2016年12月1日木曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (12)  藤本沙織 (上智大学文学部2年)  「ネパール≠途上国」

「ネパール≠途上国」

   上智大学文学部2年 
藤本沙織

 
 
 
 私はこの夏、ネパールスタディツアーに参加して、人生で初めて「途上国」を経験した。このスタディツアーに参加した一番の理由は、尊敬する友人が企画・実行しているプログラムであったことだ。Facebookで参加メンバー募集という彼の投稿を見て、何も考えずすぐに「行きたい!」とメッセージを送った。二つ目の理由は、途上国に行ってみたいという好奇心からである。「国際協力」に漠然とした興味を持ち、何か自分にできることがないか考えていた私が途上国でどんなことを感じるのか知りたいと思った。そして三つ目の理由は渡航前にメンバーとの勉強会を通して気付いた後付けの理由であるが、私のもう一つの関心テーマ「教育」にアプローチする方法として途上国の教育を知るためである。「途上国の子どもたちは、学習環境が悪くても、勉強しようという強い気持ちを持っている」というイメージがあったので、典型的な日本人の教育に対する受け身の姿勢と比較するヒントを得たいと思った。
 
 私はこのスタディツアーを通して、「途上国は○○」「ネパールは△△」と一般化することはできないと気付いた。ネパールという1つの国の中でさえ、全く異なるバックグラウンドで育ち、様々な価値観を持って生活する人々がいた。また、ネパールに存在する社会問題は日本にも存在し、“より良い社会”を実現するには途上国や先進国といった線引きをすることは本質的でないと感じた。
 
 アジア最貧国と言われるネパールでも、生活水準は上から下まで様々であった。例えば、一緒にスタディツアーに参加したネパールの学生たちは、私たち日本人メンバーと何も変わらないように感じた。スマホを持ち、毎日好きな服を着て、バスの中ではお気に入りの洋楽を聴き、大学に通いながらそれぞれの目標に向かう姿を見て、私の中の「ネパール=途上国」という固定概念が音を立てて崩れていった。一方でマイダンという村で出会った子どもたちは、同じネパールに住む彼らとは対照的にとても質素な暮らしを送っていた。村では全くお金を使わず、家の周りで農作物を育て、部屋にシャワーはなく電気もほぼ使わない生活を送っていた。日本での暮らしと全く異なる生活に驚きショックを受けたが、それ以上に同じネパールでもこんなにも格差があるということの方が衝撃だった。

 途上国というと「貧しさ」を思い浮かべる人が多いと思う。私もそのようなイメージを持っていたが、途上国“だから”貧しさが存在するのではなく、途上国にも日本にも、同じように貧しさが存在するのだと思った。私はこのツアー中に初めてストリートチルドレンに出会った。観光地で写真を撮っている時に子どもが近くに来たので、一緒に写真を撮って楽しんでいたのだが、帰り際にお金を求められた。私はどうすれば良いか分からず、お金を求められたという恐怖心と、私が今数百円のお金をあげても、目の前の子の現実は変わらないのではないかというある種の諦めの気持ちから、何もせずにその場から立ち去ってしまった。貧困という大きな問題を直視するのが怖くて、見て見ぬ振りをしてしまった。あの時どうすれば良かったのか、ホテルに戻ってメンバーと話し合い、自分でも何度か考えてみたが、まだわからない。しかし、日本に戻って気付いたことは、日本にも駅の周りや公園にはホームレスの人々は存在すること、そして途上国の貧しい人々を助けようという声は多く聞くのに、実際に日本で自分のすぐ近くにいる貧しい人々に意識を向け行動している人が少ないことである。貧困問題を、途上国だけの問題と考えてはいけないと思った。

 このスタディツアーは私に、「途上国」という便利な一言で表すこと自体が本質的でないことを教えてくれた。参加した理由の一つの「教育」というテーマについても、「途上国の子どもの、学習環境が悪くても勉強しようという姿勢を日本が学ぶべき」という前提に疑問を抱くようになった。確かに学習環境が悪くても、家族のため、生きるために必死に勉強する学生は途上国にはいる。しかしそれはネパールの学生全員に当てはまるわけではない。マイダンで一生を過ごす子どもにとっては、英語を勉強することに何の価値もないのかもしれない。そう考えると、そもそも教育とは何なのか、私は日本の教育を良くするためにどんなアプローチを取るべきなのかという新しい視点を持つことができた。

 最後に、初めての経験と新しい価値観の発見に溢れた二週間のスタディツアーに参加できて本当に良かったと思う。ここには書ききれない多くの気付きを得たこと、そして尊敬する仲間たちと出会ったことは私の価値観に大きな変化を与えてくれた。私の文章を読んで少しでもネパールスタディツアーに興味を持ってくださったあなたに、今すぐよしきにメッセージを送ることをお勧めしたい。




2016年11月21日月曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (11) 関愛生(上智大学総合グローバル学部2年) 「心の壁を崩す」

               「心の壁を崩す」

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科2年
関 愛生


 2016年夏のNJEPスタディーツアーは、生涯忘れることの出来ないほどよい思い出となった。高校時代の一年間をネパールで過ごした私にとって、ネパールという国は人生の原点とも言える場所だ。中学3年時、高校受験前の最後の夏、受験勉強に勤しむ周囲の人々をよそにネパールに旅行に出かけ心底ネパールに惚れ込んだ私。帰国したその日に両親に頼み込みネパールの高校に進学することを認めてもらった。今考えてみると、当時の私はとんでもない決断をしたと我ながら驚いてしまうが、そこでの経験こそが私の人生を大きく変えた。
毎日長時間停電し、水不足で水道がほとんど使えなかったりなど、日本で生まれ育った私にとって生活面で苦労したこと多々あったが、それ以上にネパールの人々と毎日一緒に過ごし、語り合う中で多くのことを学ばせてもらった。毎日が忙しく時間との戦いである日本とは対照的に、ネパールでの生活は緩やかで時間に追われることはほとんどなかった。そんな環境だからか、ネパールにいると私は毎日のように人生を振り返り、自分自身についてゆっくり考えることが多い。不思議なことに、日本では全く気づくこともなかった私の心の奥底にある想いにふとした時に気付けたりするのだ。そういった意味では、私にとってネパールという国は自分に一番正直になれる場所で、だから日本に帰国してからも毎年のように通っているのかもしれない。 
 大学生になってからは、スタディーツアーの企画者、そして一参加者としてネパールを訪れている。私たちの企画するスタディーツアーの最大の特徴は、日本の大学生と現地の学生との交流に最も重きを置いているということである。ネパールに到着した日から帰国日まで、約20人の両国の学生から成る私たちのチームは、ツアー中はどんなことがあっても一緒に過ごす。朝起きる時も、ご飯を食べる時も、真剣に話し合う時も、冗談を言い合うときもいつも一緒だ。ここまで学生交流を重視しているスタディーツアーだからこそ、仲間の存在が何よりも重要となる。私にとって、企画段階から中心的に関わるのは大学生になってから2度目だったが、幸運なことに今回も最高の仲間に恵まれた。日本側のメンバーは、メンバー募集開始からなんと2日も経たずに決まり、高校生から大学生まで驚くほどに個性豊かなメンバーが集まった。ネパール側からは、壮絶な受験戦争を勝ち抜いてきた優秀な大学生がメンバーとして顔を揃えていた。
 ツアー初日、ネパールの空港で初めて顔を合わせた両国学生は、最初はぎこちない雰囲気になるかと思いきや、空港から宿泊先に向かうバスの中ですでに、みんなで日本やネパールの歌を歌って大騒ぎするほどになっていた。そんな最高の仲間たちと過ごした2週間で出来た思い出は星の数ほどあるが、その中でも私にとって一生忘れることのないだろう思い出をここに書きたい。
 ツアーの最中、日本人学生の一人が誕生日を迎えた。その時私たちは、2日間をかけて辿り着いた山奥の村でホームステイをしていた。その日の朝、村の公民館に集まってきたメンバーのひとりが今日がその日本人学生の誕生日であること、そして何かしらの方法で祝いたいということを誕生日である本人にバレないようにみんなに伝えた。すると、ネパール人学生たちが「ネパールで誕生日を迎えたのだからネパール式の誕生日の祝い方をしたい」と言い出し、リーダーシップをとって私たち日本人に指示を出しながら壮大なサプライズパーティーの準備を進めてくれた。誕生日である本人にバレないように、両国の学生が一体となって何時間も夢中になって準備したそのサプライズパーティーは、絵に描いたように上手くいき見事大成功に終わった。その瞬間、日本とネパール両国の学生の間にあった壁が一気に崩れ、私たちは本当の意味で一つのチームの仲間になれたと感じることができた。
   全く違う環境で育ち、全く違う文化や習慣を持った人同士が心の底から打ち解けられるようになるのは簡単ではない。今回のツアーでは両国の学生が出会ったばかりの頃から一緒に歌い、多くのことを話して表面的には仲良くなったように見えても、やはり最初は、お互いの違いを受け入れることが出来ず衝突することもあった。それでも長い時間を共に過ごし、様々な喜びや苦悩を共有することで初めて「心の壁」を崩すことができたのだと私は考えている。サプライズが成功したあの感動の瞬間にこそ、計り知れない価値があるのだ。一度心と心で繋がった友情は、国境や時間を超えて繋がり続ける。 
 日本で生活していると、グローバル人材という言葉を聞かない日はない。ではグローバル人材とは何か。私の知る限り、日本ではグローバル人材=語学力と単純に結びつける風潮があるように思う。確かに国際社会で活躍する上で語学力が重要であることは間違いない(例えば僕の場合、ネパール語を介せることのメリットは計り知れない)。しかし、語学力だけでは不十分である。私のこれまでの経験からグローバル人材になるために最も重要だと思うことは、世界の人と触れ合う時にその人と自分との差異を感じ取り、受け入れ、その上でその人を尊重できるようになるということだ。それが出来て初めて、相手の心に入り込み互いの気持ちを共有できるようになるのだと思う。 私を含め今回のツアーに参加した両国の学生は、このことを見事に体得出来ていた。そして今回の経験は参加者にとって、今後、国際協力ビジネス、政治、どの道に進むにしても大いに役立つだろうと信じている。
 私自身は、今回のツアーを通じ、企画者の観点でいくつかの改善点も見出したので、次回に向けて構想を練り直し、さらにレベルアップしたプロジェクト実現したいSNSで世界中の誰とでも情報交換できる今の時代だからこそ、世界で活躍することを志す多くの若者にこのツアーの存在を知らせ、参加してほしいと願っている。そして世界中の仲間と切磋琢磨しながら、よりよい世界を目指し自分たちにできるアクションを起こし続けいきたい。




2016年11月14日月曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (10) 北原咲希(東京家政大学こども学部1年)「私にできること」

「私にできること」

東京家政大学こども学部1年
北原 咲希


写真を見返すたび、心の奥がぎゅーっと締め付けられる。キラキラ笑顔の子どもたち、エネルギーに満ちた仲間たち、生を感じさせてくれた美しく荘厳な自然、クラクションの鳴り響く道路、目を背けたかったあの光景…。ネパールでは、当たり前に続いている日常であるのに、一つひとつが“思いで”に変わってしまうことが怖くてたまらない。
「私にできることってなんだろう」ネパールでも常日頃考え続けていたことだ。目の前にある、変えていかなければならない現実と、変わってほしくない現実とが入り混じり、結局、私は無力であり、自分にできることはないのかも知れない…。そんな結論に至ってしまっていた。
   そんな私を変えてくれたのが、村の子どもたちである。このツアーで唯一胸を張っていえるのが、誰よりも子どもたちと思いっきり遊んだということだ。この村の子どもたちの為に、自分だったら何ができるか。そんな苦しい問いと無力感から逃れ、全てを忘れたくて無我夢中で遊んだ。シャイな彼らが一瞬見せる笑顔と、賢そうな眉をクイッとあげて私を見つめる瞳がまた愛おしくて、時間と我を忘れ、一緒になりはしゃいだ。
  子どもたちの無邪気な笑顔を見つめているうちに、ふと気づいた。これでいいのかも知れないと。私は、「自分にできること」を支援という枠組みの中で、形式的な型にはめ込もうとしていた。正解なんてないのだとわかっているつもりであったが、無意識のうちに求めてしまっていた。答えがないことは、確かに辛いことだ。しかし、目の前の子どもを笑顔にできなくて、何の支援ができるのだろうと考えると、これこそが今の自分にとっての最高の支援の仕方であって、それが始まりなのだと思う。言語の違う子どもたちとどのようにコミュニケーションをとったらよいか悩んでいたが、一緒に同じ目線になって遊ぶことが、こんなにも言語の壁を越え、心の距離を縮め、お互い笑顔になれる魔法なのだということをも、彼らが教えてくれた。素敵な笑顔と、大切なことを教えてくれた子どもたちに、心から感謝したい。
 また、私はこのツアーで、幸運にもネパールのCBROCommunity Based Rehabilitation Organization)の施設を特別に見学させて頂ける機会を頂く事ができた。障がいをもつ子どもたちの通うDay care centerである。

    私は、大学で特別支援教育を学んでおり、途上国の障がい児教育に大変興味がある。しかし、途上国の障がい児支援を本やインターネットで探してみても、あまり情報はなく、どういう支援を行っているのかというよりは、障がい児・者の状況や、問題点が多く語られていた。なので支援団体や施設があっても実際にどのような人が関わり、支援や教育をしているのか全くわからなかった。
 今回施設に実際にお邪魔し、一番感じたことは、とにかく先生方があたたかい、ということだ。途上国の障がいを抱えている人に対しての周りの目線は、ひどいものである。そんな思い込みが脳裏に張り付いていたが、CBROの先生方は、一人ひとりの能力を把握し子どものしたい、やりたい、という主体性を尊重し、向き合っているように思えた。
 もちろん、全ての人が同じ考えではないし、支援の仕方や環境に問題点や改善点も見られたが、それ以上に、障がいをもつ子どもにかかわる人々のあたたかさを感じられたことが、実際にお邪魔させて頂けたからこそ感じられたことであると思う。これまで、脳裏にあったネパールのマイナスイメージが完全になくなり、希望に変わった。私が見たのは彼らの生活のほんの一部であるが、もっともっと関わり彼らの未来を一緒につくりたいと本気で思った。
最後に、これらの経験は、ただただ、「行きたい!」「分からないので、全て感じて見てきたい!」という私の思いに、関先生を始め、青年海外協力隊の隊員さんや元隊員の方、ネパールで実際に活動されていた方…多くの人がたくさんのアドバイスやサポートをして下さり、実現できたことである。初めての地で、不安なく充実した時間をすごせ、私のこれからの人生に、大きくつながるような学びを得られたことは、多くの方々の協力があってこそ経験できたことで、決して自分ひとりでは得られなかった。だからこそ、支えてくださった方々の思いを無駄にはしたくない。これらの学びを“思いで”にするのではなく「今、自分にできること」「これから自分がしていきたいこと」を常に考え行動し、繋げていけるように、これからも学びを深めていこう。

2016年11月12日土曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (9) 笹川千晶(上智大学総合人間科学部教育学科1年)「見つめる」

「見つめる」
                     
 上智大学総合人間科学部
                      教育学科
                    1年 笹川千晶

  今年の8月、約2週間、私はネパールスタディーツアーに参加した。ご縁があって今回のツアーに参加することとなったが、初めはネパールが地図上でどこに位置するのかさえ定かではなかった。だが、ネパールで過ごすうちにどんどんネパールに惹かれていった。何を得たのかときかれると、正直答えに困ってしまう。スタディーツアーだからといって、何かを得なければいけないという決まりなどはないと私は思う。ただ、そこに行って暮らすことで必ず自分にとって大切な「何か」は感じることができる。かの有名なサン•テグジュペリがいった、まさに、「本当に大切なことは、目には見えない」のだ。
 私がネパールで感じた大きなものは、「愛」と「豊かさ」だった。ネパールには、ものの充足ではない、なにか他の幸せの視点が存在しているのだと実感した。そのことについて、ネパールでの日々を振り返りながら、この場をかりて伝えたい。都会で育った私にとって異国すぎるその国は、私を常に「考える」人間にさせた。「幸せ」とは?「生きるとは」?「愛」とは?難題を突きつけられたときその答えはいつも、ネパールにあった。カトマンズは様々なものであふれ、立ち止まることさえ許されない。一瞬たりとも鳴り止まない車のクラクションはそこにあるすべてのものの指揮者のようで、私の思考を疲れさせるには十分すぎた。だが、同時に居心地の良さを感じた。複雑なものに溶け込むことに、自由を感じたのかもしれない。ネパール人メンバーとの共生にも戸惑った。異なる背景を持っている人とうまく折り合いを付けていけるだろうと思っていたが、価値観や文化の違いを前に無気力になってしまうことさえあった。そこから生じる問題を「文化の違い」と簡単にまとめてしまうことはできる。だが、それはあまりにも浅はかな考え方なのではないか、と実際に異文化の背景を持つ仲間と共生する中で実感した。人はそれぞれ違うのに、お互いの違いを享受することは苦手だったりする。それは人間である以上、様々な感情があるわけで、仕方のないことであるが、大切なのは、自分は相手に対して先入観やある決まった価値観を抱いているということの認識を前提にそれらの人と向き合うことだと思う。そうすることで、相手を受け入れる自分の中の袋に余裕を与えてあげられるのだ。そして、異なる部分ではなく、共通した部分また、差異から得られる新しいものさらに、相手の持つ良さや魅力に気づくことができるのだとツアーを通じて実感した。
 心が豊かなことは、気持ちが豊かなことである。東京の騒がしく、めまぐるしく、そして自分中心な街で生活をしていると、時の早さに追いつかなくなってしまうことがある。心の安らぎ、小さなことへの気遣い•感謝も気づかぬうちに消え去っていく。だからこそ、人は「豊かさ」を求め、外へ出るのかもしれない。少なくとも、私はそうだ。3日間ホームステイをしたマイダン村での日々は特に「豊かさ」に溢れていた。朝はニワトリと子どもたちの声で目が覚める。小さなドアを開けると、太陽の光と子どもたちの笑顔が真っ暗だった部屋を照らす。そして、お母さんが温かいバッファローのミルクとビスケットを届けに来てくれるのだ。それを食べたら、歯を磨きに、顔を洗いにいく。山の絶景を見渡せるその場所は私のお気に入りの場所だった。ついつい太陽に向かって伸びをしたくなる。植物になったみたいに。目を覚ましてからの時間をこれほどまでに味わい尽くせたのはいつぶりだろうかと思った。確かに村での生活は過酷であった。だが、それ以上に魅力的であり、美しかった。私のホームステイ先のお母さんは「愛することに理由はない。ただ、そうしたいと思っているからそうしているだけ」と言った。私たちは「愛」について考えるとき、どうしたら愛されるのかについて考える。「愛する」よりも「愛される」ことを望む。「愛する」ことは時に大きな辛さを背負い、時に負担になってしまうと私たちは知っているからだ。しかし、「ただ、そうしたいからそうしているだけだ」と素直に真っすぐに言ったお母さんの心に涙がでそうになった。私は「愛する」人になれているだろうか。
 このツアーで最も自分にとって大きかった出来事がある。それは、生きているブタの首を切ったことである。これを聞いた人は一体どう思うだろうか。残酷だと思うだろうか。たしかに、残酷である。生きているブタの首を自分の手で切って殺すなんて生きている中でするとは思っていなかった。だが、実際、私はなんの躊躇もなくそれをした。小さなナイフでブタの首をきったときのブタの悲鳴や感触や感覚は今でも鮮明に覚えている。生き物の「生」と「死」を自分の手で、目で感じ、見たのだ。これこそ、文明の格差だ。あまりにも、原始的なやり方だった。かわいそうと嘆く声もきこえるが、今日もどこかで私たち人間が生きるために動物が殺されているのだ。「生きるとは、こういうことなのだ」と痛いくらいに突きつけられ、考えさせられた。私がしたことは残酷だ。だが、あの頃の私にとっては必要な経験だった。自分の強さを知った。そして、弱さを知った。


 ネパールスタディーツアーを通して、人の温かさを知った。これ程までに最高のメンバーに恵まれている自分が幸せだった。どこまでも「愛」に満ちた人たちなのだ。そして、自分の無力さも知った。私は無力だ。ちっぽけだ。だが、こんな私にもできることがある。そう教えてくれたのもこのツアーだ。知らないことは怖いこと。だが、知らないことを知ろうしないことはもっと怖いことだ。この世界は無情で、自分らしさなど守りきれない、なんて生きづらい世界なのだろう、そう感じることもある。だが、そんな世界にも、見つめれば、たしかに「豊かさ」は存在しているのだ。だからこそ、私はそんな世界には負けず、強い私でいたい。そして、今の私がこれから歩く未来はきっと誇れるものにしたい。「真っすぐな幹に、美しい花は咲く。」そんな真っすぐな自分で在り、移ろいやすく、儚く、ささやかなものを捉え見つめることのできる、そんな豊かな心でいたい。本当に大切なものはその先にある、と私は思っている。

2016年11月10日木曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (8) 小笠原杏佳(上智大学総合グローバル学部1年) 「私は私でしかない」

「私は私でしかない

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科1年
小笠原杏佳



ネパールとタイでの暮らしは、毎日が驚きと発見の連続で、心臓が止まるくらいドキドキとワクワクでいっぱいだった。何をするにも自己判断で、自己責任そして、常に危険と隣り合わせだった。正直、私はこのスタディ・ツアーに参加して、明確に何が変わったかはわからない。だが学んだことは数え切れないほどある。
その中で最も大きな学びは「私は私でしかない」ことに気づけたことだ。そのことについて以下に述べる。

私には、小学生の頃から国際協力をしたいという夢がある。それを実現するために、留学、高校受験、大学受験、プロジェクトなど様々なことに挑戦してきた。だが「そもそも私はなぜ国際協力がしたいのか」という根本的な問いに自分で答えることができないでいた。また優柔不断で、周りの目を気にするし、自信がない自分が嫌いだった。そして、このままでは誰からも認めてもらえず、大切にしてもらえないと思い、変わりたかったし、変わらなければならないと思っていた。
今回のスタディ・ツアーを通して、私にとっての国際協力の意味を知りたかったし、これをきっかけにして自分の嫌いな部分を変えたかった。しかし、実際に参加して様々な経験をしたり、メンバーと交流したりしたが、国際協力することの意義は見出せすことはできなかったし、私自身が大きく変わったと感じることもなかった。この観点では、「分からないし、変わらない。」それが自分の出した答えだった。
一方で、自分は誰かの笑顔が大好きなこと、自分のことは嫌いではないこと、そして感謝すべきことがたくさんあること、に気づいた。また、今までは批判されたり、傷つけられたりしない「誰もが思う普通」でいることが最も良いと考えていたが、ネパールやタイでの様々な体験を通じ、誰もが思う普通など存在しないことに気づかされた。さらに、私たち人間には「自分には価値があり、特別な存在となり、認められたい、愛されたい」と思う自己承認欲求があるが、私にはその欲求が高いという新たな発見をした。
以上のことから、他人にどう思われるかを気にしすぎず、自分のやりたいと思うことをまっすぐに、全力で取り組んでいきたいと考えられるようになった。今の私には、自分の目標を実現させるのに必要な十分な知識や経験も、時間、資金も足りない。しかし、だからこそ自分には成長の伸びしろがあり、絶対にやってやる!というハングリー精神を強くもてるのだと考えている。正直、完璧だと思ったら、それ以上の成長はないと思うし、また、自分のやりたいことをはっきりと伝えなかったり、遠慮したりして謙虚になりすぎては何も変わらない。
人生はストーリー作り。これからは、やりたいと思ったことは、とりあえず挑戦し、成功したり失敗したり試行錯誤しながら必死に努力し、思わず手にとって読んでみたくなるようなページを日々作っていきたい。私は今回のスタディ・ツアーを通じ、これから生きていく上で大切なことに気づかされ、大切な仲間たちに出会うことができた。お世話になったすべての皆さんに心から感謝したい。





2016年11月9日水曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (7) 東未久(上智大学総合グローバル学部2年) 「私には何ができるのだろうか」

「私には何ができるのだろうか」

上智大学総合グローバル学部
                     総合グローバル学科2年                      東 未久



  はじめに、私は19年間生きていた中で、まだまだ知らない世界が広がって いるとしてもそれがどこまで続くのか、広さはどれくらいなのか全く想像がつかなかった。そんな小さな世界で生きてきた私にとって、今回のネパールは、 限りなく無限に世界を広げられ、綺麗なマイダン村の星空の下、同じ世界にこんなにも日常からかけ離れた素敵な世界が広がっているのかと心が踊り、身が 震えた。そんな15日間のネパールの旅を振り返るにあたり、私の心の中に強 く残ったことをこの場にて報告させてもらう。
  ネパールでは様々な場所に行ったが、中でも印象的だったのは、マイダン村であった。この場では語り尽くせないほどの、私にとっては衝撃的な世界がそこには広がっており、人々の生活、食事、学校、家、どれも実際に訪れてみなければ分からない想像もつかない世界であった。
 そんな土地で滞在をし始めて二日目、私たち日本人が鯉のぼりプロジェクトをしていた時ことである。絵の具の管理を担当し、屋外で手に絵の具をいっぱいつけていた私は、汚れた自分の手を見 つめ、「汚いから後で洗おう。」と考えていた。
 その時のこと、ふと私の手よりもはるかに小さな手が私の手の上に舞い降りてきてきた。そして私の名前を可愛い声で呼びながら、手を取り、その小さな手の小さな爪で私の手を掻きはじめたのである。少し痛くて、こそばゆい感覚に驚いたが、みるみるうちに私の手についた絵の具が取れていった。私の大きな 2 つの手に小さな手が8つもあり、取り合うように私の手を綺麗にしてくれ、反対に小さな爪には絵の具の汚れがついていく。私はされるがままその小さな手を見つめて、子供たち の手が動き回る感覚を感じていた。
  しばらくして小さな手の動きは止まり、私の手を撫でながら「beautiful」といって くれた。手を撫でられるという慣れない感覚にまたこそばかったが、青空の下、 私は自分の手を太陽の光にかざしてみた。ところどころに絵の具が残っており、 爪には土が詰まっている。日本では「洗ってきなさい」と言われる「汚い手」な のであろうが、子供たちが掻いてくれている感覚が抜けていない私の手は、普段の手よりもずっと綺麗に輝いて見えた。
  この子たちに私ができることは何であろうか。その時、初めて真剣に考え、答えを求めた。しかし、授業でも国際協力を学んできたはずなのに私にはすぐ思いつかなかった。国際協力というものは、私たち先進国といわれる国に住む人が途上国の人々に何かをしてあげるものだと考えていたが、今回のネパールでは、私が子ども達からしてもらってばかりであった。必ず何かをしてあげなければならないと強い思いに駆られたが、何をすべきなのか、何をしたらベス トなのか、全くわからなかった。もしかしたらそこに、正解はないのかもしれ ない。
  マイダン村から去った後、私のジーンズのポケットに子供たちにプレゼントとして持って行った風船が3枚渡しそびれて入っていた。もしこの風船 を渡せたら3人の子ども達に楽しみを与えられたかもしれない。しかし、渡しそびれた風船はその役目を果たせず、私のポケットの中でゴミとなってしまっ た。その3枚の風船をみて、私には何ができるのだろうか考え続けたが答えはそう簡単には見つかりそうになかった。だからこそ、私はこれからも学んでいかなければならないことがたくさんあり、学ぶことができ、考え続けられるのであろう。もしかしたら、そのことが子ども達の幸せを考える上で、国際協力 を学ぶ上で一番大切なものかもしれないと思った。 

2016年11月8日火曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (6) 阿部充紘(上智大学総合グローバル学部2年)「求めよさらば与えられん」 

「求めよさらば与えられん」

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科2年
 阿部 充紘



 ネパールで何をしたのか。報告書という時、そこに書くべきものは僕自身にあったのか。考えた結果なし。
 たった2回目の渡航にもかかわらず、一歩引いたところでメンバーを支えていようといき過ぎた経験者面をした私は、そこで起こる事にただ浸り、流された。私の姿勢は、「そこにネパールがある。ネパールの文化や世界観があり、ネパール人がいる。」それだけだった。どの瞬間にも、新しく刺激的なものがあるのにそれらは自分からは隔絶された世界の中にある玩具でしかなかったのだろう。
そしてこうしてネパールでの経験を振り返ると、今年のネパールで何も出来なかったことを知り愕然とする。それはきっと上述のように私の虚栄心によって作り出された、いき過ぎた経験者面によるものだろう。一歩引くあまり、そこにあるリアルを食べて自分の血肉とすることをしなかった。
 このスタディツアーはなんだったのだろう。もちろんリーダーを任された私はその役目に対する自らの未熟さ、一方である程度の手応え、それらが今後の課題となっていること、幸福と発展の意味についての考察、自らの生活への懐疑などを得ることはできた。つまり全くの手ぶらで帰ってきたわけではないが、それでもなおネパールでのあの十日間を思い出すたびに掴み所のない虚無感?迷い?恐怖?のような感情が自分の中を曇らせるのを感じていた。
 私は特別な何かを望んでいたようだ。それも「自分の価値観を変えてくれるような壮大な何かをネパールという刺激に満ちた世界なら無条件に与えてくれる」と、無意識のうちに考えていたようなのだ。いき過ぎた経験者面をして目の前で起こっている出来事の味だけを確かめて吐き出していた。全く馬鹿馬鹿しいだろう。自分を大きく変えるまでのものが空からポっと落ちてくるはずもないのだ。
 「求めよさらば与えられん」という言葉があるが、全くその通りだと思う。求めるとはこの場合ただ指をくわえて待つのではなく、自ら進んでいくことを言う。自ら進んでいかなければ欲しいものは手に入らないのだ。
 やや逆説的だがこのことを考えてみると、このスタディツアーでは何も学ばなかったということから学べたのだろう。這いつくばって、しがみついて、悩んで、そうして欲しいものは手に入るのだろう。そうして目の前の出来事から何かが得られるのだろう。八月の私はかなり怠け者だったようだ。
 そうしてみると私が欲するその漠然とした何かはきっと日本のそこら中に転がっているのかもしれない。「求める」かどうか。

 また、ネパールに渡ってみようと思う。その時は本当に「求めて」みようと思う。

2016年11月7日月曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (5) 中村渚(上智大学総合グローバル学部2年) ~ネパールという地で~

          ~ネパールという地で~


上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科2年
中村渚


"Dhanyabaad."
「ありがとう」を意味するこのネパール語は、今でも私の口から無意識のうちに出てしまう。それくらい強烈な印象を与えた約2週間のスタディーツアーを通して、自分が何を学び、考え、感じたのかということを、正確かつ自分の言葉で人に伝えることがいかに難しいことかをひしひしと感じる日々を過ごした。今回のツアーのテーマは学生交流。ネパールと日本の学生が10日間共に過ごす中で、異文化理解や同世代の横のつながりを大切にしていくことが最終目標であった。私にとっては初めてのアジア。海に囲まれた島国の日本とは異なり、山に囲まれた内陸の国ネパールで、自分の目で見たこと、自分の鼻で嗅いだもの、自分の口で味わったもの、自分の耳で聞いたこと、自分の手で触ったもの、その全てがネパールでどれもが私にとって初めての連続だった。「人間が人間らしくいられる場所」と言うには大げさにしても、私にとってはまさに非日常の日々であったことは事実である。このレポートではそのいくつかを紹介したい。
まず、なんといってもネパールの街。これは、どの街に行ってもそれぞれ異なる魅力に溢れていた。ネパール到着直後に滞在した首都のカトマンズは、日本にいては体験することがないであろうほどの吹き荒れる砂ぼこりと、脳裏にこびりつくくらいの鳴り響くクラクションの音に包まれた街だった。建物同士も近く、まさに「ごちゃごちゃ」という言葉がぴったりな場所だった。一方で、ネパールでも特にオリジナルなライフスタイルが人々の生活に今なお息づいているマイダン村では、日の出とともに活動し日の沈みとともに休まるという生活を送っていた。村の長老たちのおしゃべりや家畜の鶏の鳴き声で目覚め、外に出ると、寝起きの体をキーンと包み込む朝のさわやかな風と太陽の光に包まれるだけで心が豊かになっていくのを感じた。そして街全体をゆっくりと時間が流れているポカラでは、映画のセットのようなハイカラな雰囲気を醸し出している店や雄大なヒマラヤ山脈を一望できるスタンドなど、個人的に最も好きな街だった。目の前に広がるヒマラヤ山脈を一望しながらのサンライズは、まさに格別だった。島国に生まれ、海から名前の由来を受け継ぎ、両親の影響でマリンスポーツばかりやっている私にとって、普段から山に行く機会が少なかったため今まで山に対しての興味がさほど湧いていなかったが、今回生まれて初めて雄大なヒマラヤ山脈を目の前にして、なにか話しかけたくなるような、自分が心から相談したくなる兄のような存在に思えた。毎回海に行ったときは波の音を聞いて心を落ち着けて物事の整理をしているが、山に対して前述のような気持ちに自然となれたことには自分でも驚きだった。

日本では忙しさに駆られて過ごす日々。自分が思う「素の生活」をこのツアーの中で過ごせていた。個性的な雰囲気を持つ街、と普段では気づくことができないかもしれない自然への感情を発見できたネパールという場所は、そこに行くたびに自分に何かを問いかける、もしくはヒントを見つけられる場所となるかもしれない。目に見えない小さな幸せを、心から喜び愛おしいと思える日々を過ごせた今回のスタディーツアー。きっとここでの経験はこれからの私の生活の中で、ふとその時の自分に何かしらのサインとなるものになるであろう。そう気づいた瞬間が、今回得た学びが活かされたことを意味するのかもしれない。

2016年11月6日日曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (4) 志牟田まりな(上智大学総合グローバル学部2年)「ネパールがもたらしてくれた出会いと幸せ」

「ネパールがもたらしてくれた出会いと幸せ」               


上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科二年

志牟田まりな
  
  
  
  何が決め手かわからないけれど、NJEPへの参加を決めたのは私の人生において大きな 成功の一つになったことは間違いない。私は周りの参加者のように途上国に対する意識が高いわけでもなく、国際協力にも無縁な私だったので、特別な目的意識を持っていたわけではな かったが、ここでの 10 日間は実に濃かった。もともと私は人と関わることが大好きな人間 なため、今回のメインが国際交流であったことはとても参加しやすい要因だった。人との関わり、またネパールでの10日間が私の心にもたらしてくれたものは今の私の考え方や生 活に影響を与えている。 
 ネパールでの 10 日間、多くの人や景色など様々な出会いがあった。シャムロック学校、マイ ダンの村の子供たちをはじめ、ポカラにステイしていたバックパッカーの人々、もちろん NJEP メンバーの全員。彼らの笑顔は底知れぬ美しさで、温かくて私に本当の「幸せ」とは 何かをつくづく考えさせた。これについては、またあとで触れる。そして、はじめて自然の偉大さを本当に感じさせてくれたヒマラヤ山脈やバス移動の窓の向こう側に見える山々や夕焼けなど、多くの自然との出会いがネパールにあった。これらは日本でも感じられることなのかもしれない。しかし、生活を朝から晩まで共にしている仲間と不安や期待の繰り返しの日々の中で、「完全ではないネパール」だったからこそ、物理的な豊かさ以外のところに目が行き、感動する心 が敏感になり、その美しさも日本にいるとき以上に濃い感動に結びついていたのだと思う。  
 先述したが、NJEP メンバーでもよく話し合う「幸せ」について。人間は死ぬまで「幸せ」 を求めて生きていく。決してこれが絶対に幸せなんだ!!と述べるつもりはないし、様々な 見識や経験を積むことで考え方も変化していくものだと思う。しかし、幸運なことに、私はたった 10 日間 ではあるが、「幸」について毎日考える機会をネパールで得た。OK バジさんの言葉を借りれば、「無いものに目を向け始めると、不足に対して文句を言うようになり、幸福感が薄れる」ということを身を持って感じた。「足るを知る」という言葉があるが、まさに私は我々日本人のような先進国に住む人々において薄れている感覚をネパールで自分の中に落とし込めたと思う。 「自然がこの地球にもたらしてくれる一瞬一瞬の美しさに敏感になり、それを体と心で目いっぱい感じること(大袈裟ではなく)。 」また、「 自分のいるコミュニティや毎日訪れる出会いに対して感謝の気持ちと幸せを感じること。」挙げればきりがないが、この2つの感覚を自分の中で大切にするようになったことで、物事をものすごくシンプルに捉えられるようになり、自分の気持ちにより一層向き合えるようになった。もちろん複雑な問題は山ほどあるが、自分の身の回りで起きている1つ1つの小さなことへの感動や感謝ができるようになり、自分の生活がさらに明るくなった。この感覚を覚えたとき、私はなん だかぞっとしたのを覚えている。この感覚を薄れさせたくない。  
 綺麗なものや便利なものばかりを追い求めるのではなく、そこら中に溢れているようで少ない人間くささ、人としてのアツさが自分は大好きなんだということを知れた。そして、そこからあふれ出てくる真の楽しさや仲間と共に生み出す「心に残る幸せ」「心の底から湧き出てくる幸せ」を大切に、自分の近い目標とその先にある目標のためにさらなる体験をす るべく、自分から一歩踏み出していきたい、今回 NJEP に参加したように。そのように日々 過ごしていった結果、気づいたら、人として女性として成長していたらいいなと思う。こう思えたのもこのツアーのおかげだ。ここで出会えたすべての人に感謝してもしきれない。
 来年の春には、ラオスにて職業技術教育の分野でのフィールドワークが決定している。NJEP と はまた一味違った刺激を求めて行ってきます!!

2016年11月5日土曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (3) 奥山りつ(立命館大学国際関係学部2年)「文明と心の豊かさの綱引き」

「文明と心の豊かさの綱引き」

立命館大学国際関係学部2年
奥山りつ

 本レポートでは、ネパールツアーから二か月経った今、一番頭の中に鮮明に残っているツアー中盤で訪れたマイダン村での3日間のホームステイでの自分の中の「幸せ」の認識の変化について記したい。
 マイダン村にはお風呂はもちろんシャワーはなく、トイレは何軒かで共有していた。それに加え、動物のフンがそこら辺中に落ちていたりしてお世辞にも衛生的とは言えなかった。ではなぜそんな場所にいて幸せを感じたのか。それは夜日が暮れると家に帰り、朝は鶏の鳴き声で起きるといったように自然と同居して暮らすといういわゆる原始的な生活に自分が癒されていたからだ。村の中で生活している限り、多くの部分は物々交換で賄える点や、家畜を屠殺した際も血や気管に至るまで無駄にすることなく食べ尽くし、村中に均等に配分する点で、金銭ではなく、生死のサイクル・人の繋がりがよく活用されているのを実感した。
 普段日本でかなり恵まれた生活を送っている私にとって、もしくはカトマンズやその他の都市で大学まで通って教育を受けているネパールメンバーにとっては、このような村での生活は十分非日常だといえる。私に限らず、このような非日常には多くの人が魅力を感じるだろう。ではその魅力を感じる心の根底にあるものは何なのか。マイダン村での生活に惹かれるのには、自分の日本での生活への不信や疑問が少なからずある。物質的な豊かさに恵まれ、さほど苦労せずに育ってきた私にとって、思い描く「幸せ」な生活の送り方は一つの決まったモデルがあった。しかし、その生活を実践しているにも関わらず、どうも精神的に満たされておらず、常に時間と追いかけっこしているような感覚に陥って焦っている。そこで全く違った環境に身を置いてみると案外精神的に安心している自分に気づいたのだった。疑いもしなかった自分の「幸せ」な生活のモデルが必ずしも絶対的なものではないということを自覚した瞬間だった。自分で自分を一つのモデルに縛り付け、気づかないうちにそれ以上考えるのを放棄していたのだった。
 私はネパール行きを決めた際に、この村でのステイを心待ちにしていたが、その理由を自分でもはっきりとは理解できなかった。今振り返ると、マイダン村には日本での生活では得られない癒しの要素が存在していたのだった。1つには、住んでいる人達の温かさだった。現地の言葉を理解できない私に対して、伝わらずとも話しかけ、挨拶してくれる村人たちは無条件によそ者の私たちを受け入れてくれただけでなく、おもてなしの精神に溢れていた。2つ目に、連絡取ることが全くできないことが大きかった。いつもアイフォンを持ち歩いていることで少なからず意識がそちらに向いていたが、マイダン村にいる間は全く使うことができず、鎖から解き放たれたような気持ちになっていた。つまり、自分が図らずも享受している物質的な幸せから一旦距離を置き、違った生活様式を持つコミュニティに飛び込んでしまうことで、その贅沢から一時的に解放され、実は自分もそれを切に望んでいることに気づく機会を得たのだ。
 これはOK Bajiさんの言葉を借りれば、文明と心の豊かさの綱引きといえる。物質的に豊かすぎると、ない方に不満を感じることが多くなりがちになる。一方で、小さいことに幸せを感じることができると幸せを感じる回数が自然に多くなるために幸せな気持ちでいる間が長くなるという話だ。これは実際にマイダン村滞在のあとに訪れた他の町のホテルでシャワーや洋式のトイレがあることに対してメンバーの何人もがとても幸せな気持ちになったことからもわかる。
 ただ、私が幸せだけを感じることができたのは、あくまでも3日という短期間であったからという可能性もある。山奥の村ならではの問題点が数多くあった。警察も病院もなく、一度けがなどしようものなら何時間もかけて山間の道をゆっくり進んでいくしかないという不便さは、心の豊かさがどうこうで済まされる話ではない。
 おそらく日本での生活に慣れ親しんだ私が、こうした「非日常」を「日常」にするのは容易なことではない。大切なのは、彼らの「日常」をこちら側の視点で勝手に「非日常」にしてしまうのではなく、「日常」の延長線上で心の豊かさを失わずに彼らの目線で発展していくことだ。



2016年11月4日金曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (2) 蓑島周(上智大学総合グローバル学部1年)「異文化交流の先にある、わたし」

「異文化交流の先にある、わたし」
                            
上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科一年
蓑島周


やりきれなかった。そしてやりきった。二つの思いが今も私を取り巻いている。次々と現れる困難を乗り切れるか否かは、きっとほとんどがそこに至るまでの準備で決まるのだな、と思った。
最初にそう感じたのはネパール人との会話においてである。日本人の中には日常会話程度なら難なくできる者もいたが、海外旅行経験さえなかった私は、拙い英語と大袈裟なボディランゲージでおどけることしかできなかった。どうやって気の許せる仲をつくることができるか考えた結果であった。ネパールメンバーは優しく応対してくれたし、自身も安堵感があったが、実のところは満足できていなかった。異文化交流において本当に相手を理解するためには、お互いの政治や経済、ひいては関心の深い分野まで話をするべきだと考えていたために、そのレベルの交流ができるだけの準備をしなかったことを悔やんでいた。
 ツアー全体を通してもそうであった。私はツアー全体の活動日程や構成、さらには現地の情勢等の情報さえ把握しようとせず、期待に胸を膨らませた状態でネパールへと渡った。結果は一目瞭然。ポカラで記者会見が開かれた際には、緊急に代表が不在となった私たちは満足に質問に答えることができず、おそらくほとんどの記者にはNJEPの活動意義を伝えきれずに終わってしまったように思えた。私はNJEPの一員であるにもかかわらず、どこかで他人任せにしていたのである。
そんな私にも良い出来事があった。首都から車で一日半かけ山の上にあるマエダン村に行き、村唯一の小さな学校に訪れると、そこには村中の人々が集まっていた。話しかけると照れてしまうシャイさを持つ、なんとも可愛らしい子供や大人がそこにはいた。言葉が通じない彼らと仲良くなりたい一心で、私はこれ以上ないほどにふざけた。思いつく遊びをとことん導入し、近づく私を嫌がる子供を容赦なく追いかけていく。後先も考えず全力でぶつかったことが功を奏し、のちに村人は私を「スー」と呼ぶようになった。なんだか認められたような気がして、素直に嬉しかった。それが“小便”を意味すると気づいたのは次の日だったが。
しかし仲良くなってしまえばこっちのもので、それから三日間は私が何もしなくとも向こうから寄ってきて、自然豊かな村を案内してくれるようになった。こんなところがあるよと、目をキラキラさせて寄ってくる彼らが愛おしくてたまらなかった。そして私は、こういう場所で子供と触れ合う時間が私にとって真の幸せなのかもしれないと思うようになった。今では子供と関わることまで視野に入れ、将来を見据えるようになった。

 ネパールという異土で五感を通して学んだこと、感じたことは、心の内に秘め、先の人生に生かしていかねばならない。そして失敗は、二度と繰り返してはならない。そのためには自覚と覚悟をもった“準備の鬼”になることが必至である。そしてそう気づかせてくれた仲間たちに心から感謝したい。

2016年11月3日木曜日

ネパール NJEP 2016 報告書 (1)  田中和磨 (埼玉県立本庄東高校2年) 「またネパールへ⾏く」


「またネパールへ⾏く」

 埼玉県立本庄東高校2年 
田中 和磨

  
マイダン村の子どもたちと
   現地での2週間は、私に『またネパールへ⾏く』という決意を固めさせてくれ る経験だった。それは、⼼温まる体験、考え⽅についての⼤事な発⾒、得たいことを得きれなかった不完全燃焼による決意だ。
 まず、不完全燃焼である理由は、⾔語と期間だ。ネパール⼈メンバーとの英語 での会話で、⾔われることを全ては分からなかったので当然⾃分の考えを表現 しきれなかった。だから、彼らが伝えてくれるリアルなネパールの⼈々の慣習や ⽂化を理解しきれなかった。また、異⽂化同⼠の会話で⽣まれるであろう、新た な考えも少なかった。英語だけでなくネパール語もだ。メンバー以外のネパール ⼈との関わりの中で得たいことがあるなら、現地の⾔葉を知らないと気持ちま では分からないからだ。さらに、そうした気持ちまで理解したいなら、かなりの 期間も必要だと感じた。現地の⼈々との関係を少しでも密にしながらでないと、 良いことも悪いことも本質は⾒えてこないと思う。ただ事前にいくつものネパ ール語の表現を覚えたこと、英語が分からなければ別の表現を求めて分からな いふりをしなかったことで、⾯⽩い発⾒や良い関係作りに繋がったのは良かっ た。そうした経験から次回はネパール語をある程度学んでから、もっと⻑い滞在 をしようと思うし、これからは必須の英語については、⾃分なりに努⼒していく。
 話は変わるが村では⼤きな発⾒があった。というより、これは違うのではない かと思っていたことが、やはり違ったと⾔ったほうが正しいかもしれないそれ は、。⽇本の⼈々からすると村の⼈たちは”恵まれない”と⾔う部類に判断されて しまうことだ。この考え⽅は⾃分の中にある意識や数値などで全く知らないこ とを結論付けてしまうことから起きると思う。私は村の⽅々と過ごし、幸せであ ろう部分をたくさん⾒つけた。確かに、直接お互いが分かる⾔語で話せなかった 分、潜在的な問題は発⾒できなかったかもしれないが、安易に恵まれないと⾔え るわけではないと感じた。街を歩けば他国の⽅がいる今の世の中では、⼀度⾃分 の価値観や基準を疑ってみることが⼤事だと思う。そこから新たな考えが⽣ま れてくるだろう。そう思える経験だった。
 最後に1つエピソードがある。⾃分はメンバーの中で唯⼀怪我をし病院へ⾏っ た。しかし、この怪我は⼤事な怪我だった。結論から⾔うと、ネパールメンバー との距離を縮めることができたのだ。  海外で初めての病院であり、⾻折かもしれないという不安もあった。 (結局⾁離 れだった)。そんな私に、付き添ってくれたネパールメンバーたちが『何も⼼配 するな俺たちがついてる』と何度も⾔ってくれた。ネパールでは終始、仲の良い⼈を家族のように扱う温かさを感じていた。ここでも、彼らのおかげで安⼼でき た。また、⽇本⼈、ネパール⼈メンバーの中で最年少だった⾃分は完全には⼼の 距離を縮めることが出来ないでいたが、それ以来ネパールメンバーとより多く の会話をした。
NJEPのメンバーたち
現地で『経験が⼈を⼤⼈にする』と⾔われたことがあったが、まさしくネパー ルでのすべての経験が私を成⻑させてくれた。この最⾼の経験が様々な形で最 ⾼の結果を⽣むように⾏動していこうと思う。すでに学校ではプレゼンをした。 さらにこれから新たな経験へと向かい、いつか社会に、⼈に影響を与えられるよ う努⼒したい。

2016年10月31日月曜日

ベトナムVJYE 2016 報告書(15) 吉田梨乃 (上智大学総合グローバル学部1年)「異文化交流で学んだ大切なこと」

「異文化交流で学んだ大切なこと」

上智大学総合グローバル学部1年
吉田梨乃


 タンソンニャット空港で日本人学生メンバーの登場を待つこと4時間。私の心は、疲労感ではなく、期待感でいっぱいだった。日本人メンバーの中でわたしは唯一、東京経済大学の学生ではない上に、彼らとの活動歴が少なかったせいか日本で仲良くなる機会を作ることがなかなかできなかった。もちろん、溶け込めるか不安で仕方なかったわけだが、緊張感はあまりなかった。むしろ、これから始まる2週間のプログラムで日本人・ベトナム人を含め、どれだけの多くの人たちに出会えるのか、私自身楽しみでならなかった。空港で感じた期待感は、新しい出会いへの楽しみが疲労や緊張を勝った結果、そのものであった。
 私は8月のAAEE、アジア教育交流研究機構主催の学生交流プログラムに参加していたため、早くからホーチミンに駐在していた。そのため、プログラム前からベトナム人学生メンバーと会う機会を設けることができ、早くから交流し、親睦を深めることができた。今回の9月のVJYE研修での私の役割は参加者であると同時に、日本メンバーをサポートすることであった。そのために、早くからベトナム人学生メンバーとプログラムの準備に関しての打ち合わせをしたり、どうしたらより円滑に日本人・ベトナム人学生がお互いに交流することができるかについての策を考えたりなど。私自身、多くのベトナムメンバーが優しくそしてフレンドリーに接してくれたことを本当に嬉しく感じた。本稿では、異文化の人と交流を通じて学んだ大切なことを自身の経験談を通じて気づき、学んだことを記すと同時に、ベトナムゼミ研修の活動報告としたいと思う。
第一に、私が学んだのは「笑顔の大切さ」である。笑顔は世界共通だ、そんな言葉がグローバル化における現代ではよく飛び交っているが、このプログラムが始まる前は、実は私はただの辛気臭い言葉と思い、全く信じていなかった。幼い頃から、インターナショナルスクールで英語を学んできた身として、英語ができなければ異文化の人と対話することは不可能であると信じていて、むしろ今まで最も重視してきたものは、英語力がどれだけ秀でているか、それだけであった。しかし、私は今回のVJYE研修でどんなに英語ができていても、笑顔がなければ異文化交流はうまくいくものではないと思い知ったのである。
実を言えば、私は昔から夜更かしが好きな上に、早寝早起きが大の苦手で、さらに表情が硬く、第一印象はいつも「怖そう」「話しかけにくそう」とマイナスなイメージしか抱かれたことがなかった。そのため、どんなに英語を話すことができようとも、積極的に外国人から話しかけられたことは今まであまり体験してきたことがなく、日本人だけに限らず、外国人にでさえ、怖がれることがほとんどであった。もちろん、そのことを自分でもよく理解していたので、私はベトナム人学生と交流する際、徹底していつでもどんな時でも笑顔で親しみやすい人でいるようにした。そうすれば、得意とする英語を存分に使う機会が増えるし、サポーターとしてプログラムを作るベトナムの学生と気持ちよくコミュニケーションが取れなければ役割を担うことなど到底無理だと考えたからだ。
さらに言えば、朝起きるのが苦手な私は、夜更かしをやめ、しっかりと睡眠と食事をとることで笑顔を作りやすいように努めてみた。すると、笑顔が増えた私に、気付いたらベトナムメンバーが話しかけてくれたり、親しみやすく気軽に声をかけてくれた。私は非常に単純なことだが、異文化交流をする際、英語の重要性の他に笑顔やどれだけ親しみを持ってもらえるように接するかが非常に大切になってくるのだということを身をもって学ぶことができた。少なくとも私が見る限り、多くの日本人は異文化交流を図る際、自らの英語力のなさに失望し、異文化交流には英語力がどんなに必要か思い知らされたと述べることがある。しかし、たとえ英語力がどんなに秀でていようと相手に自分とコミュニケーションをとりたいと感じさせる能力が足りない場合、異文化交流を気持ち良く進めることはとても困難になってしまうのである。もちろん、英語がしゃべれることは有利であるが、それはただの特権に過ぎず、むしろ英語力が秀でていなくとも、積極的に相手と笑顔で接し、気軽に話しかけやすい人である方が異文化交流において必要とされるのではないだろうか。



2016年10月30日日曜日

ベトナムVJYE 2016 報告書(14) 石井 侑登 (東京経済大学経済学部4年)「ベトナム研修を通じて新たに学んだこと」

「ベトナム研修を通じて新たに学んだこと」


東京経済大学経済学部4年
石井 侑登

私は昨年関ゼミ生としてネパール・タイでの海外研修へ参加し、水道も電気もほとんどない山村に滞在する中で「英語に限らず相手に通じる言語の大切さ」と「相手の文化を尊重し、理解しようとする姿勢の大切さ」を学びました。2週間という短期間でしたが、現地の学生と朝から晩まで行動を共にし、お互いの習慣や人格を尊重しながら交流を進めたことで、自身の異文化適応力を高めることができました。
今年のベトナム研修では、昨年学びえた上記のことを意識しながら交流をし、新たな気づきを得ました。
一つ目は、両国の学生たちがお互いの言語を教え合っていたことです。英語を介した交流がメインの本プログラムにおいては貴重な英語を話す時間が減少してしまいますが、お互いがお互いの言語に興味を持ち、さらにその知識を深めていこうとしている点では、異文化理解が出来ていたと思います。相手の言語を覚える際には、「ありがとう」や「こんにちは」などのありきたりな言葉も重要ですが、それよりも大切だと感じたのは相手が思わず笑ってしまうような言葉を覚えることです。その笑いから英語での会話が続いたことがしばしばあったからです。例えば「僕すごくかっこいいけど、さすがに知っていたよね?」。外国人が片言でこんなこと言ってきたら面白いですよね。
二つ目は、自分から話題を作り話しかける積極性が必要だということ。これは多文化交流に限ったことではありませんが、いくら英語が流暢な人でも発信しなければコミュニケーションはとれません。今回の私の反省点は、交流に関してやや消極的になってしまっていたことです。ベトナム人とも共有できるような話題を見つけることに苦労し、当初は自分から話しかけるということが他のメンバーと比べて少なかったです。それに2週間あればいずれ自然と打ち解けていくだろうと心のどこかで思っていました。話す人とは話しますが、話さない人とはあまり話さないという状態のままプログラムの折り返しに差し掛かったところで積極性の大切さを痛感しました。そこでなんとか話題を見つけようとして思い立ったのが、上記でも述べたように、面白いベトナム語を教えてもらい他のベトナム人メンバーに実践するということです。これは非常に効果的で、すぐに打ち解けることが出来ました。
三つ目は、ホーチミン市についてです。想像していた以上に高層ビルが多く、至る所で建設が進んでいました。地下鉄も数年以内に開通するそうです。日系企業も多く進出しており、今後さらなる経済発展が見込まれます。しかし、建設現場の労働者たちに着目した私は言葉を失いました。きらびやかに彩られた完成予想図の前で、それとは対照的に憔悴していた彼らは、顔や肌の色から推定し外国からの出稼ぎ労働者です。ここで事前に学習していたベトナムの経済格差を実感しました。今後はこの経済格差是正への取り組みも重要になってくると思います。私はセキュリティに興味があり、街中にいる数多くいる警備員に注目したり防犯カメラのタイプなど観察したりしていましたが、ホーチミン市を離れた村ではそのようなセキュリティをほとんど見ませんでした。セキュリティの需要について疑問を抱いたので、ベトナム人メンバーに通訳を依頼して村の家やお店に話を伺ったところ、セキュリティはあれば便利で助かるが、生活するのに精いっぱいで、導入するお金がないと答えてくれました。ここでも都市と地方間の経済格差を実感しました。
最後は、人のつながりの大切さです。研修期間中の自由行動時間を利用し、ベトナムに進出している日系企業のオフィスを訪問し、現地で勤務する日本人社員の方から貴重なお話を聞くことが出来ました。さらに同じベトナムオフィスで東京経済大学の卒業生が勤務しているとのことでその方を紹介してくださりました。そもそもベトナムで働く日本人社員の方を紹介してくださったのは、私がオーストラリア留学中に出会った方です。どこでどのような出会いがあるかわかりませんが、人との出会いは大切にしていきたいと改めて思いました。また、今回のベトナム人メンバーも今後私たちがベトナムについて知りたいことがあったときなどに協力してくれます。海外の情報は誰でもジャーナリストの記事から得ることが可能ですが、実際に現地に住んでいるネイティヴを友人に持つということは、より詳細な情報を得ることができ、特権です。

結論として、昨年のゼミ研修では発見しきれなかった新たな気づきを今回のゼミ研修を通して発見できたことで、多文化交流における自身の振る舞いや行動を見直すきっかけとなりました。私は10月からオーストラリアへ行きますが、この研修で学んだことを活かして異文化適応力をさらに高めていきたいと思います。

2016年10月29日土曜日

ベトナムVJYE 2016 報告書(13) 高橋 侑汰 (東京経済大学経済学部2年)

「“交流する”ということ」

東京経済大学経済学部2年
高橋 侑汰


今回、私は関昭典ゼミナールの一員として、VJYE2016 (Vietnam Japan Youth Exchange 2016)に参加しベトナム・ホーチミン市にて2週間、主に現地大学生との交流などの活動を行った。この研修は93日から同月16日まで行われた。
今回の研修は成田空港でのミーティングによりスタートした。ミーティングでは、到着後の予定、注意事項等を事細かに確認し、当ゼミ3年山田悠貴より編成された日替わりの責任者の発表もあった。日ごとに3人一組のユニットが組まれ、日替わり責任者の仕事内容は点呼、各場所を離れる際の忘れ物確認、翌日の責任者へ翌日程の情報伝達などというものだった。我々は成田にて万全の体制を整え、飛行機に搭乗したのであった。
機内では特別、研修についての話をすることはあまりなく、ゼミ生一人一人がリラックスし、それぞれの時間を過ごした。到着後に対面する学生たちに疲れた表情を見せないために、ということだった。機内で揺られることおよそ6時間、飛行機は無事、タンソンニャット国際空港に着陸し、我々はベトナムに到着した。
タンソンニャット空港にて初対面。まだ誰の名前も分からない。

空港を出ると、夜も更けて日付が変わっているにも関わらず、これから行動を共にするHoasen大学の学生メンバーがロータリーにて出迎えてくれた。そこで挨拶を交わし、彼らとバスでホテルへと向かった。まだ会話の少ないバスで不安と期待が交錯する中、およそ30分でホテルに到着した。私はホテルに到着し部屋に入るや否や、ベッドで眠りに入った。ここまで。まだ“交流”はさほどなされなかった。

朝起きてホテルで朝食を食べてからロビーへ降りると、現地学生メンバーが来ていた。彼らに案内され私たちは彼らの通うHoasen大学のビルに辿り着いた。そこで彼らは我々のために歓迎式を催してくれた。そこではまずメンバー全員が自己紹介をした。そして現地学生メンバーがパフォーマンスを披露してくれた。実は我々もパフォーマンスの準備をしていたため、そこで披露させていただいた。両方のパフォーマンスは共に自国の風土や伝統を表したものであった。“文化交流”がそこでは行われた。
その歓迎式の後、我々は現地学生メンバーとともにコーヒーショップに行き、茶話会が開かれた。そこで我々は初めて真面に“会話による交流”が行われた。その後全員にバディが発表され、バディが街を案内してくれた。その間私はバディとたくさん話をした。会って間もないので、趣味、国についての話、大学の話、将来の夢の話、アルバイトの話、家族の話など話題はたくさんあったので会話が詰まることはなかった。
ホーチミン市内で公園の清掃活動や別大学への訪問など様々な活動を終えた後、我々は910日より3日間を人里離れた小さなタライ村という村で過ごした。そこでは、現地学生メンバーと様々な活動を行った。中でも村内のごみ箱設置活動は印象的である。現地学生メンバーと4,5人のグループを組み、村に共用のごみ箱を設置した。その過程では現地学生メンバーと協力して完遂することができた。またそこで現地学生メンバーがとても真面目であるという印象を受けた。
タライ村での3日間で現地学生メンバーとの心の距離がすごく縮まったと実感したのは、タライ村を出てホーチミンのホテルに戻る際のバスの中である。それまではバスに乗る際は日本人学生とベトナム人学生が隣同士で席に座ることはほとんどなかったのだが、そのバスでは、日本人同士が隣同士にはならず、かつ車内が会話で賑わっていた。

タライ村にて撮影。意図せずとも服の色が揃ってしまう一体感

しかし別れというものは惜しい時にやってくるもので、タライ村からホーチミンに帰ってきてはすぐに帰国準備に追われ始めそのときはすぐにやってきた。最終日、空港に向かうバスの中、またそれ以前のホテルを出る際にも、別れの惜しさに涙を流してしまう学生も少なくはなかった。そこで私は改めて、この2週間で築いた現地学生メンバーとの親密さを実感した。搭乗時間ギリギリまで空港のロータリーで会話をした。ベトナムへの名残惜しさを感じる時間であった。
別れの時。「また会おう」と皆で誓い合った。
日本に帰国した今も、彼らとは連絡を取り続けており、メンバーの中には再度ベトナムへ行く、またベトナム人学生の中にも、来日を予定しているという者もいる。この研修で出会ったVJYEベトナム人メンバーは今後も良き友人として大切な存在になることは間違いない。


研修を終えて
今回の研修で私は“交流”というものについて考えさせられることが多かったと感じている。今まで“交流”というのは、いわば会話することであり、その手段でもって相手のことを知っていくことだと思い込んでいたが研修を終えた今、“交流”は単に会話で相手を知ることではなく、体験、実経験でもって相手のことを知っていく、また自分のことを知ってもらうことも“交流”のうちではないかと思っている。会話がなくても“交流”はできる、ということを思い知らされた研修であった。

最後に、この研修に参加する機会を与えてくださった関昭典先生をはじめ、大学関係者様方、家族等に感謝したいと思う。