2017年10月8日日曜日

ネパール Mero Sathi Project 2017 8月 報告書 (5) 小谷風葵(上智大学総合グローバル学部3年)「ネパールだから学べたこと、スタディーツアーだから学べたこと」

Mero Sathi Project 2017 8月 報告書(5)
 

ネパールだから学べたこと、スタディーツアーだから学べたこと

上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科3年 小谷風葵


ネパール滞在中、その場にいて皆で時間を共有し、お互いに名前を呼びあうことが心地よく、非日常的な経験から刺激を受け、それらの中で明確な何かを得ることはなくても、ぼんやりと、しかし確実に存在する何かを得た。この何かはあまり明確にはしたくない。それほど複雑で繊細なものであると思うからだ。しかし報告書においてそれでは何も伝わらないため、ネパールだから学べたこと、スタディーツアーだから学べたことの2点を記述したいと思う。
 ネパールだから学べたこととして、幸福についての私の考えを述べたい。以前から幸福について興味や考える機会を持ち、何がどうなったら幸せなのだろうと問うてきた。その際、主体的であることが少なからず関係しているのではないかと考えた。主体的であることによって、そこに自分が存在することの証ができ、それに伴う責任、またそこから派生する達成感や充実感が人々の幸福度を高くするのではないかと考えたからだ。しかし今回ネパールでの生活の中で私の答えに一歩踏み出しかけていた見解はまた振り出しに戻ったのだ。
 今回のネパールスタディーツアーの中で、シックレス村を訪問し、2日間ホームステイという形で滞在した。あえて比較すると、日常の自分の生活に比べて不便なことは多くあった。しかし、部屋の木製の窓の隙間や、木を透けさせるように入ってくる光と、心地良いぐらいの足音や話し声で目覚め、部屋を出るとひんやりと澄んだ空気が全身を包み、すっきりとした心で、肩を並べるように大きく聳える山を眺め、雲を見下ろす朝。この、あるがままの姿、なにも考えずに澄んだ気持ちで居られる感覚、生活の中の添えられた自然ではなく、自然の中に添えられ一体化している生活に対し、幸せを感じずにはいられなかった。そして、幸せは定義してはいけない、定義することができないものであると私の中で落ち着いたのだった。そして定義できないものであるからこそ、幸せを感じるか否かは自分次第なのだと言えるのではないだろうか。またそれは、幸せはなるものではなく、するものであるとも言えるだろう。
 スタディーツアーだからこそ学べたことは、ネパール人メンバーとの交流の中の学びにあった。ネパールでの生活初日は、3年越しであったネパールにやっと来ることができたという喜びや、初めて見る景色や空気、そこから受ける刺激に自分の気持ちが対応しきれていなかった。国に対しても、人に対しても、過剰にネパールを意識してしまっていたのかもしれない。そしてこの意識は、何かにつけて「ネパールだから」と、受け入れているようで少し距離をとった見方をさせた。薄いがかなり頑丈な壁を作り、異国であるということを理由に自分の中でフィルターを持った状態で関わってしまっていたのだ。それは、本質や個性を見逃してしまう、もしくは一般化してしまうことに繋がりかねない。
 しかしそれは毎日寝食を共にし、時間や経験を共有したネパール人メンバーたちによってあっさりと取り払われていた。知らず知らずにしていた普段の生活との比較を知らず知らずに止め、あるがままのネパールとあるがままの自分との関係性が構築されていったのだった。彼らが何か特別なことをしてくれたわけではない。ただ、彼らとの関係がネパール人と日本人ではなく、同じ学生、参加者、友達、そして兄弟姉妹のようになっていき、その変化は不思議なほどであった。私は私自身であり、それ自体が特別なこと、だからこそありのままでいてほしいと言葉を贈ってくれたのも彼らの中の一人である。私たちはネパール人、日本人である以前に友人であり、家族のような存在なのだ。ネパール人メンバーという情報でなく、その人自身との関係を築く美しさを彼らから学んだのである。
 ある女性は、世界で最も美しいものは心で感じなければならないと言った。冒頭で述べた通り、ネパールで過ごした時間は私にとって非日常であった。そういった環境が私に様々なことを感じさせ、学ばせたのかもしれない。しかしそれは間違いなく日常であっても同じはずだ。非日常の中で美しいものにであった際に感じる必然性は、もしかすると日常にこそ多く存在しているのかもしれない。

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