものにすべきだった(例えば最終的な調査発表が、貧困と幸せを結び付けているものならば、幸福度を測る質問を質問項目に加える。貧困と自由を結び付けるものならば、仕事や勉学以外の時間はあるのか、もしあれば何を何時間しているかという質問を加える等々)、要するに一番最後を見通して準備すべきだった。もし将来似たような企画を行う時があれば、この備忘録がその役に立つことを願う。他にも数えきれないほどの改善点があり、この大挑戦は失敗だったといえるかもしれない。しかしながら、自分が何を改善すべきか明確にできたという点では成功だったといえるのではないか。少なくとも何も学ばなかったよりかは得るものがあったはずだ。
 やはり挑戦の連続であった。挫折しそうなことも何度もあった。挫折したことは数度あった。艱難汝を玉にすと世間では言うが、艱難自体が自分を玉にするのではない。周りにいる人々が自分を助けてくれることで、艱難を乗り越えられ玉になれるのだと確信している。全ての人との出会いと支援に、末筆ながら再度感謝して筆を擱きたいと思う。長々と駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

追記
Bánh hạt điềuという、カシューナッツやシナモンから出来たクッキーがどうやらビンフオック省の名産のようなのだが、これを食べる機会がなかったことがこの事業唯一の心残りである。

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