「一員という意識と、学生交流の今後の可能性」
上智大学総合グローバル学部
総合グローバル学科2年
吉川 夕葉
吉川 夕葉
はじめに、このAAEE主催のプログラムは、アジアに住む学生同士の交流促進を目的として企画されたものである。それぞれ同じ人数の日本人学生とベトナム人学生が寝食を共にし、ベトナム国内を移動しながら2週間交流をはかるという内容である。さらに今回は「伝統産業を残すべきなのか、またどのように継承していくべきか」というテーマで、プログラム終盤に予定されていた発表に向けてリサーチを重ねる、というグループワーク課題が課されていた。
今回私がこのプログラムに参加した理由は、前回のネパールでのプログラムに参加した際に学生交流の大切さを実感し、もう一度体験したいと思ったため、そこから派生して人間同士のつながりに関心を抱いたため、の2点である。本稿ではこれらの動機に基づき、私がプログラムを通して考えたことについて述べたい。
まず、プログラム中に考察したことの一つが、社会の動きと人間の関係性についてである。プログラム中の様々な出来事から、人間同士のつながりで「社会」が生み出されるということを実感したため、このことについて考察した。プログラム中の出来事というのは、例えばメンバー同士で踊り、チームの雰囲気を盛り上げる、という場面があげられる。この場面において、当事者である各メンバーは踊るか、または手をたたくなどして盛り上がっている雰囲気作りに貢献する必要がある。メンバーである限り雰囲気作りに貢献することは義務であるといえるだろう。しかし誰かが盛り上げようと決めたわけでもなく、雰囲気を盛り上げなければならない状況になったわけでもない場合、この盛り上がっている雰囲気作りは自然と生じたものであり、いわばメンバー間で暗黙下での合意や目的の一致がなされ、それぞれが自発的に雰囲気作りに貢献している状態であると言える。そしてそれぞれの貢献する行動が積み重なり、雰囲気が盛り上がるという結果およびチーム内の雰囲気の変化へとつながっている。
つまりメンバーは、雰囲気作りへの貢献という義務を、義務だと認識することなく自然と行動に移していたことになる。また、メンバーとしての義務を果たしているということは、自分がメンバーの一員であるということを自覚しているともいうことができる。さらにその義務を無意識的に果たしているとすれば、無意識のうちに自らがメンバーの一員である認識していると考えられる。
このような一連の流れを社会という大きい規模に置き換えると、まずこの社会の中に生き、労働や消費活動などによって少しでも社会に影響を与えている私たちは、社会の一員であると言える。社会の一員である私たちは、社会の動きに対して、社会を動かしている一員であるという自覚をもち、当事者意識に基づいて社会を動かす活動に参与する義務がある。社会の動きはチームの雰囲気作りと同様に、社会を動かすための行動や、方向性が決められているわけではないため、一員である私たちの行動の積み重ねによって成立している。そして、当事者意識をもつということは、その社会で起こった出来事を自分事として捉えなくてはならない。チームの動きに比べ、社会規模では自分には関係ないと感じられることが多いだろう。規模が大きくなるにつれて自分事のように捉えにくくなるのである。その社会という規模がより大きくなった例が、世界全体である。どこかの国で戦争が起きていても、自分事のように捉える人は少ないだろう。日本国内でさえも、東京に住んでいる私たちにとっては北海道で起きた地震はどこか他人事のように感じるのではないだろうか。
しかし、なぜチームの動きだとほぼ無意識のうちに自分事のように感じて、チームの動きに貢献することができるのだろうか。この、規模の大きさによる差や自分事のように捉えることが難しくなる境界線は一体どこであるのだろうか。おそらくその境界線の位置は個人差があると推察できるが、その境界線の幅は経験によって変化するのだろうか。私自身がチームの動きにメンバーとして貢献するということが苦手であると感じているため、このプログラムを通じて他のメンバーが無意識に行動できている様子に強い関心を持った。これらの疑問に対する自分なりの結論を見出し、改善していきたいと思う。
上記のようなことを考えたのには、もう一つ理由がある。それは、ネパールでの学生交流活動とベトナムでの学生交流活動において、私の関わり方や見えてきたものが全く異なったことである。ネパールでの活動では、私は学生リーダーという立場であり、チームのことを主体的に考えていた。しかし、ベトナムでの活動ではいちメンバーとして存在し、振舞う必要があり、このメンバーとしての行動に非常に苦難した。メンバーであるという意識を持つことにより、ネパールでの活動時よりもチームを内部から見つめることができたことは私にとって有意義な体験であったが、半年に及ぶ活動では、結局うまくメンバーとしてチームに貢献することができなかったと思っている。しかし、メンバーとして持つべき意識に気づけたことは、私がこのプログラムで得ることのできた大きな学びの一つであったと思う。
次に、グループワーク課題をこなしていく上で感じたことについて述べたい。
最初に述べた通り、今回のグループワーク課題は「伝統産業を残すべきなのか、またどのように継承していくべきか」というテーマに沿って、実際に伝統産業を現在も行っている工場などを見学した。リサーチ活動については省略するが、リサーチ後にグループとしての結論を出すために行った議論を通じて感じたことがある。それは、日本でもベトナムでも、考えている解決策は同じものである、ということだ。世界的には、日本は先進国、ベトナムは発展途上国であるという認識がされている。しかし、このテーマについて議論する際に出てきた意見は、ほぼ教科書通りであると感じてしまうほど同じであった。ここで考えたのが、先進国に住む学生も発展途上国に住む学生も同じことを思い浮かべるほどその解決策が普遍化しているのにもかかわらず、未だに解決されない問題が残っている、ということである。そうすると、その解決策はもはや良い解決策であるとは言えないか、もしくはその解決策をうまく実行できていないかのどちらかであると考えられる。グループ内だけではなく他の大学の学生とも議論する機会があったが出てくるのは同じ意見であり、新鮮味がまるでないように感じられた。その解決策についてさらに深く議論することでより良い解決策を見出すことができる可能性もあるため、今後の学生交流活動では、他国の学生同士が意見を交わす、ということに焦点を絞りすぎるのではなく、ある一つの問題や解決策についてより深く一緒に考察していくことが重要となるのではないだろうか、と考える。そうすることで、世界的な問題に対するより良い解決策を見出すことができるのではないだろうか。
これらの考察をまとめると、私は今回のプログラムを通じて、ある一員としての意識や社会に対する義務への気づきと、今後の学生交流活動ではより深く発展した議論が重要であるという2点を学び得ることができた。今回のプログラム終了後も社会の一員としての行動や、世界の一員である学生同士の交流の可能性について考えていきたい。
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