2017年10月31日火曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 9月 報告書 (5) 吉野歩(東京経済大学経済学部国際経済学科3年)「また新たな自分へ」

Mero Sathi Project 2017 9月 報告書(5)

「また新たな自分へ」

東京経済大学 経済学部
国際経済学科3年
吉野 歩

 
 二週間におよぶネパールでの海外研修。たったの二週間だけだったがものすごく濃く、楽しくもあり、大変でもあり、喜怒哀楽全ての感情があった。様々な出来事を一気に経験しまるで一年間をぎゅっと二週間に凝縮したかのような密度の濃さであった。
私がこの研修中に感じたことはたくさんあり複雑で正直、自分でさえよくわからない部分もある。しかし確かなのは学んだこと数多くあること。本報告書では私がこれから生きていく上で特に大切だと思う学びについて述べていく。
 このネパールプログラムでは現地のメンバーと日本からの学生メンバー同士が一緒に活動していくわけだが、実際には、人間関係が複雑に絡み合っていくのを改めて痛感した。二週間という長さを四六時中、食事も寝床も仲間と共にするのは初めての経験だった。それだけ長い時間を共有すると仲良くなる分、相手の様々な面が見えてもくるのである。そして人には様々なタイプがあり、もちろん付き合いやすいタイプがいれば付き合いにくいタイプなどと合う、合わないがある。これは日本に居ても起こり得ることではあるが、国際交流の点で難しかったことはそれでも交流を続けなくてはいけないこと。それはもちろん、せっかく日本からネパールへ行き現地の人と交流できる貴重なチャンスをただ放棄してしまうだけではもったいない。そこでいかに自分が持っている力で人と関わることが出来るか発揮する場でもあった。
 その中でも私は「笑顔」を心がけた。これは初めてネパール人メンバーと会った時壁が打ち解け合うきっかけでもあったからだ。そして何より「笑顔」は万国共通であると知ったからだ。またここで感じたのは一緒にいようとチームで、団体で行動ができるようになるのが大切であること。一人わだかまりがあるからといって態度に示しては雰囲気を最悪にしてしまうこと。団体で活動していたからこそ改めて認識したことである。
 しかし、人と交流すること、特に国際交流は刺激をもらうことでもあり、自分自身を成長させてくれるものでもある。それは、村から別の村へ5時間かけて徒歩で向かった時のこと。私はあるネパール人メンバー一人と二人並んで歩いていた。長時間の移動だったので会話する時間が十分にあった。他愛もない話からだんだんと自分の夢、死ぬまでにやりたいこと、目標、など深い話をし始めた。彼女はこのプログラムだけでなくボランティアや支援活動などに参加し活発的、前向きそしてなにより周りに流されない自分自身を持っていた。私はどちらかといえば、相手に流されてしまうタイプなので憧れを抱いたと同時に、激励を受けた。
 あれもこれもやりたいと言った私に彼女は言った。
「JUST DO IT, 全部やってみればいいよ。人生一度きりなんだからやりたいと思ったことはやらなくちゃ!日本には私たちの国より、やりたいことができるチャンスがたくさんあるんだから!」
私ははっとした。彼女の言う通りだ。
 その通り、日本では彼女たちが暮らす国、ネパールに比べたらいろんな夢を現実にできるチャンスにありふれている。そのことをネパールに暮らすネパール人学生に言われて初めて気が付いた自分が情けなかった。
 自分の未来を切り開くチャンスがありふれている日本に居てそれを生かさないなんてもったいない。思い返してみれば、口だけでやってみたいことをいろいろと言っていたが、「忙しい」と自分の中で言い訳にして行動に移せないでいる時があった。「時間は作るもの」とよく耳にするが確かにその通りである。帰国後早速わたしは行動を起こした。あるボランティア活動に申し込んだ。今後もこのような積極的な姿勢で取り組みたい。あらゆることを経験して自分の成長に繋げたい。そうインスピレーションを与えてくれた素敵な仲間に出会えた。
 そしてこのプログラムでもっとも印象的だったのは貧困村でのホームステイ。これはメンバーの誰もが大きな衝撃を受けたであろう。確かにそこは想像を絶する場所で、不十分な電気、一日に二回のみの給水と決して便利な生活ではなかった。この様な場所に行くのは初めてでましてや今後訪問することもないかもしれない。まさに貴重な経験であった。
ネパールへ渡航する前、に関先生から、村では四日間ほどシャワーを浴びられないかもしれないと伺っていた。覚悟の上だったが運よく私のホームステイ先のホストファミリーは優しく、ゲストだからと言って、貴重な水を分けて二日ぶりにシャワーを浴びさせてくれた。久しぶりのシャワーそして期待よりも早く浴びられた嬉しさにネパールメンバーにそのことを話した。しかしそれは人を後々不愉快な思いをさせてしまう事になるとは思っていなかった。
 その時たまたま私とネパールメンバーとの会話を聞いていた日本メンバーは、「シャワーを浴びられていない人がたくさんいるのになんで自分は浴びるんだ」と私に言った。軽い気持ちで浴びた私はそんなことを直球に言われて驚いた。しかし後々自分の行動を考えみたら確かに、シャワーを浴びたいのに浴びられず我慢をしている側の立場からしてみればそれは腹立たしいことである。ここから私が学んだことは相手の状況・立場も考えること。今回の場合、みんながみんな同じ大変な思いをしている中自分は快楽をしてしまった。
 人を思うことはもちろん日本人のみならず何においても大切で異文化交流でも言えることだ。相手の立場になって考えれば、異文化を通じて感じる不愉快さも理解しようという気持ちになる。国際交流をする際、異文化は避けざるを得ない。でも一度、異文化への対応の仕方を学べば多面的な見方ができるようになる。その結果、視野が広がるだけでなく自分の心、そして人生そのものを豊にしてくれる。日本に留まっているだけじゃもったいない、もっと外の世界を知っている方がよっぽど面白い、そう気付かされた。
 私はやはり外国人や自分とは異なる経験をしている人々と交流できる環境にいることが好きである。このプログラムに参加しネパール人と活動して改めて自分は何が好きなのか、自分の「居場所」はどこなのかを知ることができた。さらに、自分ともじっくりと向き合えた研修でもあった。
 最後になるがこのような経験をさせてくれた、関 昭典先生をはじめコーディネーターの方々、支えてくれた両親、大学、そして苦楽を共有し一生忘れない思い出をくれた仲間、全員に感謝したい。

2017年10月28日土曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 9月 報告書 (3) 竹井 栄梨(東京経済大学経営学部2年)「ネパールプログラムを終えて」

Mero Sathi Project 2017 9月 報告書(3)
「ネパールプログラムを終えて」

東京経済大学
経営学部2年 竹井 栄梨

 2017年9月5日~9月18日までの約2週間、ネパール研修に参加した。大学入学当初は、まさか自分が発展途上国であるネパールを訪れることになるとは思ってもみなかった。 
 私が、この研修に参加することが決まったのは、関ゼミに所属するのが決まった4月だった。その直後はネパール研修が楽しみで、「自分が変われるチャンスになるのでは」と期待で胸がいっぱいだった。しかし、研修が近づくにつれ、ネパールという初めての地に行くこと、さらに他の関ゼミのメンバーに比べ英語力が乏しいことから、期待よりも不安の方が遥かに大きくなっていた。そんな不安の中で迎えた研修を終えて思うのは、ネパールでの2週間は毎日が発見と衝撃の連続で、とても充実した濃い時間だったということだ。本報告書では、二週間の中で感じたこと、考えたことを大きく2つに分けて述べていきたい。

1.伝えることの難しさ
 ネパールの空港についてマイクロバスでネパールメンバーが待つ場所に向かうとき、私は楽しみや期待でいっぱい!というわけではなく、不安な気持ちばかりであった。それは、自分の英語力の乏しさ、表現することの恥ずかしさをなかなか捨てることが出来ないのではないかと感じていたからである。自分の英語力の無さは、自分が一番わかっているつもりだった。自分はこのプログラムの本質であるネパールメンバーと日本メンバーとの交流という点において、英語がないと深く関わることができないと感じていた。
 私の予感は的中した。聞き取りなら少しはできるだろうと思っていたが、全く出来なかった。このプログラムでは、皆が英語を話せるということが当たり前の環境であった。しかし、自分はネパールのことを聞きたくても聞けない、英語力に自信がなくて話かけることすらできない、難しい質問をされても答えることが出来ないことで焦り、悔しさでいっぱいだった。英語を話すことが当たり前の環境にいたのに、私には、その「当たり前」のことが出来なかったのである。この研修において、英語を話す環境に身を置くという、「当たり前」を準備不足のままにしてしまった自己の責任である。これは、今回のプログラムでの重大な反省点である。コミュニケーションをとる上で一番大事なものは言語能力だということを、この研修で痛感した。
 一方、英語が思うように使うことが出来ず、どうしたらコミュニケーションがとれるのかと考えたとき、ダンスや歌は、コミュニケーションのツールとなるということを感じた。マイダン村やリンネハ村の学校で、関ゼミのメンバーがネパールの歌を覚えて歌い、みんなが手拍子をしてくれて皆が笑顔で包まれたときにそのことを感じた。1つの空間で歌を通して通じ合えたとき、「これもコミュニケーションのひとつだな」と感じた。
 関ゼミメンバーで毎晩集まりミーティングを開いた。その日、自分が気づいたこと、感じたことをメンバー同士で共有し、意見を言い合い、研修をより良いものにしていくためである。私は、自分の意見をまとめたり、明確に伝えたりすることが苦手である。自分の考えを伝えるときに、まとまっていない状態で発言したり、言いたいことを言い忘れたりするからである。言い終わった後に、こう言っておけばよかったと後悔することがほとんどだ。研修中も、自分なりに考えて意見を出していたつもりではいたが、思うようにまとまった意見が言えなかった。
 それに対し、関ゼミのメンバーは自分の考えや意見を伝えるのが得意な人が多いと感じる。彼らのように、自分の思ったこと、感じたことをその場でしっかり相手に伝えられるような人になりたいと目標を持つことが出来た。人よりも伝えることが苦手な自分に必要なことは、何か見たり、気づいたりしたときに人一倍それについて考えないといけないと思う。それを今後実践していきたい。ミーティングは、私の課題を明確にする上で大変貴重な場となった。

2.貧しさと幸せ
 途上国というと、「貧しさ」という言葉が思い浮かぶ。ネパールに着いて数日間は、確かにその言葉が当てはまっていると感じた。道は整備されてなく、信号もない。水も十分になく、電気も不規則に切れる。ストリートチルドレンを初めて見た。車の窓を叩いてお金をくれといってくる子どもたちもいた。私が少しのお金をあげたところでその子の生活はなにも変わらないという思いからの悲しさを感じた。自分はこういった途上国に何ができるのだろうと考えていた。
 しかし、マイダン村とリンネラハ村での4泊5日のホームステイと終え、そこには沢山の笑顔があることに気付いた。自分の家でヤギや鶏、農作物を育てる自給自足に近い生活を送っており、子どもたちも朝5時から起きて両親と共に働いていた。確かに、日本で暮らす私たちから見れば、「貧しい」のかもしれない。しかし、時間をあまり気にせず、自給自足の生活はお金に縛られた生活をする必要はないと考えることもできる。不安定な生活かもしれないが、決して「貧しい」とは一言で言い切ることはできないと思った。
 ネパールのメンバーは皆口を揃えて「私はネパールのことが大好きだ」と言っていたし、中には外国数か国を訪れてもなお、ネパールが一番好きだと言っている人もいた。仕事の時間でも家族とともに過ごせること、また、農村での生活ならではの近所や地域とのつながりの強さが、ネパールの人が口をそろえて言う「幸せ」につながっているのではないかと思う。私は、途上国は貧しいものと短絡的に捉えてしまっていたが、経済的な貧困と心の貧困を一概に同列に語ることはできないと感じた。それは、ネパールには沢山の笑顔、たくさんの幸せがあると感じたからである。ネパールが貧しいかどうか、それは私たちが決めることではない。

 最後に、この2週間のプログラムに参加することができて本当に良かったと感じている。自分の価値観を広げることができ、今後の課題も見つけることが出来た。なによりも大学生の今、このプログラムに参加できたことを心から嬉しく思う。関先生をはじめとするプログラムに関わっているすべての人、コーディネーター、ネパールメンバー、関ゼミメンバーに心から感謝を伝えたい。

2017年10月27日金曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 9月 報告書 (2) 周暁潔 CHEW SHEI JIENG(東京経済大学経済学部2年)「私が観察したネパール」

Mero Sathi Project 2017 9月 報告書(2)
「私が観察したネパール」
東京経済大学
経済学部2年生

周暁潔 CHEW SHEI JIENG

 
大学での初めての海外研修はネパールに行った。ネパールに行く前に、正直なところ、国についてあまり知識も馴染みもなく、具体的なイメージが湧かなかった。ただこの国に対して持っていた印象はアジアでも貧しい、不衛生な国ということだけである。
ネパールの首都カトマンズにある唯一の国際空港・トリンブバンに到着した時から、ストレスを感じ、後発開発途上国ということを実感した。ネパールの空港でビザを申請するのに自国の通貨・ネパール・ルピーを使えるのが当たり前と思ったが、使うことができなく、驚いた。ネパールのメンバーにインタビューしたところ、ネパールにとっては外貨収入が国の経済のために不可欠なのだそうだ。
  最初の数日間、目で見える日本との違いと言えば、道路も舗装されておらず、綺麗な水もない上に断水している場合も多く、貧乏な国ということばかりであった。ただし、ネパール人たちと交流してみると、意外にもネパールは文化的に非常に豊かに恵まれている国だと気がついた。こんなに精神的に豊かで可能性がある国に、何をすれば支援になるのだろうか。もし私がネパール人ならこの国をどんな国にしたいだろうか。

1. 教育について
   二週間の研修の間に、現地の学校を見学に行った。それ以来、ネパールの教育に強い関心を持った。残念ながら、ネパールでは、日本やマレーシアのように誰でもしっかりと教育を受けることができるということではない。子供達が、多くの原因により良い教育から遠ざけられていることは深刻な問題の一つだと思う。それには、親の経済状態、住んでいる地域、さらにはカーストなどの要因もある。
   マイダン村で出会ったある村民は、よりよい教育が生活の質を向上させると信じている。そして、自分の子供の将来を思い、良い教育を受けさせたいと考えている。しかし、自分の村では十分な収入が得られないため、外国のマレーシアに出稼ぎに行かなければならなかった。マレーシアで得る賃金は、マレーシア人にとってはとても低いが彼らにとっては大きな収入である。その賃金で子供の教育費用を負担できる上に家庭の支出も完全に支えることができる。しかし、村の中でも家族が海外に出稼ぎにいけない家庭がとても多く、その家庭の子どもは村の学校には行くことができるが、より質が高い教育を子どもに受けさせるための費用が負担できないのが現状である。つまり、私が言いたいのは、親と同じ教育のレベルでは、貧困は慢性化し、自分も家庭も国も豊かにならないということである。
  首都カトマンズは教育が普及している都市である。英語教育やパソコンを使った教育が盛んに行われている。しかし、そのような教育を行うのはカトマンズや地方の都市にある私立学校だけである。見学に行ったポカラの山の上の学校には、ほとんど全員の先生と学生達はパソコンを見たことがなかった。私はそのような教育格差は国の発展に深刻な影響を及ぼしていると思う。
教育格差とネパールのカースト制度の間に密接な関係があることも学んだ。カースト制度は1963年に撤廃されたものの、未だに社会通念として根強く残っており、日々の社会生活を支配している。具体的に言えば、カーストにより親の職業が限定されるために、親の収入の低い子供は学校に通えない場合が少なくない。私たちはネパールのコーディネータの求めに応じ、この学校の小学校にパソコンを寄付し、使い方も教える活動を行った。しかし、私はこの活動に大きな疑問を持った。果たして、この活動はネパールの教育格差の根本的な解決につながるのだろうか。寄付したパソコンは本当にその後皆の生活に役を立つか。よく考えたら、ネットも繋げない場所でパソコンがあっても、外の世界に関わられるわけもない。教育格差の問題はただ私たちの支援で解決できず、ネパールの政府が取り込まなければならない問題の一つであると強く感じた。
  ネパールの教育改善は二つ段階に分けて行うことが必要だと思う。まずは、第一段階は子供たちに教育の機会を保証することである。そして次の段階は、ネパールはもっと他の国々と足並みを揃えることが大切だと大人たち伝えることである。例えば、大人たち一人一人が衛生や清潔の概念がしっかりと身につければ、清潔な水を飲める設備の整備を強く求めるようになり、結果として生活を向上する。大人の意識を変えれば、子供たちの意識も自然と変わってくるはずだ。若者の考え方は、大人の古い考え方に縛られ自由な発想が制限されているような気がした。

2.  性差別について
ヒンドウー教の風習の一つであるチャウパディは、西ネパールに広く浸透した教えである。それは、生理中の女性を不浄であるとみなし、家族から追放する、生理期が終わるまで土牢に閉じ込める風習である。土牢は家の外にある家畜小屋や掘っ建て小屋、洞窟などで生活しなければならない。UN WOMENでの活動により、チャウパディについてのことを聞いて、不思議だと思った。そのチャウパディで体調悪いため死亡した女性は何人もいるのにも関わらず、神様に怒られないように廃止できない風習の一つである
  男女教育の機会不均等のことも問題の一つである。様々な考え方より、ネパールでは、女性教育不要論が根強いと明らかになっている。なぜなら、「女性は結婚して子供を生み、家事をすれば良い。教育は必要がない」という考えを持つ両親が多いからだ。多数の両親にとって、女児が結婚したら、結婚した相手の家族に送るものであると考えているという根深い理由で、女児より男児の方に投資することになる。女児に教育を受けさせない最もの原因は社会が女性の教育に経済開発効果を期待していないからだ。首都のカトマンズには人口が集中し、医療の供給も追いつかない状態だが、女性の医者は社会に信用を得ない場合もあると聞いた。性別により能力を認めないことさえあるそうだ。女性蔑視の思想が浸透していると思う。
私の住む日本でも、昔から今までも様々な性別差別の問題がある。ただネパールと違いは、日本がその問題を社会的に認知して男女格差も縮小するために、男女が共に活躍できる社会にするために一生懸命に対策を立てていることである。

結論として、ネパールは異文化との接触が限定されているために、今でも自分の民族の伝統を踏襲することを主眼としているように見えた。それももちろん大事なことではあるが、私の意見では、国の改善には教育が質を高めることが不可欠であり、教育を通じて世界中の知見や外の世界を学ばせることが重要であると考える。ネパールを発展するためにもちろん物質的な支援は必要であるが、ネパール人の視野を広げるための取り組みも必要であると思った。最後に、生まれた民族と個人の人生はイコールであってはいけないと思う。個人の人生は、その人の努力によりその人なりに変容していくべきである。



2017年10月25日水曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 9月 報告書 (1) 新井徳郎(東京経済大学経済学部3年)「それぞれの幸せ」

Mero Sathi Project 2017 9月 報告書(7)

「それぞれの幸せ」

東京経済大学 
経済学部3年 新井徳郎

2017年9月5日から18日の約2週間、私は関ゼミのネパール研修に参加した。この研修に参加を決めた理由はいくつかあるが、最大の理由はネパールという私にとって未知の国に実際に行ってみたかったからだ。実は私は去年もこの関ゼミの海外研修に参加していた。去年のベトナム研修では自己管理の甘さから、メインイベントの前夜に高熱を出し、そこから5日間入院する大失態を犯してしまった。病院での食事は朝昼晩おかゆで退院後も関先生の言いつけで帰国までおかゆのみ。結局ベトナムをほとんど楽しむことなく帰国してしまった。その反省を生かし、出発の一週間前から野菜中心の健康的な食生活に変え、さすがに2回目はないだろうと思いつつも、念のため風邪薬をバックにしまい万全の準備で研修当日を迎えた。
 今思えばこの研修は衝撃的で貴重な経験にあふれていた。屋根の上に積んだ荷物をむき出しで走る車、どこまでもまっすぐな道、体が浮くほどのでこぼこ道、車道を歩く牛など、何度心の中でツッコミを入れたかわからない。中でも最も印象に残っている光景は2つあった。
 まず一つ目は、女性が泣き叫びながら男性を病院に担ぎ込んでいる光景だ。私はネパール研修中、メインイベントの前日に二年連続で高熱を出してしまった。幸い一晩の入院で熱は下がり、翌日からのメインイベント(村でのホームステイ)に参加することはできたが、事件は病院の駐車場でタクシーに乗り込んだときに起こった。大きなアクセル音とともに左後部座席のドアの空いた車が病院の駐車場に入ってきた。停車すると、開けっ放しのドアから女性が泣き叫びながら出てきて、車内から人間の足を引っ張り始めた。すると車内からぐったりした男性と、その男性にくっついて芋ずる式に二人の男性が出てきて、運転手と3人で男性を病院まで担ぎ込んでいた。 
 その後の関先生の話では、ぐったりしていた男性は自殺したとのことだった。ネパールではただの熱や体調不良では病院には行かず、今回のように本当に大変な場合にしか病院には行かないそうだ。38度程度の熱で夜中に病院に行く自分の脆弱さと先進国と発展途上国の格差に罪悪感を感じた。その後ゼミ生たちと合流したが、自殺した男性と泣き叫んでいた女性のことが頭から離れなかった。自殺はネパールだけの問題ではなく、数字だけ見れば日本の自殺率はネパールの自殺率の三倍あると自分に言い聞かせ納得させようとしてもあの光景を忘れることができなかった。
 二つ目は、マイダン村の小学生たちの笑顔だ。退院の翌々日、丸一日の大移動を経て、私たち辺境の山奥にあるマイダン村という小さな村を訪れた。マイダン村はネパールの中でも相当に発展が遅く、英語を喋れる人はほとんどいなかった。プログラムでマイダン村の小学校を訪れ小学生と交流すると聞いた時は、言葉も通じないのに交流などできるのかと不安だった。しかし小学校に足を踏み入れ、気が付くと私は現地の小学生たちと追いかけっこをしていた。何がきっかけで始まったかわからない。彼らはこっちが追いかければ笑いながら逃げ、こっちが逃げれば笑いながら追いかける。時には小石やゴミなどを投げてくる何でもありのルールだったが、追いかけっこをしているときの彼らはずっと笑っていた。そしてその笑顔は心からの笑顔だと私は感じた。
 小学校からの帰り道、私は先ほどまで交流していた小学生の幸せそうな笑顔とは対極の、数日前の病院での出来事を思い出していた。深い悲しみの中にいる人がいれば、その一方で同じ瞬間に幸せそうに笑っている人もいる。これはネパールのことだけではないが、実際にその瞬間を目の当たりにすると、改めて幸せの大切さを考えさせられた。
悲しむ人を減らし、幸せを感じる人を増やすためにはどうすればいいのか。そんなことを考えた時、真っ先に思い浮かんだのはSDGsだ。SDGsとはSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)を略した言葉で、飢餓やジェンダー問題など世界中にある様々な問題を17種類のゴールにまとめ、その17個のゴールを2030年までに解決しようという世界的な試みである。しかし研修が進むにつれて、私はこのSDGsが本当に正しいものなのか疑問を持ち始めた。
 きっかけは地方都市ポカラの山の中腹に位置する、カーストの低いコミュニティの小学校を訪れたときである。交流が終わり、帰り際に一人の男子小学生に「あなたは毎日楽しいですか?」とネパール人学生を通して聞いてみた。すると彼は「楽しいです。」と答えた。彼は学校の近所に住んでおり、学校が終わると友達といつも遊びに行くそうだ。直接聞けたのはこの少年だけだが、ともに交流していたネパール人学生も毎日を楽しんでいると言っていた。私とネパール人学生とポカラの小学生では住んでいる環境もカーストも違う。しかし誰もが今を幸せだと言っていた。だとするならば、SDGsのように先進国が発展途上国をあらゆる面で支援し、先進国の環境に近づけることは本当に必要だろうか。
 確かに飢餓問題や貧困問題など必ず解決しなければならない問題も存在する。しかし逆にSDGsのすべての目標が達成されたてしまえばすべての国が先進国になり、地球が一つの国のようになってしまう気がする。そうなれば幸せや悲しみの捉え方は自ずと少なくなっていく。「先進国の人間だからそんなことが言える」と言われてしまえばそれまでだが、そんな世界より、自分が経験したことのない環境が無数に存在し、様々な感情や価値観を持った人間が共存し、様々な幸せが混在する世界の方が私は見てみたい。
 SDGsの17個の目標は先進国の人たちが、もしくは発展途上国の地位の高い人間の目線からの考える世界の幸せなのだと思う。私たち先進国に住む人間からすれば、例えばカーストによって生まれながらに優劣をつけられ、通学路は険しい山道、小学校なのにブランコや滑り台の遊具のひとつもない、そんな生活より母国での生活の方が幸せだと感じるかもしれない。しかしそれは先進国の人間にとっての幸せであって現地の人が望む幸せは他にあるかもしれない。誰かを支援するときには自分の価値観を相手に押し付けるのではなく、相手と同じ目線に立ち、その人にとって何が幸せなのか共に考える必要があることが大切だとこのネパール研修を通して学んだ。

2017年10月20日金曜日

ベトナム VJEP 2017 報告書 (10) 小池誠一(上智大学総合グローバル学部 1年)「ベトナムで得た様々な財産」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書 (10)

「ベトナムで得た様々な財産」

 上智大学総合グローバル学部1年 
小池誠一

 まずこの報告書の構成を、参加した理由、準備期間の出来事、その出来事についての反省、渡航前に個人で立てた目標とその振り返り、まとめ、に分けた。

 今回私がこのプログラムに参加した理由は本当に単純で、大学に入って最初の長い夏休みだからこそできる経験をしたい、という考えがあったからだ。今まで行ったことのない東南アジアの国であるベトナム。ただの旅行ではなく、ベトナムの大学生と交流ができる。これからの大学生活に生きるような充実した2週間。大学に入ったら今まで以上にいろんな機会に飛び込もうと入学する時に決めていたので、ほとんど迷わずに決めた。そして今は行ってみて本当に良かったと感じている。

 いよいよメンバーも揃い、4月下旬、VJEP日本メンバー10人がいるLINEのグループが作られた。始めにトーク上で自己紹介をした時、特別なにも考えずに適当に書いてしまった。のちのメンバーの自己紹介を見て、こんな自分で大丈夫だろうかという一抹の不安と、どのような人たちなのだろうという期待が混じっていたのをよく覚えている。おそらく全員がそうであろうが、このメンバーでベトナムに行くのだというイメージや実感はその時は皆無であった。しかし、初めて都合がつくメンバーでの顔合わせから事前合宿に至るまで、皆かなり積極的に意見を出していた。実際関先生も同じことをおっしゃっていた。この時期の準備段階では、ほぼ不安要素はなかった。事前のオリンピックセンターでの合宿で、パフォーマンスの曲、プレゼンテーションの大方の内容、劇の流れや配役、順調に色んなことが決まっていった。
 しかし帰国後に振り返ってみると、私たち一人一人がどれだけ決めたことに対して行動できるかということを、準備の段階で共有できていなかったことに気がついた。初めの方はいつ誰が何をどうやるかを決めるだけであったため、アイデアさえ出てくればあとは絞る作業で、この作業においては皆の力は十二分に発揮されていた。しかし実際に準備が本格的になってくると、コミット量に差が出始め、作業がスムーズに進まなかったりと、幾つも混乱が生じた。
 特に顕著に現れたのはプレゼンテーションと劇の準備である。双方に言えることは、人それぞれ忙しさは異なり、優先順位も異なるのは分かっていたのにも関わらず、自ら積極的に周りを見て準備をできたメンバーは少なかったということだ。各リーダーを含めてメンバー同士が、基本的な報告連絡相談が出来ていなかったことにより、色々なものが後回しになってしまった。このことが、特定のメンバーへの負担の増大に直結した。学生アシスタントの吉川先輩の助けなしではプレゼンテーションは完成しなかった。
 劇に関して言えば、最後の最後まで後回しになってしまい、せっかく準備の状況を整えていても、周りのメンバーが他のことで手一杯になっている状態であるため、劇のことを考えられない期間が長かった。結局、披露する当日の1時間弱のリハーサルで何とか揃えたが、クオリティの面では大きくベトナム側を下回っていたと思う。例えば劇の後のディスカッションである。日本メンバーで、劇の後にディスカッションがやりたいという要望をしたのにもかかわらずその下準備が一切できていないという状況になってしまった。
 これらすべての出来事を踏まえ、自分の気持ちは、事前合宿が終わって以降ずっと満足していることはなかった。常に何かしらで焦っていた。しかしその焦りに対して、自分が行動に移さずに放っておいたため、ここまで準備期間にうまく事が運ばない事態が起きたのではないかと考えている。考えてみれば、10人中6人が上智大学の綜合グローバル学部であり、10人全員とはいかずとも数人単位で集まることは確実に出来た。2週間に1度程度上智のメンバーだけでも顔を合わせて、進捗を確認したり、作業を進めたりすることはおそらく可能であった。その都度打ち合わせの内容は共有する約束を事前に立てておけば揉め事が起こることも無いだろう。自分たちが今何をやっているのかを定期的に確認できている状態であれば、より準備期間でできる事が増えただろうし、他大のメンバーで集まった時にすることもよりはっきりしたと思う。
 このような、今考えれば分かりきったことをなぜできなかったのか考えてみた。今まで多くのことを他人に任せて、自分で行うことをしてこなかったことが一番にあげられると思う。自分が真っ先にやらなくても今までは機能していた組織にいたため、自分が行動しないことで起きるリスクについて甘く考えすぎていた。また、少し考えてはいても、もし上手くいかなかったらどうしようなどと考え、行動を起こすことをためらった部分がある。
 私は自分が0から何かをスタートさせるということが得意ではない。しかしこれは言い訳に過ぎない。このプログラムを通じて、リーダーというものを経験し、大きな学びがここにある。私は、例えたった10人しかいないグループや組織でも、リーダーと言われる立場の人は、皆に任せようとするのではなく自らがまず指針を示すことや動き始めることが必要で、調整役に徹するのは方向を示した後であるということを学んだ。
 私は自分の意思をすぐに決定したりその決定を言語化したりすることが得意ではない。しかし、だからと言ってその意思決定をメンバーに求めると、各々が意見を発信した上で皆の意見を尊重してまとめるというステップを踏むため、時間も労力もかかってしまう。それよりはまず自分の意思を明確にしてメンバーに伝えた上で調整をするようにすればより上手く行くということを身をもって理解することができた。このことは小さなことかもしれないが、自分にとって大きな学びとなった。のちにも生かしていきたい。また、自分の弱みとして、状況が悪化しているものに手をつけたくないという実に幼い考え方は本当に改めなければ、この先永久に苦労すると感じた。ベトナムに行かずともこのことは理解しなければいけないが、改めて自分の未熟さを思い知らされた。
 ここまで「リーダー」という言葉を連呼してきた。ではなぜここまで自分がここに固執しているのかというと、自分はベトナムに行く前にある目標を立てたからだ。「ベトナムで、しっかりリーダーとしてリーダーシップを発揮して行動する」である。この目標を立てた時には特に何も疑問を感じなかったが、今振り返って考えると、そもそもリーダーシップとは何かということについて全く考えていなかったことに気がついた。自分が発揮するリーダーシップは何か、その上でどのようなリーダーになるのか。このことを深く考えずに目標にしていたため、帰国してからも果たして自分は目標通りに行動できたのかわからないでいたのだ。
 では、リーダーシップとは何か、という問いを自分にぶつけた時、はっきりとした答えは出なかった。つまり、リーダーシップとは、一つに定義されるものがないのだ。そして人によって強み弱みが違うことと同じく、発揮するリーダーシップにもその人固有のものがある。口数が少なくても行動で示せる人にはもちろん皆を引っ張っていくリーダーシップが存在する。逆に言葉で影響力を与え、皆を引っ張るリーダーシップのスタイルもある。場の空気を和ませ、皆が快適に過ごせるような雰囲気を作れるのももちろんリーダーシップである。また、自分は嫌われてもいいから、皆と本音で接することで、組織をより良いものにしようとする力もリーダーシップである。このように、リーダーシップには調整型、行動型や指示型などいろいろあると考えさせられた。そして様々な型があるのなら、別にリーダーにならなくてもサポートする側としてリーダーシップは発揮できるということでもある。
 次に考えたことは、自分の理想である。自分の価値観から考えて、グループ内の信頼関係、そして規律をまず最重要視するタイプであると思う。今回のような二週間ずっと同じメンバーで生活するような濃い内容のプログラムの際、お互いの気持ちを言い合えるような信頼関係が必須だと強く感じたが、そこまでの関係構築まで持って行けたかと言えば疑問が残る。仲が良いことは間違いないが、お互いを批判するということに関しては十分にできなかった。この批判というのは悪い意味ではなく、プログラムをよりスムーズに、不満をなくすためには必ず必要だと考えている。またの機会に非常に役に立つ経験を得ることができて、本当にこのVJEPに参加できたことに感謝している。

 最後に、この報告書の中で、ベトナム人たちとの交流についてあまり触れていないが、様々なアクティビティーを通して、多くの絆を得ることができた。しかし、今回は準備期間を含めて、活動期間中、オーガナイザーの指示を皆に伝えるなど、常に全体を見なければいけないことが多く、また3日ほど病気にもなり、個人としては不完全燃焼の部分が実は多い。全体のことでも個人のことでも悔しい思いも多くした。皆のことを考えて自分のことを我慢せざるを得ないことも多々あった。もっと自分にタイムマネジメント能力や、スイッチのオンオフの切り替えの力、切羽詰まった状況でも冷静でいることができる力があればと考えることが多くあった。つまり、自分の弱みと対峙する時間が本当に多かった。また、自分の性格的に、過去のことを現在まで引っ張る傾向がある。だからこそ余計うまくいかなかった時に落ち込んだり、後悔したり自信がなくなったりと不安定になるのだが、そのような経験もまた、自分を大きくするものだと信じて、これからも様々な機会に飛び込んでみたいと思う。
 もうVJEP2017は二度と帰ってこない。しかし、今回できた日本人ベトナム人参加者合わせて20人の絆は変わらない。支えてくれたオーガナイザー、日本の学生アシスタントの先輩方、そして関先生、この一生ものの出会いを大切にしてこれからも過ごしていこうと思う。自分にとって初めてのベトナムをこのような素晴らしい機会にしてくれた全ての人々に感謝をしたい。

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (9) 関愛生(上智大学総合グローバル学部3年)「置かれた場所で咲きなさい」

「置かれた場所で咲きなさい」

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科3年 関愛生

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉をご存知だろうか。これは長年修道女としてご活動されてきた故・渡辺和子(わたなべ・かずこ)さんが生前お話された言葉だ。ヒトはどこで生まれるかを選ぶことは出来ないけれど、どのような人生であったとしても幸せを見出す方法は必ずある。そんな温かい想いが込もった言葉はこれまで多くの人々を励ましてきた。この言葉を初めて知ったのは、私がネパールで一年間生活していた高校1年生のときだった。
 高校生の私にとっては親元を離れて生活する事さえ初めての経験だったが、その上、後発発展途上国であるネパールでひとりで暮らすことは容易なことではなかった。毎日のように行われる10時間近い計画停電、一週間以上続いたこともある断水、月に何度もストライキにより学校、交通機関、商店などが全て閉鎖されることもあった。ここ数年でネパールにおける生活インフラは大幅に改善され、政治状況も比較的安定しているが、私が住んでいた頃のネパールはあらゆる環境が劣悪であった。また、後発発展途上国ならではの様々な社会問題も目の当たりした私は、それに対して何も出来ない自分の無力さに打ちひしがれることもあった。
 そんな私を励ましてくれたのは、他でもないネパールの人々であった。彼らはたとえ経済的に豊かではないとしても、いつも笑顔で、私に人生に対する姿勢や考え方を教えてくれた。そんなネパールの人々の心の豊さや親切さに私はすぐに魅了され、ネパールという国が大好きになった。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉は、ネパールの人々から私が学んだことそのものであった。
 大学生になって以降、私は年に数回ネパールを訪れてきた。その度に私は素晴らしい経験をさせていただいてきたのだが、今回も例外ではなかった。8月26日、私とその他日本人学生10名はAAEE主催のネパールスタディーツアーに参加するためにネパールに降り立った。このスタディーツアーは日・ネパール学生交流を主な目的としており、今回で私の大学入学後だけでも8度目の開催である。今回、特に楽しみにしていたのは地方都市ポカラの聾学校(聴覚障害を抱える学生のための学校)への訪問である。本報告書では、私のネパールにおける聴覚障害者の人々との出会い、そして聾学校での体験についてお伝えしたい。


 私がネパールの聴覚障害者の方々と初めて出会ったのは、2017年2月のプログラム中である。その一人が以前から何度か連絡を頂いていたラメシュ・カルキさん。若くしてポカラの聴覚障害者協会の幹部となった人物である。彼らは聴覚障害者のための学校を設立し、全国津々浦々で聴覚障害者を差別から救うに啓蒙活動を精力的に行っている。ネパールでは障害者に対して差別的な風潮が未だ強く残っている地域が多く、ラメシュらの活動は障害者や社会的マイノリティーの保護という観点からも必要不可欠である。彼らの活動に感銘を受けた私は、翌日には聴覚障害者協会と彼らの経営する聾学校を訪問し、それ以来ネパールの聴覚障害者関連の活動をしている皆さんと親交を持ってきた。
 今回のツアーでは、発展途上国における障害者の現状について知るべく、参加者全員での聾学校を訪問をはじめてプログラムに取り入れた。当日は、ほとんど丸一日を聾学校で過ごし、生徒達と一緒に朝食を食べ、スポーツをして、授業を行うなど盛りだくさんな内容だった。その中でも特に印象に残っているのは、生徒へ向けて私たちが授業を行ったときの出来事である。
 「何でもいいから生徒のためになるような授業を行ってほしい。」これが校長先生からの依頼であった。日本・ネパールメンバーはそれぞれ数人のグループで授業を用意して当日に臨んだ。私は高校3年生のクラスを担当することになったのだが、なかには20歳を超える学生が何人もいた。考えた末、自分と同世代の若者相手に授業をするのも何だかおかしいと思い、授業はやめて生徒の皆さんに私が抱いている疑問を質問してみることにした。具体的には、デリケートな問題ではあるが「これまで聴覚障害があることで差別をされたり、不当な扱いを受けてきたことがあるか」というものである(生徒たちとの会話は手話通訳者を介して行った)。それに対して19歳の女子学生は、少し考えた後「私たち聴覚障害者にとって、ネパールで生きることは確かに簡単なことではないわ。私も生まれ育った村では差別を受けたり、ポカラに出てきた今でも街を歩くと白い目で見られることもある。その他にも大変なことはたくさんあるけど、それでも私はすごく幸せな毎日を送っているよ!学校に来れば友達がたくさんいるし、家族にも愛されている。学校を卒業したら、プログラミングを学んでエンジニアになりたいんだ。確かに健常者に比べたらネパールの社会で出来る仕事は少ないかもしれない。けれど同じくらい出来ることだってたくさんあるんだよ!」こう笑顔で話してくれた。この言葉を聞いた私は、体に電気が走るような衝撃を受けた。私はもしかして何かを勘違いしていたのかもしれない。
 社会的マイノリティーである障害者に対して常に寄り添うつもりでいた私だが、実際当事者の彼らは、驚くほど明るく勉強熱心で、会話をするときに手話を使用すること以外(当たり前だが)健常者となんら変わりない。彼らをマイノリティーとして被害者的存在にしていたのは、他でもなく私自身の考え方の偏りによるものだと気づかされた。私の質問に答えてくれた女子学生だけでなく、その後も多くの生徒とお話させていただき、彼らのパワフルさに終始圧倒されていたことを今でも覚えている。
 私が聾学校の生徒の皆さんから学んだことは何か。一言で言えば、冒頭にも書いたように「置かれた場所で咲く」ことの大切さである。皆さんは確かに多くの困難を抱えているだろう。しかし同様に、私たちだって人生を歩むなかで多くの壁にぶち当たる。その意味では、ネパールで暮らしていようが、日本で暮らしていようが、人生の根本的な部分では何も変わらないかもしれない。大事なことは、どんな環境に生まれようと、いかに幸せを見出し、目の前に立ちはだかる問題に対して恐れるのではなく、その解決に向かって仲間と手を取り合い、前進していくことなのではないだろうか。今回のネパールへのスタディーツアーは、そんなことを考えさせられた旅だった。

2017年10月19日木曜日

ベトナム VJEP 2017 報告書 (9) 八巻 夏葵(上智大学総合グローバル学部 1年)「適応力と体力」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書 (9)

「適応力と体力」
                     
                         
上智大学 総合グローバル学部 
総合グローバル学科1年 八巻 夏葵

(空港にて最後の集合写真、皆泣いている)
  「大学1年生の夏休みは絶対に海外に行く」と意気込んでいた私はVJEP2017に参加することに決めとてもワクワクしていた。10人のメンバーのうち6人が同じ大学のそれも同じ学部の学生で正直、驚いた。事前に行われた宿泊合宿では話が円滑に進み、重要事項が決まっていったが、それ以降、メンバーそれぞれの忙しさや連絡不足もあり直前まで話が詰まらず急ピッチでの準備を余儀なくされ、不安が膨らんでいった。もう一つの不安要素としては自分がリーダーの一人として抜擢されたことだ。今までにリーダーを担当することはあったが、海外研修という自分には初めてづくしの環境のなかでリーダーを任されることには不安しかなかった。ベトナム側のオーガナイザーに、常に超短い期限で情報を要求され、てんやわんやになっていた自分も今になれば懐かしく思う。そして待ちに待った出発当日。空港に集合した日本人メンバーは少し緊張しているようにも見えた。というのもベトナムオーガナイザーの意向でベトナム人メンバーの一切の情報を知らされておらず、不安と期待に包まれていたからだ。
 2週間の活動の中で私が一番重要だと感じたのは、英語能力でも知識量でもなく、新しい環境に適応する力と体力である。英語と知識はそれらに付随してあらわれるものである。そう感じた理由として、訪問先の現地高校などを訪ねた際に、大小さまざまなスケジュールの変更の中で、歓迎してくれる生徒や先生方の前で常に笑顔でベストなパフォーマンスをするために臨機応変に対応する力が必要不可欠であったことなどが挙げられる。中身の濃いプログラムであったこともあり、毎日朝早くから活動していたため、精神的にも肉体的にも余裕があまりない生活を送っていた。それもあり、日本人メンバーの2人が体調を崩し病院に行くという事態になってしまった。他のメンバーも病院にこそ行かないものの、少し体調が優れないこともあった。プログラム前半のビンフォック省で行われたオープニングセレモニーではメンバー二人が欠け、本番まで全員で全く合わせることができなかったボンボン・バンバン(ベトナムの有名な踊り)とソーラン節の動画を後日見て、正直悲しくなった。踊りはバラバラで、自分は必死にやったつもりなのにクオリティーの低いものを披露してしまったという後悔が大きかった。
しかしそこから日本人メンバーの意識が少しずつ変わっていった。1日のプログラムの終わりの夜の時間に集合し、各々パフォーマンスやプレゼンテーションの練習に励んだ。特にパフォーマンスでは、既に完成しているメンバーが、他のメンバーに指導する様子も見られるようになった。その時を境に皆の表情が一変し、一体感が出てきたように感じられた。それからというもの踊りや歌を披露する時の皆の表情も楽しそうにみえ、全力でパフォーマンスをした後の心地よい疲労感が今思うと恋しい。そこから全体的な雰囲気も良くなり、夜には両メンバーが集い、日本の歌を一緒に歌ったり、逆に、ベトナム語の歌に挑戦してみたりした。言語の壁など感じる暇さえ無いほど楽しく、濃い時間が流れっていった。
 (夜に皆で集合してゲームなどで楽しんだ)
変更も多く、超過密スケジュールをこなしていく上で、ベトナム人オーガナイザー達のサポートを強く感じた。彼らはVJEP2017のプログラムを迎えるにあたって、4カ月間も準備に全力で取り組み、プログラムの進行にできるだけ差支えが無いように、常に気を配ってくれた。本プログラムは彼ら無しでは成り立たなかったと断言できる。
VJEP2017に参加する前に自分が抱いていたベトナムに対するステレオタイプ的イメージなどは、たった2週間で見事に打ち砕かれた。沢山の才能に溢れ、自分とは違った考えを持った優秀な大学生と日本人メンバーたちに囲まれ、ベトナムで過ごした大学生として初めての夏休みは間違えなく忘れられないものとなった。空港で別れるときは、涙と名残惜しさで満たされていた。短期間でここまで離れたくないと思える友人たちができたことに驚いた。これから大学で勉強するなかで、自分が本当に学んでいきたいこと、学ばなければいけないことが明確になった。自分は、二年次に交換留学を考えているが、ベトナムでも学びたいという意欲が出てきたため、チャンスがあれば挑戦してみたいと考えている。

  もしこれを読んでくれていて、東南アジアやベトナムに少しでも興味があり、夏休み有意義な経験をしたいと考えている学生がいるならば、是非このプログラムに参加してほしい。新しい環境に身を置くことで客観的に自分を見直すこともできるはずだ。さらに私の場合、将来の自分のキャリアのために今何をするべきなのかについて真剣に考えるきっかけになった点に加えて、国外の優秀な学生たちと触れ合う中で沢山の刺激を受け、良い意味で焦りを感じ、一回り成長することができた。このプログラムに携わってくださった関係者や両親には感謝しきれない。来年の新入生に自信をもって勧めることができるプログラムに出会えたことは自分にとって大きな収穫になった。

2017年10月15日日曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (8) SHIN JIHYE(上智大学2年)「物の豊かさより、心の豊かさを」

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(7)

「物の豊かさより、心の豊かさを」

上智大学 2年
SHIN JIHYE

 「ネパール」と聞いたら、おそらく多くの人が思い浮かぶのはヒマラヤ山脈やエベレストであるだろう。私もその中の一人であった。ネパールに関する情報があまりにも少なく、人々はどのような生活をしているのか、町はどのような姿なのか、想像しにくいものであった。
 私が初めてネパールのカトマンズ国際空港についたとき、「ここがある国の首都の国際空港?」とびっくりした記憶が生々しい。じめじめしている空港では停電が頻繁に起こり、クーラーなどは考えられなかった。コンベヤーベルトの床の工事を目の前でやっている業者の姿。映画でも、ドラマでも見たことがない姿で、カメラのシャッターを忙しく押し続けていた。空港から街に出てからは、さらに衝撃を受けた。道には交通信号のないなか、車、バイク、自転車、人さらに牛までがいじり混ざって行き来をしていて、とても複雑だった。砂と排気ガスがのどを刺激し、何回もせきをださなくてはいられなかった。「本当にここでの生活ができるのか」。この問いとともに私の12日間のネパールでの生活が始まったのである。
 食事の時には、20人ぐらいの私たちの食事がそろうに大体2時間ほどかかった。コーヒーを頼むたび、いつものようにあふれた状態で出された。お店のファンをかけるために何も了解をもとめず私が座っていた椅子を靴のまま登ったり、町に出てからは何か一つものを買おうとしてもありえない金額を最初に呼ばれたりしていて、一から十まで私が慣れていた生活とは正反対であった。これが日本、あるいは私の母国である韓国であったら、絶対に許されない行為だ、と何回も思っていた。無意識のなかで私は、「これは常識ではない」と考えていたに違いない。
 しかし、時間がたつにつれ、私の考え方が大きく変わっていった。「常識ではない」と考えていたその世界では、私こそが「常識ではない」存在であるかもしれないと思うようになったのである。異常に考えすぎていて、ほかの人々の行動を計算し、自分が常識だと思っている型にはめようとしている自分を出くわしたとき、自分の考え方、そして自分のこころがどのように小さなものであるのか、どれぐらい私が「違い」を受容できないのかと実感したのである。
 100を超える民族が違う文化、言葉、生活様式を持っている国。だからこそ、彼らは「受容」することを自然と学んでいて、どんな時でもほかの人の行動をジャッジしないのかもしれない。考えてみれば、12日間わたしたちと同行していたネパールのメンバーたちも、彼らと違う私たち日本人メンバーの行動をすべて受け入れ、受容してくれた。小さい虫ひとつにも大げさになってしまったり、ネパールの食べ物を全く食べれなかったり、彼らにとっては常識ではない私たちの行動を、彼らは常に暖かく受け入れてくれた。
ネパールの幸せ指数は、先進国に比べてそうとう高い水準であるといわれている。彼らが幸せな理由は、物質的なものではなく、心の豊かさから生まれたのではないだろうか。「それでも大丈夫だよ」と私が何者なのかにかかわらず友達になってくれたネパールのメンバーたちから、カメラを向けたら抵抗感なくいつも笑ってくれる道で出会った多くの子供たちから、そして言葉一つ通じなかった村で、かぜにひいてしまった私のために毎あさ薬草でお茶を出してくれたおばあさんのほほえみから、私は心からの幸せと豊かさをみて、学んでくることができた。
 「ネパールはネパールという名前で一つの国になっているけれど、なかを見てみるとバラエティー豊かでとても面白い国だよ!」とネパールのメンバーの一人は、私がネパールについた最初に言ってくれた。12日間の日程を終えて、その言葉の意味を非常に理解するようになった。一つであるが、一つでない国。その多様性を受け容れ、ハーモニーを創っていく国。物の豊かさより、心の豊かさを持つ強い国。ネパールから学んできたその心の豊をここ日本でも実現していきたい。

ベトナム VJEP 2017 報告書 (8) 清水琴未(立命館アジア太平洋大学 2年)「VJEPを振り返って」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書 (8)
「VJEPを振り返って」

                          立命館アジア太平洋大学 2年
清水琴未


 私は前年度に同じ大学の友達がVJEPのプログラムに参加していたのを見て、このプログラムに参加することを決意した。初めにもらった情報は「ベトナムで2週間、ベトナムの学生たちと交流しながら過ごす」というものだけであった。こうして5月くらいにメンバー全員が決まり、プログラムのための研修会が開かれることになったが、私が住んでいる場所が九州だったため、すぐに東京に行ける距離ではなかった。プログラムが開始する一週間前の集まりにしか参加することが出来ず、準備段階をみんなと一緒にできなかったことが悔やまれる。VJEPのプログラムではプレゼンテーションやダンスパフォーマンス、歌など日本で準備していかなければならないことがたくさんあったが、実際には東京へ行く少し前になるまで私は何の準備も行っていなかった。なんとかなるだろう、大丈夫だ、と思っていたのだ。夏休みが始まって集まりに参加したものの、2日間で集まったのはたったの4、5人だった。何一つ全員で合わせたことがない状態でベトナムへ行くことになってしまい、このことがのちにチームに悪い影響を与えることになったのだ。

 ベトナムに着いた次の日から、早速パフォーマンスを披露する場があり、私たちは初めて全員で揃える時間を作ることが出来た。歌は個人で歌詞を覚えればいいものの、ダンスはバラバラだった。特に劇の練習をした時はチームとしてのまとまりがなく大変だった。みんなでやろう!と声をかけ同じ部屋に集まっているにも関わらず、自分のプレゼンテーションの準備をしている人もいれば全く違うことをしている人もおり、全体の時間になぜ個人のことを優先しているのか私には理解できなかった。そもそもプレゼンテーションは各個人が日本で準備しておかなければならないものなのに、どうしてそれを今やっているのだろうかという気持ちが自分のイライラに繋がっていた。チームとして、いくら自分の仕事が小さいものでもみんなが集中してパッとやればすぐに終わるのに…と思いながらもダラダラと一時間ほど練習を続け、みんな部屋に戻った。自分がチームに迷惑をかけていることを理解していない人がいる時、リーダーはその人にどう働きかければよいのだろうか。こんな時にどうすればみんながチームに協力的になるようにできるのか、私は分からずイライラする態度で示してしまっていたが、もっと他にやり方があったのだと思う。それに比べて、ベトナムメンバーたちのパフォーマンスは全てが素晴らしかった。ダンスも歌もプレゼンテーションも劇も、どれを取っても見ていて面白く完成度の高いものだった。彼らは練習をするときもコミュニケーションをよく取っており、何度も集まって、そのチームワークの良さがパフォーマンスの質の良さにも繋がっているのではないかと思った。

 VJEPプログラムの後半で今回のプログラムを振り返る時間を作るのか、作らないのか、という話が出た時があった。日本に帰国してから集まればいいじゃん、という人もいれば、今日やっておくべきだと思う、という人もいてまずその話し合いをやるのかやらないのか決める話し合いをしなければならなかった。関先生からの提案でその話合いを設けるかの話題が出たのだが、先生はやってもやらなくてもどちらでもいい、全て君たち次第だ、とおっしゃっており、私はその時にこのプログラムは学生と、参加者の私たち自身で創り上げているのだということを改めて実感した。結局話し合いは行われ、そこで各自が今まで思ってきたことや言いたかったことを素直にぶつけ合う時間になったのだ。みんなそれぞれに人に対して思うことがあったり、自分の反省面を話す人もいたりで、このような時間をもうけ、振り返ることが各自の成長や学びに繋がるのではないかと思った。

 このプログラムの中で一番印象的だったことについて話したい。それはビンフックに行った時に目の当たりにした社会主義の実態だ。いくら予定が変更になったとしても、自分のやりたくないことがあったとしても、逆らえず従うしかないと耐えている人が数人いた。ベトナム人メンバーはホームステイをするよりも日本人メンバーと過ごしたいという想いが強く、数人はホームステイをしたくないと言っていた。また、私たちを受け入れてくださるホームステイ先のホストファミリーもこのホームステイを失敗させてはいけない、なんとか日本人メンバーを喜ばせてあげよう、という必死の想いがあり、私たちには至れり尽くせりであった。それは政府の人からのプレッシャーや、自分の地位を守るためであるという話もしていた。メンバーの1人が「僕たちが今我慢しなかったらこのプログラムは終わってしまう…」と話しているのを聞いた時、初めて日本とは違う国の社会体制について知ることができた。私は今まで他の国の政治体制を勉強してこなかったため、全く知識がなかったのだが、これから大学での勉強において今回ベトナムで実際に見た社会主義国家の現状についてもっと知りたいと感じた。

 最後に私がこのプログラムに参加して得た最も大きなものは、ベトナム人メンバーとの絆である。2週間共に毎日過ごし、いろんな話をし、それらを共有できた彼らとは一生の友達でいたいと思えた。彼らのアグレッシブさやひたむきさは自分のモチベーションアップに繋がり、わたしも彼らのようにこれからもいろんなことに挑戦し、経験していこうと思えた。このプログラムを作ってくださった関先生、夕葉さん、オーガナイザーなどサポートしてくださった全ての人に感謝をしたい。

2017年10月14日土曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (7) 松下菜夏(上智大学総合グローバル学部3年)「新しい世界で知る新しい自分」

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(7)

『新しい世界で知る新しい自分』

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科3年 松下菜夏

「必ずまた行く。」と心に誓ったあの日から、2年の時を経て、ようやく戻って来ることができたネパール。2年前のスタディーツアーでは、ネパールという未知の世界で見るもの、起こること全てが刺激的であった。しかし同時に、ネパールの自然の豊かさや人の心の温かさは、故郷宮崎と重なりどこか懐かしさを感じるものもあった。2年ぶりに訪れたネパールには、変わらない自然豊かな景色とスパイスの効いた独特の香り、そしてナマステと手を合わせ笑顔で迎え入れてくれる温かい人々の姿があった。私はそれらに親しみと懐かしさを感じながら、これから出会うであろう人々や出来事を想像し胸を躍らせた。

 今回のスタディツアーの中で私が最も楽しみにしていたのが、2年前に訪れたシックレス村での滞在、そして村の人々との再会である。ネパールの第二の都市ポカラから想像を絶する程の過酷な山道を約6時間ジープで駆け上がると、ようやく美しいシックレス村にたどり着く。私たちは今回、ホームステイを通して村ならではの体験を沢山させて頂き、より深く村の人々と関わることができた。いわゆるキッチンとリビングが統一された大広間で、アマ(母)やディディ(姉)が夕食(専らダルバートというネパールの伝統料理)を作ってくれる側で、私たちは土床に敷いた座布団に座りながら、二時間でも三時間でも他愛もない話をしながら待つ。すると日本人が来たと聞きつけた隣人たちが次々と訪れ、話に花が咲いた。村の夜の静けさと、アマガ料理をする包丁や火の音が心地よく私たちは皆時間を気にせずのんびりと過ごす。今思えば、ネパールで過ごした日々の中であんなにもリラックスできた時間はなかった。
 ネパールの山奥で自然と共生し、親戚や友人と集まり日が暮れるまで話す彼らからは人間の本来の姿が見える。また私自身も、彼らと過ごす中で次第に携帯に触れる機会が減り、村で起こるもの感じるものをその場で見て肌で感じようとしていた。
   日本で生活をしている私は、毎日時間に追われ目の前のことを考えるだけで精一杯だ。しかしシックレス村を訪れると「生きることとは何か」「人間らしさとは何か」と立ち止まってゆっくり考えることができる。

そんなシックレス村で私が心待ちにしていたのが村の学校への訪問と2年ぶりの「再会」
である。学校に着くと真っ先に教室へ行き、前回一緒に写真を撮った子供たちを探す。すると、私が手にしていた写真を見て、「それ私。」「これは僕だよ。」と嬉しそうに次々と駆け寄って来た子供達。彼らは2年経っても変わらない純粋な眼差しで私を迎え入れてくれた。また、2年前より少し大人びた彼らを見て、時の長さを感じながら再会の嬉しさを噛み締めた。すでに上級生へと成長しもうすぐ卒業するであろう彼らにはどんな未来が待っているだろう。あの村を出てネパールの都市部あるいは海外へ出るのだろうか。楽しみである反面、次またこの村を訪れても彼らに会えないかもしれないと思うと少し寂しい。いつかまた、さらに成長した彼らに会いたい。

 次に、このスタディーツアーのテーマである「学生交流」について述べたい。

 今回のスタディーツアーで二週間ネパール人学生メンバーと共に過ごす中で、日常会話の際に彼らが言った何気無い一言やふとした時に見せる表情から学ぶこと、考えさせられることが多くあった。その中で、最も印象に残っているのが、以下の2点である。
 一つ目は、ネパール人メンバーの愛国心の強さと深さである。彼らはネパールの歴史や文化、自らが属している宗教や神様にまつわる話などについて深く理解しており、それらの多くを私たちに教えてくれた。そしてその時の彼らの表情は、いつも誇らしげに見えた。しかしそんな愛国心のある彼らでも、日本人メンバーの普段の生活や周りの環境とを比べ、不満や窮屈さを感じている様子を伺えた場面もあった。では私たち日本人はどれほど深く日本という国について理解しているだろうか。彼らにどれだけ日本について伝えることができただろうか。自国を愛し、また自国に足りないところまでも深く理解している彼らと向き合うことで、自分自身が情けなくもあり、また同時に心得るべきものも知った。
 二つ目は、ネパールにおける「ダイバーシティ(多様性)」についてである。あるネパール人メンバーと話している時のことである。ネパールの文化について質問を重ねていると突然彼女が「あなたたちはみんなネパール人ネパール人というけれど、私たちは文化も宗教もカーストもみんなそれぞれ違っていてとてもダイバーシティーなの。」と強く言った。そしてその後も「ダイバーシティ」という言葉を私たちに訴えかけるように繰り返し言った。私はネパールやその他様々な国で「多様性」に触れる機会が多くある。それらは主に文化や言語、習慣などであるが、一つの国で多様な人々が存在しそれを受け入れる多様な考えである。一方日本では地方間における言語や文化の多少の差異はあるものの、日本人の多くが特定の共通認識や画一的な考えの中で生活しており、「多様性」という考えに対する理解が浅いと感じることが多くある。そして私自身も気づかないうちに、彼女が「日本人は私たちの多様性を理解していない」と思われるような失礼な発言をしてしまっていたかもしれない。それが心残りである。

 私は今回ネパール人学生メンバーやシックレスでの村の人々との会話を通して、異文化交流をする上で最も重要なのは「コミュニケーションを図ろうとする姿勢」だと改めて感じた。しかし同時に、より深い関係を築くには英語(共通語)の言語能力は必要不可欠であることも痛感した。今回のスタディーツアーでは2年前よりも様々な人と多くのコミュニケーションを取れたからこそ、言語の壁の大きさを強く感じた。特にネパール人学生メンバーとは二週間ともに過ごす中で、自分の語学(英語)力不足から彼らと思うように意思疎通が図れずわだかまりが残ることが多くあった。私は彼らともっと話したかった。そしてもっと知りたかった。これもまた今回のスタディーツアーで後悔していることだ。

 最後に、私が2年前のスタディーツアーで後悔したことについて話したい。
 2年前ネパールについて何も知らずに現地を訪れた私は、彼らの宗教や価値観についてもまた無知だった。するとツアー中、一人のネパール人メンバーが私が何の宗教に属しているか聞いてきた。宗教に属していない私はこの質問自体初めての経験であり、また英語力も乏しかったため焦って上手く説明がすることができず、「私は宗教に属していない。多くの日本人がそうである。」と答えた。すると彼は非常に驚いた様子で、また腑に落ちない表情を見せたのを覚えている。私が彼に言ったことは決して間違っていたわけではないが、今改めて考えると宗教が生活の軸となり考え方の基盤となっている彼らに対する答えとしては不十分であったように思う。また帰国後、大学で多様性や宗教について学べば学ぶほど自分がどれほど無知であったか、誤解を与えてしまうような回答をしてしまったか反省しモヤモヤしていた。
 今回のスタディーツアーはバスでの長距離移動が多かった。カトマンズからポカラへ移動するバスのなかで隣に座ったネパール人メンバーとは、お互いの大学での勉強や将来の夢、またネパールの文化、カースト制度、そして宗教について話した。そこで彼女から、2年前の彼と同じ質問をされた。私は答えた。「多くの日本人が特定の宗教に属しているわけではないけれど、神様を信じていないわけではないよ。私自身も宗教というものには属してはないけれど、神様も信じているし、あなたたちに近い考えもあるよ。」すると彼女は、納得した様子で深く頷いてくれた。

新しい世界に行けば、自分とは全く異なるバックグラウンド、文化、価値観を持つ人々
に出会う。彼らと私たちには共通のものもあれば異なるものも多くあるだろう。またそれらを知った時に面白さを感じる時もあれば、なかなか受け入れられず戸惑うこともある。しかし私はそれも含めて、新しい世界で多くの人々と出会い、まだ知らない自分の思いに出会うことが好きである。
 そして私は今回のスタディーツアーで後悔したことを晴らすためにも、またネパールへいかなければならない。

 最後になったが、関昭典先生をはじめとしたAAEE関係者の皆様、コーディネータのKshitiz Bhattarai dai、リーダーの関愛生くん、そして何よりも二週間ともに過ごしてくれたネパール人日本人両メンバーのみんなに心から感謝するとともに、私の報告書を終わらせていただきたい。
素晴らしい二週間をありがとうございました。


松下菜夏

P.S.
2度目の参加者の特権として、前回のスタディーツアーの親友と再会してきました。
一晩夕食をともにしただけで多くを語ったわけではありませんが、だだ隣にいて手をつないでいるだけで十分でした。彼女と私はネパール人と日本人という関係ではなく、ただ隣にいるだけで心が通じ合える親友です。そんな貴重な友人と出会えたのもこのスタディーツアーのおかげです。
次回、今回のスタディーツアーで出会ったメロサティ(私の友達)に再会するのが楽しみです!





ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (6) 安生圭騎(上智大学総合グローバル学部3年)「発展途上国の色眼鏡」

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(5)

「発展途上国の色眼鏡」
上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科3年
安生圭騎


私はいわゆる発展途上国と呼ばれる国に訪れるのはネパールが3か国目であった。初めていった国はカンボジアで、悲惨な歴史背景から今もなお孤児の問題や教育の問題など様々な問題を抱えている国だ。2か国目はバングラデシュであった。バングラデシュはいたるところにスラムやストリートチルドレンがおり、バスに乗っていると車が止まるたびにノックをしてきて新聞や果物などを売ろうとしている子供たちもいた。これらの国々に訪れたのは高校在学中に学校主催で行われた。そのため食事も安全に配慮して、現地の人々のごく一部の限られた富裕層や外国人観光客向けのホテルやレストランで過ごした。 
 現地では、観光地の見学やモスクの見学、学校の視察やスラム街に訪れるようなことも行った。私はこういった経験から、発展途上国は何となく危険で食事も注意していない限りすぐに腹痛を起こすと考えていた。そのためネパールに行く前までは同じようなことであろうと考えていた。しかしながらネパールに行くことで発展途上国という言葉の印象が変わった。なぜならネパールではそもそも現地の同世代の人々と生活を共にし、文化は違くとも、趣味嗜好は全く変わることなく同じ人間であると感じたからだ。また、食事に関してもローカルな食べ物を食べたとしても腹痛を起こすことなくいたって健康にアクティビティーを楽しむことができた。こういった点から私は発展途上国という言葉だけでマイナスのイメージを持っていたが、そもそも私が間違っていたと考えた。
 しかしながら私はいわゆる先進国を中心とする国際協力は必要最低限、行うべきであると考えた。私がポカラで雨宿りをしていた時に見知らぬおじさんが日本人かと尋ねてきたことがあった。私が日本人だと答えると日本は震災の時や高速道路の建設など様々な援助をしてくれていると話してくれた。このことは、正直私はほとんど知らなかった。こういったところから日本のイメージがよくなっていると思う。その後も私はいたるところであなたは中国人かあるいは韓国人かなどと多くの場面で聞かれることがあった。しかし自分が日本人と答えると顔色も少し明るくなった理由なのかもしれない。これは日本が戦時中その国の人々に非人道的な行為を行った国ではまだまだ通用しないと聞いたことがある。こういった点から、国際協力をすることで日本の悪いイメージをよくすることのみならず相手国の問題の解決に少しでも関与できるお互いに良い関係を気づきあげるよいきっかけになると思った。
 一方で、今すぐ行動しなけれればならない道義的な支援も必要であると考えた。なぜなら、いつの日かの夕食後のカトマンズで街を歩いてホテルに帰る際に、紙袋のようなものを口につけ吸ったり吐いたりしながら横たわっている少年を見かけた。おそらくシンナーか何かを使っているのであると考えられる。私はあまりの衝撃で写真すらとることはできなかったが、まだまだこういった現状が実際に起きていることが身にしみてわかった。
 ただし、先進国と発展途上国という関係ではなくあくまで友好的にあるいは道義的な国際協力であって、現地の状況を変えすぎてしまうような国際協力は必要ないと考えた。なぜなら、私たちが訪れた村であるシクレスにはグルン族の人々が住み、いまだにガスを使っているところは少なくとも一度も見ることはなかった。また、道を歩いているときや寝ているときに気が付かないうちにヒルに刺されたり、街頭など一切なく夜は真っ暗で外に出るときには懐中電灯が必要であった。確かに我々の暮らしの中ではどれも必要不可欠なものや想像もできない状況かもしれない。しかしそのような環境下でも村の人々は地域で協力し合い生活していた。またホームステイをしていく中で生活していくことに特に困ることもなくむしろ満天の星空に囲まれる私にとって居心地が良い環境であった。こういった意味では、いわゆる先進国に住む私たちにとって必要なものも村では必要としないあるいはそもそも存在自体をあまり認知していないのかもしれない。しかしそのようなものがあることで環境問題を引き起こすなど様々な問題を抱えてしまっている。そのようなことがあるならばむしろ村の生活のほうが人間的であるかもしれない。
 こういった点から私たちが当然としていることを強制的に押し付けいわゆる文明化をはかるのはどうかと考えた。つまり私たちが使うからあなたがたも使いなさい、といった国際協力や政府の考えが仮にあるとしたらそれは間違っているのではないかと考えられと思った。だからこそ現地の状況を変えすぎる国際協力は必要ではないと考えたのだ。一方で村でも出稼ぎに出かける若者や何か買い物するときは近くの大きな都市に出かけなければならないなど様々な問題があることが分かった。こういった問題は積極的に政府や国際協力などが参加し問題の解決につなげるべきであると考えた。

2017年10月12日木曜日

ベトナム VJEP 2017 報告書 (7) 新谷 稜(専修大学経済学部1年)「VJEP ベトナムプログラム 報告書」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書 (7)

「VJEP ベトナムプログラム 報告書」
この報告書を読めば、あなたによって世界が少しだけ平和になります(新谷君による)。
専修大学経済学部
国際経済学科1年 新谷 稜

 はじめに、この報告書では「社会主義」という言葉が使われます。自分自身、社会主義について専門的に勉強しているわけではありませんので、読者の皆様を不快な気持ちにさせてしまう可能性があります。しかし、社会主義について、賛成反対が記載されているわけではありません。今回の自分が皆さんに伝えたい本質は、社会主義でも、ベトナムでもなく、世界がちょっとだけ平和になる方法を知ってもらうこと、です。それを踏まえて、この報告書の先に進んでくれると自分が心から喜びます。^—^ご理解とご協力宜しくお願いします。

 2017年9月29日現在、今の自分の行動軸になっているのは間違いなくベトナムでのとある出来事がきっかけです。そのとある出来事を話す前に、その経験を踏まえて自分が今後どうなりたいのか、そのために今何をやっているのか、を話させていただきます。簡単にいえば自己紹介です。もし、とある出来事を読みたい方は、自分の自己紹介は、この後用事があるときに声をかけてくる渋谷のキャッチの人をシカトするかのごとくすっ飛ばして、読んでくださって結構です。宜しくお願いします。

 ということで、自己紹介させていただきます。専修大学経済学部国際経済学科1年の新谷 稜(しんたに りょう)と申します。まだ大学に入ってから半年ですが、今現在の自分の行動軸を言語化したものと、それを叶えるためにヴィジョン(全然抽象的ですが)がありますので、この場を借りて発信させていただきます。
自己理念は、「相手の正義を尊重し合える社会を創る」です。なぜこのようなか考えになったかは、後々話します。それを叶えるためにヴィジョンとして、「過去のオリンピック跡地に、スポーツ施設、宿泊施設、カフェ、コワーキングスペース、をつけたスタジアムを作ること」です。そこで世界平和について触れるイベントや相手の気持ちを考えざるを得ないような施設を創りたいと思っています。さらにいえば、プロのスポーツ選手がそこのカフェやスポーツジムで働いている、なんていうのも面白いかなぁと思っています。まだまだ、女性が彼氏とデートに行く前にお化粧をするときくらい細かく、繊細に、ブラッシュアップが必要だと感じます。(自分女性になった経験がないので、正確にはわかりませんが)
 そのために、今何をやっているのかというと、学生団体の共同代表、無限島(無人島)の運営や、平昌オリンピックプロジェクトというものに、関わらせていただいています。
それらを、いちいち全て1から話していると時間が勿体無いので、省略させていただきます。
 知りたい方や、興味を持ってくれた方は、11月の12日にこのプログラムの報告会をJICA地球広場にて開催ことが確定しておりますので、そちらへの参加をお勧めいたします。

ということで、お待たせいたしました。自分がベトナムで何を感じ、なんか平和とか言っているが、今後具体的に何をどうしていきたいかを書いていこうと思います。
ベトナムで何を感じたか、それはとても簡単にいえば、紛争や対立、もっと身近なものに例えると、口喧嘩や噂話、それらが生まれる原因を突き止めました。はい。それは何か、もう最初に言っちゃいます。
「正義」の反対は「悪」ではなく、「正義」の反対は「もう一つの正義」が存在するということ。
 皆さんは、日頃の生活で自分の正義(自分にとっての幸せ、自分にとっての利益、自分にとって良い価値観)だけを考えてしまい、相手の正義(おそらく自分の主観とは違う、相手の価値観や守りたいもの)を理解せずに発言や行動してしまってはいませんか?
ベトナムは社会主義です。立場的に、社会のシステム的に、政府の人間や国の人間は一般民と比べて圧倒的に上の立場にあります。おそらく日本よりも理不尽という言葉が当たり前な国だという印象を受けました(あくまでも、私の主観です)。社会主義の国と聞いて最初に思い当たる国は、北朝鮮なのではないでしょうか?ベトナムと北朝鮮を比較すると、ベトナムは北朝鮮ほどしっかりとした教育を小学校などに導入していません。すると、どうなるのかというと、今回のプログラムに参加したベトナムメンバー10人は全員、政府に対して、社会主義というシステムについて、不満を持っていました。それと同時に、自分たち日本メンバーを心の底から羨ましく思っているような表情や言葉を使っていました。さらにそれと同時に、ベトナムに生まれた運命を本当の意味で感じているようでした。
 そんな政府に対してマイナスイメージが強いベトナムメンバーと政府の方々が、多少対立する場面がありました。ベトナムのオーガナイザーと政府の方が喧嘩する、みたいな。そこらへんも書いているとキリないので、省略させていただきます。自分自身は、ベトナムメンバーと一緒にいる時間の方が圧倒的に長かったし、ベトナムメンバーの意見を聞いていたので、ベトナムメンバーよりの物事の捉え方をしていました。色々ありすぎて、自分は政府の人のことが嫌いになっていました。
しかし、後々知ったことがありました。それは、政府の方々も社会主義というシステムがベトナム人の一部を苦しめていることを知っている、ということです。そのとき、もしもこのプログラムを政府の思う通りに動かすことができなかったら、政府の人の幸せが危ないのだと、そのとき肌で感じました。そうです。ちゃんとその人にも正義があったのです。その瞬間自分は自分自身のことがものすごく未熟に感じました。相手の正義を理解していないのにも関わらず、勝手にその人のことを嫌いになっている自分がそこにいることに対して。そこで感じたことが、争いや対立、口喧嘩や噂話は「正義」と「正義」の食い違いで生まれてしまう、ということです。自分自身のことを嫌いになると同時に、知らないって怖い、と感じました。
 一体、自分の身の周りに、日本に、地球上に、相手の正義を尊重した上で物事を発言したり、行動したりしている人は一体何人いるのだろうか、ものすごく怖くなったと同時に、これだ、と感じました。
この考え方(相手の正誤を尊重する)を世界中に発信することで、世界がいつか平和になるのではないかと。自分はこの仮説を、人生を通して表現し、検証していくつもりです。
しかし、日頃見るニュースや専門家の意見、実際に肌で感じたベトナムのリアル。どんなに偉い人たちでも解決できない、世界平和を実現するには超えなければならない大き過ぎる壁を、自分は超えることはできないと感じてしまいました。それと同時に、世界平和は実現できないと感じました。あまりにも、人間の力ではどうこうなる問題ではない。人間が作り出した問題なのにも関わらず。しかし、この経験は、自分の価値観を大きく変えました。

 世界を変えることはできない、それでも自分と関わる人をちょっとだけ幸せにすることはできるのではないだろうか?そうすることで、地球の中の日本という国の中に立っているたった少数の人間が変わる。これで、少しだけ世界が平和になっていると思います。それで良いのかなと思います。
今後自分がすることは、自分と関わる人の輪を広げること。より多くの人と自分が関わることで、より多くの人が少しだけ幸せになり、少しだけ世界が平和になる。
うん。これで良いと思います。だから、この報告書でもあえてこの話をしました。
この報告書を読んでくださった方々の中から、少しでも多くの方が「相手の正義を尊重できる人」になってくれることを祈っています。

 そしてさらにさらに、自分は望んでいることがあります。それは、この報告書を読んでくださった方々の中から、他人にこの価値観を広め、「相手の正義を尊重できる人」を世の中に排出する人が生まれること、です。最後に、自分が好きな言葉を書いて終わりにしようと思います。
「恩送り」ご存知ですか??この言葉。
とあるアメリカの小学校の総合の授業で、世界を平和にするにはどうしたらいいか、という議題に対してある男の子が唱えた、世界平和を叶える方法です。
簡単にいえば、恩返しではなく恩送り。良いことされたら、その人に恩を返すのではなく、同じことをあなたの身の回りの3人の人に恩をあげてください。その3人にも、同じようなことをさせてください。すると、良いことをしあう最高な社会が創れるよね、
という考え方です。

 自分は、これを検証してみたいのです。実際に自分が行動して見ることや発信すること、この報告書を書くことによって…。

 いかに多くの人と関わり、いかに多くの「相手の正義を尊重できる人」を世の中に排出することができるかが、自分の人生の価値だと思っています。

今後も発信し続けていきます。


 もしも、万が一、いや500万が一、みなさんが2000円札と出会うくらいの確率で、自分と一緒に世の中に良いものを作っていきたいと、少しでも感じてしまったかたがいらっしゃいましたら、11月の報告会か、Facebookで自分を追加してください。関わる人との関係は、強ければ強い方が良いので。フェイスブックで追加してくれると、心の底からニヤつきます。メッセージくれると、飛び跳ねて喜びます。本当に飛び跳ねます。なんなら、飛び跳ねている動画送ります。そのくらい、本気です。

 以上で、「世界がちょっとだけ平和になる方法」講座を終了したいと思います。
この報告書を読んだあなたが、あなたによって世界をちょっとだけ平和にしてくれることを心の底から願っています。

 読んでいただき、本当にありがとうございました。

写真は、大切なメンバーとの写真と
いろんな想いがこもってる、写真です。



2017年10月9日月曜日

ベトナム VJEP 2017 報告書 (6) 匿名希望(上智大学総合グローバル学部1年)「一番大切なことは何か」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書 (6)

「一番大切なことは何か」

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科1
                            匿名希望

ものすごく充実した二週間、毎日本当に忙しく、朝から晩まで新しい経験ばかりを積み上げた二週間だった。新しいことを経験するのに精いっぱいで、私のベトナムでの経験はそれだけで終わってしまったような気もする。忙しすぎて毎日の予定をこなすだけの二週間。
帰国後に数人のメンバーと会い、今回のプロジェクトについて話し合った。そこで初めて見えてきたものや、気付いたことがたくさんあった。ベトナムにいるときから自分の中でもやもやとしていた感情の霧が晴れ、整理された心の中には後悔が多かった。しかし学んだこともそれと同じくらいあった。後悔が学びだったともいえる。
ベトナムに行く前、私は不安だった。自分の英語力や、具体的なスケジュールが分からないことも一つの不安要因ではあったがそのことが大部分を占めているわけではなかった。一番不安だったのは事前準備で全員が集まれなかったこと。みんなが自分と同じ気持ちや理由でこのプロジェクトに参加しているとは全く思っていなかったし、もちろんそれが当たり前だが、だからこそみんなの気持ちを知っておきたかったし、どんな人なのか会って話しておきたかった。日本メンバーにはその時間が足りな過ぎたように思う。
そのことが二週間ずっと私の不安要因だった。みんな精いっぱい頑張っていたし、何とか日程をこなしていった。しかし私はそのことに気を取られすぎていたのだと思う。「何とかやり切らなきゃ」「失敗しないように」「そのために自分ができることは」そういうことばかり考えていたような気がする。状況を見て必要なことを考えてこなすことができるのは、今まで漠然と自分の長所のような気でいた。しかしそうではないことに気付いた。それが成功へのたった一つの道ではなかった。失敗なく、プロジェクト自体を成功させることはもちろん大切だが、「失敗なくこなす」ということを達成することは自分の中での成功を意味するのだろうか。パフォーマンスのような、人に楽しんでもらうことは失敗なくやることが大前提だ。しかしこのプロジェクト全体は?自分は何のために参加したんだっけ?
私の後悔は、プロジェクトに純粋に『参加』できなかったこと。不安要因ばかりに気を取られることで、やり逃したことがたくさんあったのではないかと思った。
たくさんのことを学んだ。ベトナムにいればいるほど、またベトナム人と関わり、話をすればするほど、頭で知っていただけの知識がかけがえのない経験として自分に刻まれた。実体験を通して考えが変化した。自分でベトナムに行き、実際に経験したり目の当たりにしたり、様々な新しい経験が私の中に自分の一部として刻まれていくのを実感した。ちょっとした日常の出来事が日本では絶対に起こりえないことで驚くことも多かった。自分が持っていた知識が表面上のものでしかなく、自分がそのことに関して意見を述べられるほどの立場には程遠いことも実感した。ベトナムメンバーは、本気で何か一つのことにみんなで向かっていくとき、それぞれの個性や得意分野を一つの団体としての強みとする術を示してくれたし、一人一人との会話も価値ある大切なものだった。観光では決して得られない経験と仲間。仕事は誰かがやらなきゃいけないし、実際スケジュールをこなすことも最低条件だ。しかし私はもっとこのような価値ある時間を優先すべきだったのではないか。もう少しわがままを通してもよかったかもしれない。そうしたら今回学んだこと以上を得られたかもしれない。それがもやもやした気持ちの正体だったのだ。同じ気持ちのメンバーがいたこともわかったし、ベトナムメンバーでそれに気づいていて帰国後に長い労いのメッセージをくれた人も数人いた。頑張ってよかったと思うと同時に、もっと会話すればよかったと思った。次は絶対にそうしようと心に誓った。
あるベトナムメンバーの帰国後送ってくれたメッセージ、私が今回の後悔を伝えると、「今回のVJEP、プロジェクト自体は終わったけれど、それは僕たちの関係の終わりを意味するわけじゃない。これからのためのVJEPでしょ?」ベトナムでもっと話したかった思いはお互いにあった。でもそれは全員にあてはまることだった。今はこれからの関係のきっかけに感謝している。後悔しなかったらこの関係をこんなに大切に思えなかったかもしれないし、自分の弱点に気付かないままだった。
後悔はあってもこの二週間は間違いなく私に大きな変化を与えたし、大切な経験だったことに変わりはない。このプログラムにかかわったすべての人に感謝している。将来国際協力に関わることがしたいと考えている私には実体験としてのはじめの一歩となる大きな出来事だった。また、国際協力といっても結局は人と人とのかかわりに過ぎず、日本人同士でさえみんな違って難しいということも再確認した。違うのだということをお互い納得して協力すれば、うまくいかなくても違いのせいですれ違っているのかも、と話し合いができる。結局私のプロジェクトを通しての不安もそこからきているように感じたのだ。しかし違いをお互い認識することで心のどこかに遠慮が生じ、率直な議論ができなくなる時もあるから面白い。この発見も今回の収穫だ。

様々な経験ができたこと、自分を客観的に振り返られたこと、素敵なメンバー、二週間の出来事、帰ってからの話し合い、全部を今の自分が経験しているというだけで変われたなと思う。これから先この後悔や発見を最大に活かしていくことで、参加するにあたって支え、応援してくれた人への感謝としたい。

2017年10月8日日曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (5) 小谷風葵(上智大学総合グローバル学部3年)「ネパールだから学べたこと、スタディーツアーだから学べたこと」

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(5)
 

ネパールだから学べたこと、スタディーツアーだから学べたこと

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科3年 小谷風葵


ネパール滞在中、その場にいて皆で時間を共有し、お互いに名前を呼びあうことが心地よく、非日常的な経験から刺激を受け、それらの中で明確な何かを得ることはなくても、ぼんやりと、しかし確実に存在する何かを得た。この何かはあまり明確にはしたくない。それほど複雑で繊細なものであると思うからだ。しかし報告書においてそれでは何も伝わらないため、ネパールだから学べたこと、スタディーツアーだから学べたことの2点を記述したいと思う。
 ネパールだから学べたこととして、幸福についての私の考えを述べたい。以前から幸福について興味や考える機会を持ち、何がどうなったら幸せなのだろうと問うてきた。その際、主体的であることが少なからず関係しているのではないかと考えた。主体的であることによって、そこに自分が存在することの証ができ、それに伴う責任、またそこから派生する達成感や充実感が人々の幸福度を高くするのではないかと考えたからだ。しかし今回ネパールでの生活の中で私の答えに一歩踏み出しかけていた見解はまた振り出しに戻ったのだ。
 今回のネパールスタディーツアーの中で、シックレス村を訪問し、2日間ホームステイという形で滞在した。あえて比較すると、日常の自分の生活に比べて不便なことは多くあった。しかし、部屋の木製の窓の隙間や、木を透けさせるように入ってくる光と、心地良いぐらいの足音や話し声で目覚め、部屋を出るとひんやりと澄んだ空気が全身を包み、すっきりとした心で、肩を並べるように大きく聳える山を眺め、雲を見下ろす朝。この、あるがままの姿、なにも考えずに澄んだ気持ちで居られる感覚、生活の中の添えられた自然ではなく、自然の中に添えられ一体化している生活に対し、幸せを感じずにはいられなかった。そして、幸せは定義してはいけない、定義することができないものであると私の中で落ち着いたのだった。そして定義できないものであるからこそ、幸せを感じるか否かは自分次第なのだと言えるのではないだろうか。またそれは、幸せはなるものではなく、するものであるとも言えるだろう。
 スタディーツアーだからこそ学べたことは、ネパール人メンバーとの交流の中の学びにあった。ネパールでの生活初日は、3年越しであったネパールにやっと来ることができたという喜びや、初めて見る景色や空気、そこから受ける刺激に自分の気持ちが対応しきれていなかった。国に対しても、人に対しても、過剰にネパールを意識してしまっていたのかもしれない。そしてこの意識は、何かにつけて「ネパールだから」と、受け入れているようで少し距離をとった見方をさせた。薄いがかなり頑丈な壁を作り、異国であるということを理由に自分の中でフィルターを持った状態で関わってしまっていたのだ。それは、本質や個性を見逃してしまう、もしくは一般化してしまうことに繋がりかねない。
 しかしそれは毎日寝食を共にし、時間や経験を共有したネパール人メンバーたちによってあっさりと取り払われていた。知らず知らずにしていた普段の生活との比較を知らず知らずに止め、あるがままのネパールとあるがままの自分との関係性が構築されていったのだった。彼らが何か特別なことをしてくれたわけではない。ただ、彼らとの関係がネパール人と日本人ではなく、同じ学生、参加者、友達、そして兄弟姉妹のようになっていき、その変化は不思議なほどであった。私は私自身であり、それ自体が特別なこと、だからこそありのままでいてほしいと言葉を贈ってくれたのも彼らの中の一人である。私たちはネパール人、日本人である以前に友人であり、家族のような存在なのだ。ネパール人メンバーという情報でなく、その人自身との関係を築く美しさを彼らから学んだのである。
 ある女性は、世界で最も美しいものは心で感じなければならないと言った。冒頭で述べた通り、ネパールで過ごした時間は私にとって非日常であった。そういった環境が私に様々なことを感じさせ、学ばせたのかもしれない。しかしそれは間違いなく日常であっても同じはずだ。非日常の中で美しいものにであった際に感じる必然性は、もしかすると日常にこそ多く存在しているのかもしれない。

ベトナム VJEP 2017 報告書 (5) 挾土沙詠(上智大学総合グローバル学部1年)「コミュニケーションと協力」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書(5)
「コミュニケーションと協力」

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科1年
挾土 沙詠


プログラム初日、成田空港で初めて日本人メンバーが全員集合した際、私は期待で胸を膨らませていた、とは言えない。心の中は不安で支配されていた。理由は、準備が予定通りに進まず、渡航前に終わらせなければならない準備を追われないまま初日を迎えてしまったこと。そしてその結果、本来渡航前にすべきことをプログラム開始後に取り組まねばならず、プログラムを壊してしまわないだろうかと心配していたことにある。私の不安は的中し、最初の数日間はとにかくドタバタの連続であった。しかし、今こうしてプログラム全体振り返ってみると、わずか2週間にしてはとてつもなく多くの体験をし、正直、限られた字数では書ききれないほどの学びを得た。本報告書においては、私が特に強く感じたことに絞り、3つ取り上げて述べようと思う。
 
1. 異文化交流を通じたコミュニケーションについて
 ベトナムメンバーと初めて対面した際、特に2日目の夕食時、改めて自分自身の英語力の乏しさを痛感したと同時に、対話能力が乏しいことに気づいた。というのは、英語が喋れるか否かという問題以前に、会話を長く続けなければならない状況になったとき、会話を続ける力や弾ませる力、話題を作る力が欠けていた。そのために、会話に微妙な間ができてしまったり、そもそも何を話せばいいんだろうということを考え込んでしまうことも珍しくなかった。振り返ってみると、私は日本でも初対面の人と会話を続けることが苦手であるし、電話をかけることも好まないなど思い当たる節はいくつもある。しかし、これまではいつも楽で居心地のいい空間にいたために気づかなかっただけだ。今回、自分が得意としない英語で話さなければならないという状況に陥って、自分自身の問題点を露骨に感じることとなった。英語で自分のことを表現する力に加え、相手を楽しませる力や、ちょっとした配慮やユニークさが重要だと感じた。
 その一方で、自分の弱点を補うために、非言語表現や感情を共有することによるコミュニケーションの可能性を強く感じた。それは例えば、歌やダンス、楽しさ、怒り、むなしさのような感情を共有する体験である。特に私はダンスが好きで、このプログラムに向けて力を入れて準備してきたこともあり、対人コミュニケーションにおいてダンスが果たす力にの大きさには驚いた。日本人メンバー間でも、ダンスが得意な人も苦手な人もいる中で、最初は見るも無残な状況であったが、現地で練習を重ねる内に上達した。嬉しかったのは、私たちが練習する様子を見たベトナムメンバーが本当に喜んでくれ、私たちのの歌やダンスパフォーマンスを覚えて一緒に参加してくれたことである。さらに、私たちもベトナムで有名な歌の踊りを踊ったり、夜に一緒に歌ったりしたことを通して、言語以外の方法で心が解放され、一気にベトナムメンバーとの距離が縮まるような感覚がした。そこに私は異文化間における表現を通した交流の可能性を感じた。活動中に意見が分かれたり、日常とかけ離れた体験の中で様々な問題も発生し、複雑な雰囲気が漂ったこともあった。そんな時にも歌やダンスの力は大きかった。私自身心の支えとなったし、何よりもその時間はメンバー皆の心がつながった感覚になった。表現によるコミュニケーションは、直接心に響く即効性のある共感を生み出し、大きな効果があるように思う。私は、最終的に一番交流の中で大切なものは互いに互いを表現しあい、共感、共有することなのではないかと感じた。

2. チームワーク
 プログラムではチームで活動する場面がたびたびあった。ベトナムメンバーとの共同活動をうまく行うためにも、まずは日本人同士の連携が重要であった。プレゼンテーションや劇、パフォーマンス、その他にも普段生活を送ることでさえチームで動く必要があったからだ。このプログラムを通して、どうすればチームがうまく動くのか、自分の役割は何か、またその責任について考える機会が多くあった。特に、ベトナムメンバーのチームワークや、パフォーマンス力がとても素晴らしかったため、考えさせられることは多くあった。
 プログラムが始まる前の準備段階では、なかなか皆が集まれず、それぞれが忙しい中で仕事を分担し各自でこなす必要があったが、冒頭にも書いたようにプログラム開始までに十分な準備を終えることができなかった。そして、プログラム中に準備不足が浮き彫りになり、やりきれなさや未熟さをとても感じた。私自身も自分のことでいっぱいになってしまい、自分の中にあるみんなに伝えたいことや素直な気持ちを他のメンバーにうまく伝えられなかったし、さらに、与えられたプログラムを「こなしている」感覚があり、それについての不安や違和感を抱えたまま過ごしてしまっていた。今になってこのことを少し悔やんでいる。この経験から学んだことは、チームワークよく動くためには、当たり前のことではあるが、互いのことを気遣い自分の役割をしっかりと認識し、且つその役割に責任を持つ必要性があるということである。そのためには互いの信頼関係が欠かせず、さらにその信頼関係は十分なコミュニケーションを通して築かれるのだろう。
 私はプログラム中、雰囲気を壊してしまうことを恐れて自分の意見を言わなかった。今思えば、もっと自然体で、思ったことを率直に言えばよかったと思う。さらに言えば、皆が自分の正直な意見を言い合い、互いの意見を尊重し合える集団こそがどの分野においても必要なのだと思う。

3. 協力の難しさ
 ビンフック省での滞在中、ベトナムオーガナイザーとビンフック省の政府の方々が対立するという場面があった。それはスケジュールの変更やベトナムメンバーに対する待遇に対してのものであった。そのトラブルを通して、私は立場の違う人々が協力してプログラムを作り上げることの難しさ、複雑さを知った。今回のトラブルにおいては、すべての関係者がプログラムを成功させるために行動したが、立場や考え方に相違があったことから対立が生まれたというのが私の見解である。
 政府の方々はよりよいプログラムを作り上げるために決定したと思うし、オーガナイザーの学生たちは私たち日本メンバーやベトナムメンバーのことを第一に考えて行動していた。プログラムをよりよいものにしたいという目的が同じであっても、その人の社会的背景や立場によって考え方は異なり、最優先事項も異なる。人々は様々な視点を持っていて、重要だとみなすことも異なる。今回はそれに加えて、プログラムの関わってきた人々がこれまで培ってきた「価値観」という心の奥底までがかかわっていた。様々な価値観を持つ異なる集団が協力して同じ目的を果たすためには、相手の考え方を受け入れる寛容さ、違う立場の人々を尊重する態度、柔軟に物事を考えること、そして信頼関係が必要だと感じた。同時にそれがいかに難しいことかということもを痛感した。これは、多くの国際協力の場面でも当てはまり、私はこれからこのことを真剣に考えていかなくてはならないと思った。日本とは異なる政治体制、社会主義であるベトナムから学んだことは私に様々な課題を与えてくれたような気がしている。

 以上の三点を振り返って改めて思うのは、コミュニケーションの多様さ、重要さ、難しさについて学ぶことが多くあったということである。「交流」という言葉は、概念が明確でなく、このプログラムに参加する前まであまり注目していなかった。しかし、この「交流」を目的としたプログラムを通して、間違いなく貴重な経験をし、大切な人々に出会うことができた。また何よりも大きな収穫は、やさしさとパワフルさ、賢さを備えた素晴らしいベトナムメンバーとオーガナイザー、日本メンバー、サポートしてくれた方々、訪問した学校の生徒、出会うことができ、時間と様々な体験や想いを共有することができたことである。多くの刺激を受け、自分について見つめ直すことができ、今後学ぶべきことを明確化することができた。これからも彼らを通して学ぶことは多いだろう。
 終わりに、このような場を作ってくださった関先生や、日本のAAEE学生アシスタントの先輩方、ベトナムのオーガナイザー、メンバー、日本のメンバー、すべてのサポートしてくださった方々に感謝申し上げます。

2017年10月6日金曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (4) 安蔵啓(成蹊大学法学部政治学科3年)

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(4)

「ネパールスタディーツアー報告書」

成蹊大学法学部政治学科3年 安蔵啓

「ナマステ」この言葉を発するときに、私はいつも笑顔であった気がする。それが「こんにちは」でも同じであろうか。2017年8月は総じて笑顔が多かった。それは私がネパールに居たからなのかもしれない。そう思えるほど私はネパールに恋をした。本報告書において、私がネパールに滞在して感じたことを基に考えたことを記す。

ネパールと日本の差異
 「異文化交流」「多文化共生」これらは近頃話題の言説である。以前と比べて日本に居ても海外の人を多く見かけるし、私たちが海外へアクセスすることも容易になった。ネパールにおいてもそれは同様である。大学生活では上記の言説について学ぶ機会も多い。「多文化共生」「多文化主義」はカナダやオーストラリア、ドイツで盛んに議論されている。今後日本でもよりそのことについて考えなければならない状況になるのは自明である。多文化共生について考えるにあたり、私は日本とネパールの相違点について考えた。特に食事と言語に着目して考えた。
 ネパール人は一日に二度食事をとることが多く、ダルバートを主食とすることが多い。その際にスプーンなどではなく、手で食べることも多い。また1つの皿で盛り付けられることも特徴である。日本では三回食事をとることが基本である。また現代の日本人は米食以外に麺類やパンなどをはじめ小麦を主食とすることも多くなった。食事の際には箸、スプーンなどを用いる。
 私には、食事は日本もネパールも本質的には同じである様に感じられた。しかし、小さな違いの与える影響の大きさも痛感した。それは日本食を食べた時である。あるネパール人メンバーが天丼のつゆを「甘辛い」と表現したのだ。彼らにとって、甘いと辛いが一つの料理の中に共存することが不思議な様だ。普段私が意識したことのないことに気が付かされた一コマであった。実は、味付けの繊細さや複雑さ、或は細々とした食事作法は生活習慣を含めた文化、伝統に結びつくのである。味にせよ作法にせよ細かく規定されることで、食事や料理に目には見えない風味であり、見た目の美しさであり、バラエティーをもたせるのである。私にはその様に感じられた。
 しかしこのバラエティーに何かの意味があるわけではない。例えば米粒を残さない事は「もったいない」という観点から日本で大切にされる。しかし、そこに価値があるというわけではないのだ。習慣として「それはそれである」ということに過ぎない。即ち、ネパールにおいてそれがなされていなくとも私たちがその行為を評価するに値しないのだ。重要なのはどちらかが優れているとか素晴らしいとかではく、その違いを単に認識することである。無意識のうちに自分の尺度で測るのではなく、ありのままを脚色せずに受け付けることが大切だと考えた。
 次いで言語についても考えた。ネパールで話される言語は多数存在する。私の知る限りでも「ネパール語」「グルン語」「ヒンズー語」「英語」など多岐に渡る。多民族国家であるネパールでは言語も民族と同じく多数存在するのだ。それの良しあしについてここでは問題にしない。私が着目したのはヘゲモニー言語としての「英語」や「ヒンズー語」の存在がネパールにどう影響しているのかということである。私たちはネパール人メンバーと英語でコミュニケーションを図った。不十分な英語でも何とか意思疎通することができた。しかしネパールの現地人との会話には難儀した。英語が通じず、英語の質問にネパール語で返事をされることもあった。不便である。英語話者が来日した際に「日本では英語が通じない」とよく言う。きっと日本も私がネパールで感じたような不便を非日本語話者に感じさせる社会なのであろう。
 しかし、非ネパール語話者に不便であるその状態は「克服」されなければならない社会課題なのであろうか。私は必ずしもそうだとは考えない。「グローバル社会に英語は不可欠」だとよく言われる。そこへの賛否は分かれるが、英語が話せる方がコミュニケーションを取りやすいことは事実である。容易なコミュニケーションを目指すことは否定しない。しかし、そのことによって固有の言語が衰退することは避けなければならない。ネパールではヒンズー語のテレビ番組を見ることが当たり前だそうだ。「これは由々しき事態ではないか」私にはそう思われた。娯楽へのアクセスに母語ではない言語を要することが、果たして健全であろうか。このままだとネパール語の価値が否定されてしまうのではないだろうか。ビジネスには英語、娯楽はヒンズー語という状態を野放しにすることはネパール語の衰退を招きかねない。ネパールに滞在して貴重な言語・文化を残すことが重要だと感じた。その合理的方法は存在しないかもしれない。それでもネパール語の衰退が起こらないように気を付けなければならないと考える。

 「40年前のカトマンズを見たい。」その一言は私の手に目頭を覆わせた。ないものねだりではあるが、時間に逆らうことはできない。時間だけでなく、金や権力にまで束縛される人間はもう「ヒト」ではなくなったのかもしれない。なぜ生きるのか、何をするのか、何でいるのか。改めて考えるいい機会であった。
本プロジェクトに携わった全ての方に「笑顔」でありがとうを伝えたい。そう思えるツアーであった。

2017年10月5日木曜日

ベトナム VJEP 2017 報告書 (4) 畢暁慧(上智大学総合グローバル学部1年)「AAEE VJEP 報告書」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書 (4)

「AAEE VJEP 報告書」 

上智大学総合グローバル学部
1年 畢 暁慧 

初めてのベトナムへの渡航。このプログラムにおけるベトナムでの二週間にわたる生活は、終始忙しく、想像を絶する疲労を参加者全員が感じていたと思う。だがしかし、一緒に渡航した仲間や現地の参加者と共に、充実した日々を過ごすことができ、またベトナムでの生活を満喫することができたということも事実である。ベトナム側の参加者、そして日本側の参加者が共に生活をし、親睦を深め、この企画をやり遂げたということはこれから国際社会への参加を志している者にとって重要な糧となると信じている。今回の渡航でわたしたちは、ホーチミンとビンフックの二つの地域に滞在し、この地でわたしたちは、わたしたちの企画を超えた驚くべき体験をした。わたしたちが、この二週間なにをして生活していたのか、またこの生活の中でなにを学び、その学びに対してどう思いを抱き、どう感じたのか。細かく明確に、そして正直に述べていこうと思う。
 今回、このプログラムに参加し、特に印象に残った経験。それは、ベトナムが社会主義国家であるということを肌で感じたことである。大抵、旅行程度では感じることはないが、ベトナム政府との連携のあるプログラムであったため、特別でとても貴重な経験をすることができた。 また、この経験により、わたしは民主主義の国、社会主義の国での生き方の違いをしっかり身をもって理解することができた。彼らの様子がどこか変だということは気づいていたが、わたしが思いを巡らしていたようなことではなかった。ビンフック省での滞在中、わたしたち日本 人の知らないところでベトナム参加者たちはベトナム政府に対して、怒りを覚えていた。彼ら が怒りを覚えていたのは、あらかじめ決められていたスケジュールの変更を繰り返し行ったからである。わたしたち参加者が準備をしていたプレゼンテーションの実施が危うくなったことや、ホストファミリーとのクッキングコンテストの時間の短縮など、様々な要因が挙げられる。 日本人参加者がこの事実を知ったのは、ビンフック省での滞在の終盤にさしかかったところだった。わたしは、なにか慰めの言葉をかけることができたわけでもなく、ただただベトナム参加 者の言葉を聞くことしかできなかった。これが、社会主義国家での生活なのだと感じた。
 現在、ベトナムは発展途上国として大きな成長を遂げているが、公共の交通機関が発達していないように見受けられた。ベトナムでの移動中最も驚いたこと。それは、道路を埋め尽くす大量のバイクである。朝の通勤の時間と重なると、大量のバイクの群れが車を囲い、すれすれを走っている。発展した都市では多くの人が集まっている。そして、その人口増加により、交通渋滞の問題が深刻化しているのだ。さらなる発展・飛躍を遂げることで、この問題を解決に導いてくれるのではないかと思う。
 そして、わたしが最も不安を抱えていた面。それは、英語での会話やプレゼンテーション、 ディスカッションである。はやり英語での会話を強いられた生活のあとに感じるのは、自分の英語力がどのくらいであろうが、英語を話せる話せないということも関係なく、どれだけ自分 が積極的に相手に話しかけるか、そして、その際にどれだけ自分が相手と話を続けたいという意思表示ができるかが大切であるということである。自分が相手に対して積極的に話しかけることで相手が自分に興味を持ってくれているということが認識でき、同時に相手が自分に興味 を持ってくれるようになる。この相互の意欲が、お互いの英語力(英語力には限らない)を伸ばすきっかけとなると思っている。今回のプログラム中、大勢で盛り上がっている場で楽しく英語を話すことはできたが、マンツーマンでシリアスな話の内容になると途端にわたしは言葉がでなくなってしまった、そして、その話を軽く受け流すしかなかった。加えて、わたしには何 度か発言をする機会が回ってきたのだが、積極的に話しに参加することができなかった、これは、わたしの苦手な面を克服すべく行動にうつすことができなかったということである。これらは、今回の渡航の間で最も反省した部分でもあり、これからこのような場を多く設けていき、他の参加者のように自分の思ったこと、感じたことをその場でしっかり伝えていけるような人材になる必要があると再確認させられ、より明確な目標をわたしにもたせてくれた経験でもあった。
 最後に、ベトナムでの二週間の生活はわたしにとって、とっても有意義なものになった。なぜなら、今までわたしの知らなかった世界を見せてくれたからである。なにもかもが新鮮な経験で、わたしは狭い世界を見ていたのだと気付かされた。日本というとても恵まれた国に住み、恵まれた環境で育ち、先進国へとしか渡航経験がなかったわたしは、このプログラムに参加し、実際にベトナムで生活を送ることが原点となり、東南アジアに強く興味を抱くことができた。 このプログラムでしかできなかった経験ができた。そして、ここでの経験が少なからずわたし を成長させてくれ、わたしの経験値を得たのは事実である。この経験を無駄にしないために、伝えるだけでなく、このアジアで起こっているローカル問題、グローバル問題への取り組みに携われるような人材となれるよう日々精進していきたい。
 今回のプログラムにおいての情報が少ないなか、わたしの成長のため渡航を認めてくれた両親、そして一緒に渡航した仲間、ベトナム現地でわたしたちを支えてくれていた参加者、そしてわたしをこの二週間で一回り大きく成長させてくれたプログラムを設立した関教授、全員に 感謝の気持ちを伝えたい。
尊敬できる人に出会えて良かったです。
本当に有難うございました。

2017年10月4日水曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (3) 大瀬朝楓  (上智大学総合グローバル学部1年) 「ありのままで」

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(3)
「ありのままで」

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科1年
大瀬朝楓

 ネパールで学生交流ができる魅力に参加を決意し、現地での約2週間は経験した全てのことが楽しかった。ネパールの環境や空気、出会う人々の不思議な魅力に引き込まれた。しかし、「ネパールに行って何をしてきたの?」と聞かれた時にうまく答えられないのは、一歩引いて行動してしまう私が、何もできず、自分自身を変えられなかったからだと思う。日本に帰国し、2週間を振り返ると、あの時こうすれば、こんなことを話したかったと後悔することがたくさんある。お互いのことをよく知らないネパール人と日本人とずっと一緒にいながら、変わらなければと思い、自分の壁を壊そうとする反面、壊すのが怖い自分と葛藤しながら日本に帰って来てしまった。
 私と誰かでは全く異なるパーソナリティをもち、日本人同士でさえ違いを理解することは難しい。国が異なれば、生きてきた道はもっと違う。自分の当たり前は、当たり前ではない。理解してくれるだろうという思いだけでは伝わらないし、先入観から自分の価値観でしか物事を判断できなくなってしまう。そうならず、相手の魅力を引き出すためには、何よりも自分の壁を壊し、相手にありのままの姿を知ってもらうことが必要だったと、ツアーを通じ、またネパールメンバーからのメッセージを読み返して痛感している。
 ネパールに行ったことで学んだことは数え切れないが、異なる環境の子ども達に出会って受けた衝撃とその子ども達の将来の夢について書きたい。
   Deaf school(聾学校)に通う子ども達と交流した際、音は聞こえるし、喋ることもできる社会的にはマジョリティのはずの私は、Deaf schoolにいる間は圧倒的なマイノリティだった。ネパール語を流暢に話せない私にとっては、珍しい日本人である私たちに必死に伝えたいようとすることを、表情や行動の全身から読み取ろうとした良い環境だった。ダンスやスポーツをしている時は言葉なしにコミュニケーションができて、本当に楽しかった。同年齢くらいの男の子たちと遊び、丁寧にサッカーのコツまで教えてくれた。言葉がなくても繋がることができる。笑顔で一緒に遊んでいる彼らは、私と変わらない学生である。しかし、聴覚に問題があり、ネパールで生活しているという差異が将来を左右してしまっている現実を感じたのが、将来の夢の話である。「将来の夢は何?」と聞くと、「わからない」「そんなものないよ」と自分の将来をどこか諦めたような表情をして、勉強しないと他の人には勝てないから、もっと勉強を頑張りたいと訴えてくれた。それでも中には、「サッカー選手になりたい」と紙に書いてくれた男の子もいた。自分で質問していながら、この後にうまく言葉をかけられないもどかしさを痛感した。Deaf schoolで出会った子供達の夢は、翌日に行ったShamrock Schoolで出会った、素晴らしいプレゼンをし、英語も堪能な優秀な子ども達とは対照的なものだった。(※Shamrock Schoolは外国人の支援によって運営されている小規模私立学校。経済的に恵まれないが学習意欲旺盛な子どもを選抜し全寮制で教育している。)
 時計がなく、自然と一体となったような生活を送ったシクレスでの3日間のホームステイ。JEEPで何時間もかけて登って来た場所にあるこの村では、全てがオーガニック、自給自足の生活である。ママとパパと一緒に暮らすホストシスターとブラザーの幸せそうな姿に何度もほっこりした。子ども達は、村の学校に通っているが、学校に行く前にはトーシャンクラスという学校に行く前にエキストラクラスに通っていることを知り、私は驚いた。そんなホストシスターの夢は、「研究者になること」。本当になれるかわからないと漏らしていた彼女であるが、私が同じ言葉を言う意味と訳が違う。シクレスでの生活の中で、貧困の苦しさを感じることはほとんどないくらい人々は温かく、素敵な村である。しかし、彼女のこの一言が、私の心を打った。ホストシスターの将来の夢も、ネパールで出会い、私に夢を語ってくれた子ども達の夢が叶うことを心から祈っているが、今は祈ることしかできない自分の無力さを痛感している。生まれた環境に関係なく、子ども達が将来の夢をもち、叶えられる社会を目指したいと改めて思った。
 「幸せとは何だろうか?」私はいつもこの問いについて考える。自分の幸せと人の幸せの尺度を測ることは難しいし、比べるものでもない。そう感じる瞬間が人によって様々であり、絶対的なものがあるわけではない。
 経済的に発展した環境で、手に入れようと思えば、欲しいものは手に入れられる今の私の生活。当たり前がいかに幸せなことかを見失い始め、今あるものには目を向けられずに、満ち足りない気持ちだけが増えていく。些細な幸せに、幸せを感じず感謝できなくなってしまってはいないだろうか。ネパールのスタディツアーでは、出会えた人々と、毎日に幸せを感じられる場所だ。笑顔で接してくれたネパールの人々、子ども達は本当に幸せなのだろうか。笑顔でいるから、幸せなのだろうか。次は私の壁を壊し、ありのままの私で、アクションを起こせるようになりたい。笑顔の先にある、人々の本当の気持ちの部分に寄り添えるようになりたいと感じた。

ベトナム VJEP 2017 報告書 (3) 中里咲季(上智大学総合グローバル学部1年)「初めて触れたリアルな東南アジア」

VJEP 2017-ベトナムプロジェクト報告書


「初めて触れたリアルな東南アジア」

上智大学 総合グローバル学部
総合グローバル学科1年
中里 咲季

1、参加を決意するにあたって
 私にとってこのVJEPのプログラムで訪れたベトナムは5か国目の外国であった。さらに、東南アジアに限ると3か国目である。カンボジアとタイへ訪れたときは、旅行会社や高校の研修を利用しての渡航であったが、その国で生活をする同じ世代の人と交流する機会はほとんどなく、せいぜい高校訪問をして数時間歌やパフォーマンス、伝統的な遊びや衣装を着せてもらったくらいだった。それでも、ボランティア活動や国際協力の現場を目にしたり観光をしたりする中で人々が熱く発展に向かっている様子などを肌で感じて東南アジアが大好きになった。
 しかしその一方で、旅行会社が企画したプログラムでは孤児院訪問をしてカンボジアに存在する貧困を「見せられている」と感じることがあった。高校のプログラムも同様だ、どちらも学ぶことは沢山あったのは事実であるが「作られている、あるいは私たちが求めているものに合わせた現場」を見せられたのであって、本当の現場を見たのではないと違和感を持った。もちろん、その現場には解決しなければならない課題もたくさんある。高校時代の2回の東南アジアへの渡航やその他の活動を通じて私は、国際問題の根やその問題が解決しない構造を見つけ出せる人になりたいと考えるようにもなった。
 そこで、自身が東南アジアにおいて課題だと考えていることを現地の同世代はどう考えているのか知りたいと強く思い、まずは彼らと友達になりたいと考えた。なぜなら、日本で生活をしている私が考えられることやできることは限りなく0に近くて本当に状況を変えていくのはその国の次世代を担っていく学生だと考えるからである。さらに、親しくなることによってよりリアルな本音で話しあうことができるのでないかと考えたからである。私がこのプログラムに参加することを決めたのは、昨年参加した信頼する先輩の紹介があったという事とこの思いに尽きる。(実際はVJEPが今年度も開催されると耳にして、その場で参加をほぼ決めたのでただ「面白そう」というのが理由で、この理由は後付けかもしれないが。)

2、ベトナムから見た日本
 空港を出て一番に目に飛び込んできたのは、日本企業の広告だった。また空港からホテルへ向かう途中で日系のデパートや、日本からの国際協力をもとにして建設している途中の建物、日本食のレストランなど日本に関連しているものが多くあった。ベトナムで日本を感じられるのは、街並みだけではなかった。ベトナムの参加者のうち2人は、日本語検定で一級を取得していた。さらにほとんど半数の参加者は日本語を学習していた。訪問先の高校でも、日本語で話しかけられることも多く驚いた。 
 私は東南アジアでは日本が戦後、急速に経済発展する様子を見て再び植民地化されることを恐れて反日の動きがあったと耳にしたことがある。それは、日本が東南アジアと友好関係を築こうとして行なっている事業での出来事であるが、石を投げつけられたこともあったそうだ。それでも、あくまでも私の主観でしかないが、ベトナムで出会った学生たちは日本人である私たちに興味を持ってくれたのではないだろうか。
 昔の状況からどのようにして現在の日本に対する印象が変わったのか、はっきりとは分からない。それでも、これからも急速に経済発展をする日本とも地理的に近いベトナムという国、東南アジアという地域は私たちにとってとても重要になってくると強く感じている。そんな国の同世代の学生とともに過ごした2週間で学んだことはあまりにも多すぎて、うまく文章にすることは出来ない。しかし「見せられて」いる表層的なベトナムではなく、ともに生活をともにして肌で感じたベトナムであり、そこで生活をしている人との交流でしか知ることの出来ない「リアルな」ベトナムを体験できた。

3、ともに生活をして目にしたベトナム
 私たちが2週間をともに過ごしたのは、ホーチミンの大学に通っていてとても優秀な学生たちだった。彼らの方が英語力に長けていて、説明の英語が分からないときも学生に聞いたら分かりやすく簡単な英語で説明をしてくれた。また何度もあったスケジュールの変更にも柔軟に対応してプレゼンテーションの方法を1日で改善してしまうなど驚かされた。それでいて、日本に関する経済や政治などの知識も豊富で学習意欲がとても高かった。しかし、彼らの中で留学をしたことのあるメンバーはほとんどいなかった。ベトナムでは、英語が話せなければ良い職に就くことができないから、日本語が話せるとさらに給料が高くなるからと彼らは話してくれた。私は、日本にいて異文化交流や留学、インターンシップなど様々な課外活動の機会に恵まれていたり、英語力も高めたりする時間も環境もあるさらに、学問的な本も日本語でいくらでも勉強できるからうらやましいと言われた。そんな環境にいるのにも関わらず大学に入ってからただ平然と時間を過ごしてきた自分が情けなくなった。
 彼らの目指している先には日本があって、それに向かって日々大学で学んでいたり英語を学ぶためにクラブや学校に通ったりしている。さらに、就職ではインターンシップや学生交流など課外活動が重視されるためそれらの活動も盛んにしていた。2週間を通じて、ただただ彼らに圧倒され続けていた。そんな勉強熱心で社交的でいてさらに明るい、尊敬するベトナムメンバーとオーガナイザー(このVJEPのプログラムに向けて、仕事をしながらも準備を進めてくれた)であったが、ビンフックでの活動では様々な困難があった。
 ビンフックでの活動では、ベトナム政府の人がアレンジした活動が主に行われた。あらかじめオーガナイザーと政府の人が話し合ってスケジュールが日本人メンバーのために組み立てられていたのだが、このプログラムが始まる寸前から何度も変更が行われた。さらに、訪問先の高校や活動場所でも日本人メンバーの席しかないことや、ベトナムメンバーが練習していたパフォーマンスが削られてしまうことが続いた。さらに、政府の人と会議をすることが突然決まったこともあった。ベトナムメンバーはこれらに関して、不満を口にすることがだんだんと多くなった。そうした中で、社会主義国と分類される国であるベトナムで生活をしていく上での、特有の文化についてまた彼らが持つ個人的な悩みや葛藤についてもリアルな話を聞くことが出来た。話を聞いたからといって、特に何かが自分に出来るなんて到底思わないが、なかなか実際に体験できない貴重な機会だった。

 最後に、ここで文字に起こしたことだけでなく日々友達と体験したことを共有したり、本を読んだりしたりする中で考えさせられる体験をたくさんしてきた。このプログラムの一番の目的は「仲良くなる」ことだ。仲良くなることで築いた強い友好関係をもとに、少し難しいテーマについて話しあったり国際問題について議論したりすることで少しでもそれらの解決や改善に近づけると考える。
 このような素敵な機会を与えてくださった関先生、大変なこともたくさんあったけれど私たち参加メンバーを支えてくれたオーガナイザー、私の尊敬する大切な友達であるベトナムメンバー、日本メンバー本当にありがとうございます。

2017年10月2日月曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (2) 岡山千紗(上智大学神学部1年)「宗教と文化の視点からの考察」

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(2)
「宗教と文化の視点からの考察」

上智大学神学部1年
岡山千紗

 今回、Mero Sathiプロジェクトを通して沢山のことを肌で吸収しました。その中でもネパールで一番日本との違いを感じたことは、宗教に対する認識でした。人々が宗教と共に生きることに対してある種の誇りを抱いていることが伝わる場面に何回も遭遇することができました。また、「文化」というつかみどころのない概念にとらわれている自分自身を見つめなおすことができました。今回の報告書では、「宗教」と「文化」の二点の視点から私なりに今回のプロジェクトを考察したいとおもいます。
1)宗教と共に生きる
 はじめに「宗教」をネパールで感じたのは、ネパール人メンバーと食事を共にしたときでした。食事を頼む際に、隣に座ったネパール人メンバーが「今日、ベジタリアンの人~?」とメンバーに呼び掛けているのを聞いたときに、確かにヒンディー教やイスラーム教、仏教のメンバーがいるのは当たり前だと納得すると同時に、少しの違和感を覚えました。それは、「今日」という言葉に対するものでした。私のヒンディー教やイスラーム教、仏教に対する理解は、「豚肉や獣肉を食べてはいけない。また、殺生を嫌う。」というものでした。それは、とても教科書的なものであり、現実は少し違いました。ヒンディー教のネパール人メンバーの女の子は、火曜日と木曜日はベジタリアンの日として親などによって決められた訳ではなく、自らの信仰に基づいた意思で決めたそうです。
 日本では、宗教と共に生きることは人生をかけたとても大きな決断であるように感じますが、彼らにとっては宗教なしで生きることは想像がつかないことである様子でした。特定の宗教を信仰していない旨や、現在神学部でキリスト教について学んでいることを伝えると、どんな内容を学んでいるのか興味津津で沢山の質問をしてくれました。また、私の学んでいることに深い理解を示してくれたように思います。日本で、神学部において宗教を学んでいることを人に伝えると、宗教は洗脳である。とか、宗教を学んだところで役に立たないと否定されることがしばしばあるので彼女の反応は新鮮なものでした。
 そして、彼女には何度も特定の宗教を持つことを強く勧められました。私の宗教に対する認識は、大学で宗教を学んでいる身でありながらも、人々の心を癒し平和な世界に導くものであるとともに恐ろしい一面も持っているというものでした。特定の宗教を持つことで視野が狭くなってしまうのではないかと思っていたのです。しかし彼女にその思いを伝えると、特定の宗教を持ち信仰をするからこそ、相手の宗教を信仰する心を理解し、尊敬することができると伝えられました。日本人は、特定の宗教を持っていないからこそ公平な目で多くのものを吸収することができると思います。しかし、生きる理由や、人生の指針を宗教においている人々を真の意味で理解するためには、彼女の言うことも一理あると感じました。この視点を持っている日本人は非常に少ないのではないでしょうか。宗教に対する新たな視点を与えてくれた彼女には感謝しています。

また、小学校でこいのぼりプロジェクトを行った時、子供たちが、「ブッタはネパールで生まれた」や、「ジ―ザス」、「仏」等の言葉を日本語で書きたいと言ってきたことにとても驚きました。彼らの土地に根付く宗教信仰は決して恐ろしいものではなくて、心や生活にそっと寄り添うものであると感じました。宗教を一言で語ることはできませんが、今回肌で感じたことはこれからの学びに活かしていきたいと思います。

2)一国の中にある異文化
 今回ネパールと日本の学生間の異文化交流が一番の目的だったと思いますが、12日間ネパール人メンバーと生活して強く感じたことは、ネパールの中に多々存在する異文化でした。都市に住むネパール人メンバーにとっては、シックレスでの生活はほとんど異文化であり、デフスクール(※デフスクール=聾学校)への訪問も彼らにとっては異文化空間であったのだと感じます。異文化交流と聞くと少し身構えてしまいますが、生きてきた世界(世間)が違う人同士が交流することもある種の異文化交流であると感じました。そのため、都会育ちの彼らもシックレスの村での暮らしになじむことができずに、アンマー(ネパール語でお母さんの意)がダルバートを、火をおこして作ってくれるのを見ながら語り合うこともあまりしませんでした。ネパール人メンバーがアンマーのダルバートをよく残したので、ダルバートが大好きな彼女になぜ残したのかと聞くと、家の中で火をおこすことで煙が肺に入って病気になってしまうことや、見たことのない青草が入っているからという理由でした。
 デフスクールにおいても行きのバスでネパールの障害者がおかれている状況について私たちに語るとともに、自分はあくまで健常者であり今まで障害を負った方と触れ合うことを避けていたと語ってくれました。デフスクールで障害を負った方と触れ合うことはネパール人メンバーにとっても新たな文化圏を知る一歩であったのだと感じます。
 日本においても、私たちが主体的に農村での暮らしの状況やろう学校の様子を知るために訪問し、触れ合うことがあるでしょうか。私たちは、異文化交流と言うと多くの場合外の世界との交流を思い浮かべます。しかしながら、異文化は私たちのすぐ隣に広がっているのです。確かに、ネパールを初めとする海外の状況を見て肌で感じることも必要であると思います。しかし、それに付け加えて自分の国にある小さな異文化圏に気付き、自ら歩み寄り知ろうとすることもまたこの国に生きるものとしての義務なのではないでしょうか。
 グローバルな時代になり、グローバルな人材が求められている今だからこそ「外へ外へ」と歩みを進める前に、自国に存在する多くの異文化に気付ける人間になりたいと思います。ネパールでネパール人メンバーと過ごす中で見えた様々な文化を通して日本を見てみるとまた新たな発見があってとても面白かったです。